尾崎士郎、イケメン作家で男性に人気?吃音を味方に。宇野千代との結婚と別れ。古賀清子と再婚。晩年と死因?昭和の文壇での存在。

ブラッサム

昭和初期の文壇を代表する作家・尾崎士郎。

端正な容姿と確かな実力で知られる彼は、実は女性よりも男性から慕われた「親分肌」の人物でした。

檀一雄ら後輩作家を支える一方、私生活では宇野千代との結婚と破局、古賀清子との再婚など波乱の連続。

吃音を「得をしている」と語った意外な素顔や、口述筆記で書き続けた病床の晩年も紹介します。

ドラマ『ブラッサム』をきっかけに、尾崎士郎の人物像と昭和の文壇の空気を読み解きます。

イケメン作家・尾崎士郎の素顔に迫る

昭和初期の文壇を代表する作家・尾崎士郎は、その端正な容姿と才能で多くの人々を魅了しました。

私が歴史ドラマや人物伝をから感じるのは、時代に愛された人物は、複雑な人間関係で苦しむということです。

尾崎士郎もまた、そうした運命の中にいた一人でした。

若い頃から文壇で名をあげていった尾崎はは、中央公論などの雑誌に作品を発表し、懸賞小説で認められるなど、確かな実力を備えていました。

その一方で、彼の人生は恋愛と結婚をめぐる波乱万丈な出来事に彩られていたのです。

尾崎士郎の相手でこの時代話題になったのは、同じく作家の宇野千代との関係です。

二人は東京の文壇で出会い、結婚生活を送るのですが、破局しました。

昭和初期の文壇は、道徳的な規範と実際の生活の間に大きな隔たりがあり、法的な結婚と事実上の夫婦関係が区別されることもありました。

二人の関係は、そうした時代の複雑さを象徴する存在だったと思われます。

尾崎士郎、男性から人気?

ブラッサムでの尾崎入り等は、西尾一路(ニシオイチロ)と言う名前で、染谷想太のキャスティングで登場です。

史実では男性に人気があったようですが、ブラッサムでもそんなエピソードがあると嬉しいですね。

尾崎士郎、男性からの人気が高い?

実際の尾崎士郎は、女性からと言うより、男性からの人気が高かったのでした。

宇野千代のインタビュー記事『宇野千代のことば書いて、恋して、おしゃれして』には、

「尾崎士郎というひとは、女に好かれるんじゃなくて、男のひとに主に好かれていましてね」

と、語っていました・

さて、「ブラッサム」の中ではどうなるのでしょう。

私は、染谷将太さんが、演じるとなると、「男性に好かれる」なんてことがあるかもしれない、と密かに期待しています。

というのも、染谷将太さんが出演されていた「麒麟がくる」、「べらぼう」どちらも、男性に淡い恋心を見せる役どころでしたね。

尾崎士郎、慕われる理由?

尾崎士郎が作家たちに慕われていたのは、「文壇随一の親分肌」と多くの作家たちが見ていたからです。

それは尾崎士郎が、若い売れない作家たちの面倒をよく見てやっていたところにあります。

尾崎は早稲田大学の出身だったてめ、後輩たちの相談にのってやり、文学青年たちには自宅を開放し文学者のサロンのようなものを作っていました。

そこで尾崎士郎を慕っていた作家とは、檀一雄、今日出海、石坂洋次郎たちでした。

尾崎士郎は彼らの才能を見抜いていたので、バックアップしていました。

私がみると、尾崎士郎は、有名作家にありがちな、後輩に対する嫉妬心などが感じられません。

そこが男性に好かれた、という理由の一つがある、思われるのです。

尾崎士郎、吃音だった?

尾崎士郎自身が回顧録で書いています。

かなり強く、吃音がでる、というものだったのですが、克服しようとして大声をだして発音するようにしたら、症状が軽くなった、ようです。

というのも、亡くなる直前に見舞いに来てくれた親友の尾崎一雄に、「自分は(吃音が)またひどくなっちゃったよ」と言っています。

尾崎士郎は、「吃音で自分は得をしている」と石坂洋次郎に語っていました。

それは、自分が吃音で話すことで、女性たちの母性本能をくすぐっていえるのだ、と言っています。

吃音(当時は「どもり」と言った)で話しかけると、相手の女性はやさしく自分の言いたいことをわかってくれようとする、とおざいしろうは常に人に語っていました。

その吃音で、宇野千代も落とせた、と思った、とも言っています。

自分のはなしかたに困難を感じた、尾崎士郎、それを困難と思わないで、乗り越える努力をしつつ、その性格を受け入れようとしていた、

この態度が、自分が書く文学作品にも現れたのだとw私は思います。

尾崎士郎・宇野千代の結婚生活は?

