ノミの色ドレスを作ったローズ・ベルタン生涯。マリー・アントワネットのドレスの独創性とは?

ローズ・ベルタン抜きにしてはマリー・アントワネットのドレスコレクションは語れません。

フランス王妃となり、ロココの女王と呼ばれ、オリジナルな色彩の衣装も登場しました。そこにはデザイナー、ローズ・ベルタンの存在がありました。

その中に独創性のある「ノミの色ドレス」が誕生しました。今日でもこのエピソードは有名です。「ノミの色ドレス」はどこところから生まれたのでしょうか?

幼い頃から、ファッションや美容に興味がありました。ローズ・ベルタンの生涯には商売人根性が心の奥に灯っていました。

その心意気を持ってローズ・ベルタンはマリー・アントワネットの一生を見守り続けました。

ローズ・ベルタンはどんな生涯を送ったのでしょう?

ノミの色ドレスとは

漫画「ベルサイユのばら」では面白くノミの色ドレスのシーンが面白く描かれています。

ローズ・ベルタンが持ってきたドレスを見たマリー・アントワネット。アントワネットはこのドレスを茶色の絹で仕立てたい、そう希望します。

そこに入ってきた国王ルイ16世、「このドレスの色はノミの色みたいだ」と言います。それを聞いたローズ・ベルタンが「ノミ」の表現を大いに気に入って、「それなら、ノミの腹の色と足の色を分けましょう」と言ったところからノミ色のドレスが出来上がったわけです。

やがて「ノミ色のドレス」と呼ばれるようになり、上流階級の婦人達に大ブレークしました。

これは実際にあった話で「服飾の歴史」と言う本にノミ色ドレスの説明が書かれています。そこにはノミの頭、ノミの背中と濃淡に、また若いノミ、年老いたノミ、ノミ背中の色と分類がされていました。

そしてドレスに微妙なニュアンスを出して楽しんだそうです。

ノミの色・・・・茶色系、ベージュ系・・・と言われても私たちにはよくわからない色です。が当時の人たちは、貴族といえど入浴が一般的ではなかったので、ノミはよく目にする虫だったし日常生活で絶えずは悩まされていました。確かにノミに刺されると痒いですね。

現在でノミといえば・・・なんてペットにしかいませんが、たまにペットからノミが移ってきて痒みに悩まされ場合もあります。

そういえば日本の名作「枕草子」も中でも、ノミが自分たちの衣服の下に潜り込み(十二単)布地をもたげながらぴょんぴょん飛ぶ感覚がとても気持ち悪い・・・とありました。

国は違えど、状況は良く似ています。

当時の人はノミとお友達だった(?)のかもしれない。でも痒くなりそうでできれがお友達になりたくない・・・

全く人気者ではなさそうなノミ、この色を主役にしたドレス・・・マリー・アントワネット始め当時の貴婦人たちはノミ、をテーマにしたなんて嫌じゃなかったのかしら。今ならあんまりいい気持ちしないのですけれどね。

マリー・アントワネットは、お気に入りのローズ・ベルタンが勧めたものならなんでも素敵!と思ったのかしら?そこまでローズ・ベルタンに心酔しきっていたのでしょうか?

マリー・アントワットがファッションの自我に目覚めたと言っても、結局はローズ・ベルタンの好みに染まった、だけなのではないかと思いますが・・・

自分の好みとデザイナーの提案が一致しての、王妃とデザイナー双方の傑作がアントワネットのファッションなのですね。

ローズ・ベルタンの生涯とマリー・アントワネットの出会い

ローズ・ベルタンは、平民の娘として生まれました。ですが子供の頃から手先が器用で、ほんの少女時代には髪結屋で働いて、人気がありました。

そういえば子供の頃、友達の髪をまとめるのが上手な子がクラスに一人くらいいましたね。そんなタイプの子供だったようです。

やがてパリに出て仕立て屋でお針子として働き始めました。

徐々に腕を上げていき、ルイ15世が崩御しルイ16世に代替わりする頃には、パリで自分の店を開くいていました。その店がまえは装飾を施しドレスなどをきれいに並べ、ドア係も置いて一流店の佇まいでした。

今日でいえば、オートクチュールの店のようでしょうか?店の近くには貴族の館のあり、貴族たちもだんだんと顧客になっていきました。オートクチュールの原点を感じさせますね。

それにローズ・ベルタンも帽子デザイナーから出発したということですから、ますますココ・シャネルを彷彿とさせますね。

やがて顧客となった貴族の夫人を通して王妃マリー・アントワネットに紹介されます。

アントワネットはすっきりとした身体つき、ウェスト約50センチの細さ(コルセットで締め上げた効果もあります)、そして輝くばかりの肌の持ち主でした。その歩き方はすごく優雅で、「まるで滑るように歩く」と表現されています。その歩き方は処刑の時まで変わらなかったようです。

王妃になってから、マリー・アントワネットはファッションの自我に目覚めるのですが、それにローズ・ベルタンが一役買ったのはいうまでもありません。

そこで、服飾デザイナーローズ・ベルタンを紹介されます。

マリー・アントワネットもローズ・ベルタンの提案が気に入ったのでしょう。頻繁に宮廷に呼ぶようになりました。新しい衣装の相談のためです。

マリー・アントワネットに気に入られることで、だんだんと大貴族にも似た振る舞いをするようになります。要人達が王妃と会見するために、ローズ・ベルタンにとり入るほどで、そんなローズ・ベルタンにはいつしか「モード大臣」と呼ばれていました。

ローズ・ベルタンはマリー・アントワネットのスタイルを見て、デザイナー熱が駆り立てられたようです。ここぞとばかりに自分のセンスを発揮しました。

彼女のセンスは非常に斬新で、「ノミ色」のドレスが。このエピソードをご紹介しましょう。

王妃マリー・アントワネットのドレス代

フランス革命の際真っ先に攻撃の槍玉に上がったのがマリー・アントワネットでした。特にそのドレスに対する金銭感覚。赤字夫人なんて不名誉な呼ばれ方をされました。

マリー・アントワネットの着道楽が国を滅ぼした・・・とさえ言われています。

では実際どれだけのお金をかけていたのでしょう?それは国の総支出のどのくらいを占めていたのでしょうか?

王妃が使うことが許されている衣装代は年間、12万リーブルと決められていました。それでどれだけ購入可能かというと、正装用、礼装用、通常用のドレスをシーズンごとそれぞれ3枚位づつ、つまり4シーズンあるから年間36枚が規定の枚数ということでした。

しかし実際には、年間170着以上は作っていました。王家の人間は1日のうちに何回か着替えると言いますが、それにしても全部袖を通したのだろうか?保管場所はどうしていたのだろうか?と余計なことを考えてしまいます。

170着なら、規定の5倍近くのオーバー・・・!

王妃様には正式のドレス用資金の他にお手元金と予算で組まれたお金がありました。国からもらうお小遣いみたいなもの?でも所詮国庫から出るお金。正式であろうが私物であろうが、結局国から費用が出されていた、ということです。

これだけ作ってもらえれば、ローズ・ベルタンはもう笑いが止まりません。少々の苦労もなんのその、毎日だって生地見本片手に王宮に通い続けます。

ローズ・ベルタンの収入は、かなりのものになったでしょう。

しかし・・・王室が使えた費用というのは国の年間総支出のうち、10パーセントを占めたにすぎません。確かに衣装という私物的なもので考えると、結構な支出ですが、国の財政を破綻に追い込むものではなかったのです。

しかし当時のフランスは慢性的な財政赤字。赤字削減のために取られていた手段は、他国からの借金と国民に課す税金。

もう民衆は搾り取られるだけ搾り取られ、青色吐息。そこに、王妃マリー・アントワネットの贅を凝らした衣装を目の当たりにした日には、国を苦しめている張本人が王妃に見えるのも仕方がないことですね。

ローズベルタンは革命時代、マリーアントワネットのドレスを作りつづけた

革命が起こると、マリーアントワネットはヴェルサイユから追い出され、牢獄のような居城に住まうことになります。

革命でタンプル塔に幽閉されている時でも、ローズ・ベルタンはマリー・アントワネットに衣装を作り続けていました。その時期でさえもかなりの分量を注文していたみたいです。

タンプル時代は、と言うかルイ16世が存命中は、生活は自由がないと言う以外そんなに困窮した生活ではありませんでした。むしろ裕福と言っても良く、食事はかなりの種類が出されていましたし、マリー・アントワネットたちも新しい衣装を作ることができました。

こんな状況においてさえ稼ぎまくった感がするローズ・ベルタンですね。こうなってくるとデザイナーというより商売人?揉み手をして、ペコペコお辞儀しながら、国王一家の前を後ずさりに下がる、ローズ・ベルタンの様子が目に浮かぶようです。

しかしそれにしてもローズ・ベルタンは平民出身です。どちらかというと革命軍側につく人物かしら?と思うのですが、そうではなかったのですね。

むしろ、国王一家に衣装を作った・・・これが知られると後ギロチンにかかるかもしれないほどのことだったのです。

ローズ・ベルタンはただの商売人ではなかったようですね。

マリー・アントワネット個人が好きだったのか・・・あるいはそれこそ商売人根性を徹底的に見せつけようとしたのかもしれません。

商売人の根性ってすごく信念に基づいているところがあります。日本の昔の堺商人に権力に屈するのではない根性がよく現れています。

ローズ・ベルタンにもその根性に似たところがるような気がします。ファッションの伝道者としての使命があったのでは・・・という感じがします。

人にヘコヘコするだけが商人ではない・・・そうローズ・ベルタンは主張していたのでしょうか?

ローズ・ベルタンの最後はロンドンに亡命します。そこでモードの仕事をしていたようですが、心臓発作で亡くなったということでした。

マリー・アントワネットは現代に続くファッションリーダー・・・

1700年代後半は、ローズ・ベルタンがオートクチュールの草分け的存在ならマリー・アントワネットはファッションリーダーでした。自分の好み、スタイルがローズ・ベルタンの手法とぴったりあって、当時のファッション界はマリー・アントワネット旋風に荒れた、といって間違い無いでしょう。

本当はローズ・ベルタン旋風なのですが・・・モデルの方がどうしても名前が売れますね。それも王妃様となれば。

髪型も、ローズ・ベルタンの考案したものでした。髪結師にはジャン・レオナールという者がいましたが、ローズ・ベルタン監修のもと、という感じでした。

ちょっと乱暴な言い方をすれば、ローズ・ベルタンが今日知られるマリー・アントワネットの外観像を作り上げた、と言っていいかもしれません。

それだけ、王妃はファッションの広告塔の役割を果たしていました。

実際、王妃という役柄は国の「文化広報課」の役割を果たす必要があります。

例えば日本の皇室を見ても、妃殿下たちは着るものは日本のデザイナーによるもの、持ち物は日本のもの、あるいは日本の古来より伝わる手法で製作されたものを使っておられるのがテレビで放映されています。

時代こそ異なりますが、当時のフランスの似たようなことが言えるかと思います。マリー・アントワネットがフランスの絹織物より、フランドル地方の羊毛生地、フランドルレースを好んだことが顰蹙を買ったこともあります。

それほど、一国の王族が衣服を選ぶのは大変なのですね。

現在につながるあるものがあります。小物にマリー・アントワネットの影響が現れています。ハンカチの形が四角くなりました。

なんで四角?といっても特に理由は無いようで、ハンカチは四角がいいのでは・・というほんの思いつきから、始まったとか。単純すぎる話ですが、それだけマリー・アントワネットの影響力は強かった、ということかもしれませんね。

でも現代では丸いハンカチは見当たりませんね。なぜ丸いハンカチがなくなってしまったのか・・・こちらはよくわかりませんが。四角い方がたたみやすいのでしょうか。

少女時代を過ごしたオーストリアでのマリー・アントワネット

マリー・アントワネットがまだ皇女でいた故国オーストリアでは、公的に人前に出る儀式、夜会以外のドレスコードは比較的ゆるいものでした。

マリー・アントワネットは確かにフランスに輿入れする際、贅を凝らした衣装を用意してはいましたが、自分の好みが反映されたものではありませんでした。

王太子妃時代は、好みというよりも、周囲の用意したものを着用していたようです。むしろ、「野暮ったい、オーストリア女」と陰口を叩かれることもしばしばでした。

マリー・アントワネットはじめ当時のオーストリア宮廷ではバスタブでの入浴の習慣がありました。当時の貴族社会では清潔な方と言えます。マリー・アントワネットはバスタブに浸かる習慣をフランス王太子妃となっても続けました。

映画「マリー・アントワネット」の中でも王妃がバスタブに浸かりながら、クロワッサンとコーヒーの軽い朝食を取るシーンがありました。

ですが、当時のフランス宮廷に浸透したわけではなさそうです。むしろ。水(湯)に浸かると病気になる、ということの方が信じられていました。とにかくフランスは水事情が悪かったので、こんな考え方あったのです。

マリーアントワネット時代のドレス着用の仕方

では当時は18~19世紀ではどんな具合にドレスを着用していたのでしょう。その手順を見て、当時のドレス事情に想いを馳せて見ましょうか。

①肌着を身につけます。現在でいうとババシャツみたいなもの。

②靴下を履いて、ゴムベルトで止めます、と同時にアンダーペティコートを履きます。

③上半身をコルセットで締め上げます。ハトメに紐を通して締めますから時間がかかります。

④ウエストの後ろに帯枕に似た枕状のものを紐で結びます。その上にペチコートつまりパニエを履きます。と同時にポケットを腰につけて紐でウエストのところで結びます。

⑤胸にパネル状のものを当て端をコルセットにピンで止めつけます。(待ち針のようなピン)

⑥スカートを履きます。大体は上から被ってはきます。

⑦こうした上にガウンと呼ばれる羽織るドレスを上から来ます、ガウンの端を胸当てにピンで止めつけます。スカートをガウンを結びつける紐があり、それを結んで、整えて完成です。

ピンを使って、うっかり刺さったりしないのでしょうか?考えるだけで痛くなります。

ここまで何分、いえ何十分かかったでしょう?しかも絶対一人で着れない、それどころかお手伝いは一人でも足りないです。

宮廷のしきたりは厳しく、ドレスも時間にあったものを着なければなりませんでした。例えば朝は、日中の公務(要人との接見)には、また夕食にはと、それぞれの格式に合わせた装いをしなければなりません。となると、当時の宮廷人は一日中着替えをしていたのではないでしょうか。

コルセットの締め付けも半端じゃないです。当時の宮廷貴婦人はよく気絶した、と言われてます。気を失うのがか弱い女性らしくて受けるのかな?と思っていたら、コルセットで締め付けているのですから、苦しくて気を失うは当たり前かもしれません。

ローズ・ベルタンのファッションセンスも勢いを増して、このパニエもだんだんと大きさを増していったと言われています。パニエは現在見るクリノリン(結婚式のドレスで着るような)とは違い横に張り出しています。幅が広くなるにつれ、ドアを通り抜けるのが困難になって体を横にしないと通れなくなるほどだったとか。

マリー・アントワネットのファッションは今でも人気があります。最近の有名デザイナのファッションショーでも、アントワネットを意識するかのような、髪型、パニエを取り入れたスカート、コルセットを彷彿とさせる胴体部分などがあります。

それだけマリー・アントワネットのドレスはすべての世界中の女性にとって、今でも憧れの対象であるのかもしれません。と同時にしきたりを物ともせず、自分らしさを追求しようとした一人の女性に、ある理想を見つけようとしているのかもしれません。

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