尾崎士郎と宇野千代が法律上の夫婦関係にあったかは、戸籍などをみることは個人情報上できませんが、入籍していたことは、確認されてます。

尾崎士郎、1926年、宇野千代と結婚

宇野千代が自伝、回顧録で、藤村忠(以前の夫)との離婚が、1924年に成立し、1926年に、尾崎士郎と正式に結婚した、と書いています。

尾崎士郎の自分の回顧録に、宇野千代との結婚のことを書いています。

正式に結婚していた証拠は、1930年に「正式に協議離婚」と宇野千代の作品全集に記されています。それは宇野千代の遺族が戸籍を確認して記入しました。

正式な離婚があるのだから当然、正式に結婚していますね。

尾崎士郎と宇野千代の結婚生活は、作品を描くうえで、お互い刺激になったということです。

しかし、どちらも、まだ小説が売れず、生活は経済的に厳しく、妻・千代は作品を書く以外に、内職私生活を支えていました。

尾崎士郎、ダメ亭主?

尾崎士郎は作品が売れないことから、生活態度が悪くなり、大酒は飲む、時に妻・千夜にDVに及ぶこともありました。

結局、尾崎士郎は家をでて、今度は別の女性・古賀清子と暮らし始め、宇野千代・尾崎士郎の結婚生活は終わりを迎えました。

こうしてみると、尾崎士郎は非常にだらしない亭主に見えますね。

しかし、こんな生活が、二人の文学的要素に深く影響した、というのだから、作家って普通の生活を送っていてはできないのではないか?と私は感想を持つほどでした。

この辺り、『ブラッサム』ではドラマチックな展開になりそうな予感です。

 尾崎士郎と宇野千代はなぜ別れた?

尾崎士郎と宇野千代が別れた理由は、尾崎士郎の生活態度の悪さが、何よりの原因ですが。

二人の人生観と創作活動の方向性の相違にあったと推測されます。

昭和初期の文壇で急速に実力をつけていった尾崎士郎は、次々と新しい作品を発表し、中央公論などの雑誌で懸賞に応募するなど、常に前へ進もうとする野心にあふれていました。

一方、宇野千代も独立した作家志向が強く、自分の作品と人生を優先する必要がありました。

二人が同じ屋根の下で生活を続けることは、互いの創作時間を奪い合う関係になっていったのです。

当時の東京の文壇は、男性作家が優位であり、女性作家が自分の地位を確立するには、結婚という選択肢が足かせになることが多くありました。

宇野千代にとって、尾崎士郎との関係を続けることは、自らの才能を十分に発揮する道をせまくしてしまう可能性があったのです。

私としては、この別れは二人の愛情が消えたというより、時間という有限な資源をめぐる現実的な判断だったと考えます。

尾崎士郎が後に古賀清子と再婚した事実も、尾崎士郎が千代と別れた理由から推測できます。

尾崎士郎は自分の人生と創作活動に専念できるパートナーを求めていたのであり、宇野千代との別れは避けられない選択だったのではないでしょうか。

 尾崎士郎の再婚相手・古賀清子とはどんな女性?

尾崎士郎が宇野千代と別れた後に再婚した相手が古賀清子です。

古賀清子についての公開情報は少なく、詳細な記録は昭和初期の文学史や尾崎士郎の伝記にほとんど残されていません。

私が調べた範囲では、『尾崎士郎全集』の編集後記や文学雑誌『新潮』の人物欄に彼女の名前が散見される程度です。

わずかな文献から推測される範囲では、古賀清子は昭和初期の文壇では比較的控えめな存在だったと考えられます。

宇野千代のように雑誌への寄稿や創作活動で名を成す女性ではなく、古賀清子は作家の妻として家庭を守る立場にあったのではないでしょうか・

当時の東京の文壇では、創作活動に専念する作家を支える妻の役割が重視されていました。

尾崎士郎が懸賞に応募し、次々と新しい作品を発表し続けられたのは、家庭の安定があったから、と言う見方がされています。

派手さよりも落ち着きを求めるようになった尾崎士郎の人生観の変化が、この再婚に反映されていると私は考えます。

尾崎士郎は、宇野千代との激動の時代を終えて、穏やかな生活環境を整えることで、創作の時間を確保しようとしたのではないでしょうか。

尾崎士郎の晩年と死因について

尾崎士郎の死は、1969年2月19日、直腸がんで亡くなりました。

最後は東京都大田区山王にある自宅で、妻・清子の看病の元。生涯を終えました。66歳でした。

病気に倒れたのは、その2年前、1961年で、死に至ったのは、ガンが再発したからでした。

その晩年は、壮絶なものだったと、伝えられています。

病気で体力が弱って寝込み、手が満足に使えなくなっても、妻や周囲の人たちの手を借りて、口述筆記の形で書き続けました。

ここに私は、尾崎士郎の文章家としてのプロフェッショナル魂に感じ入っています。

それが「闘病記」で、ここには、尾崎士郎本人の視点から見た文章で、死の直前までの様子が描かれています。

最後を看取ったのは妻の清子(古賀清子)であり、彼女もまた、夫・尾崎士郎の最後の言葉、医師とのやり取りを回想録として書いています。

尾崎士郎は、文壇では多くの作家仲間達に慕われており、尾崎の死後はそんな作家たちが、尾崎士郎の葬儀のようす、また追悼文を残しており、貴重な史料となっています。

追悼文を書いたのは、親友の川端康成(かわばたやすなり)をはじめとして、今東光(こんとうこう)、元妻・宇野千代も追悼文を寄せています。

尾崎士郎・宇野千代の関係が繰り広げられた昭和の文壇とは?

昭和初期の文壇では、尾崎士郎と宇野千代という二人の才能ある作家が、互いに影響を与え合いながら創作活動を続けていました。

中央公論などの雑誌で懸賞に応募し、次々と作品を発表する中で、尾崎士郎・宇野千代の関係は単なる文学的な支え合いを超えた、複雑な人間関係へと深まっていったのです。

東京の文壇という限られた空間で、二人は同じ時間を共有し、互いの作風や人生観に向き合う機会が増えていきました。

私が歴史上の人物を見てきて気づいた点は、注目を集めた人物ほど、その周囲の人間関係がドラマチックだ、ということです。

尾崎士郎と宇野千代の場合も同様で、二人の親密さは文壇の話題となり、やがて彼らの生活にも影響が現れてくるようになります。

当時、女性作家が男性と対等に創作活動を行うこと自体が珍しく、二人の存在は昭和初期の文学シーンにおいて、一味違っていました。

作品の発表の場、創作活動への向き合い方、人生に対する価値観の違いが、時間とともに目立つ良いになっていったと推測されます。

尾崎士郎、宇野千代の関係を見つめることで、昭和初期という時代の空気感や、作家たちがどのような葛藤の中で生きていたかが見えてきます。

個人的には、当時の文壇の記録を読むたびに、現代の創作活動や人間関係にも通じる普遍的なテーマが隠されていることに気づかされるのです。

まとめ

尾崎士郎は、昭和のはじめに活躍した人気作家です。

顔立ちが整っていて、文学の才能にあふれていましたが、実は女性よりも男性から好かれた人でした。

面倒見がよく、お金のない若い作家たちを助け、自宅を開放して仲間が集まる場所にしていたからです。檀一雄や石坂洋次郎も、その一人でした。

尾崎は話すときにどもる癖がありましたが、それを自分の持ち味と考え、前向きに受け止めていました。

私生活では、作家の宇野千代と1926年に結婚しました。

しかし、作品が売れずお金に困り、尾崎は酒に溺れて妻に暴力をふるうこともありました。やがて家を出て古賀清子と暮らし始め、1930年に千代とは離婚しました。

晩年はがんに苦しみましたが、手が使えなくなっても口述筆記で書き続けました。

1969年に66歳で亡くなり、川端康成や宇野千代らが追悼文を残しています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました