生駒吉乃とは?美人だった信長の側室!帰蝶との関係?墓は?

生駒吉乃(いこまきつの)は織田信長の側室です。第1の側室と言われていました。それは正室と比べるとどの程度の重要さがあったのでしょうか?

たいそうな美人と伝えられています。

側室なら、正室の帰蝶との関係はどうだったのでしょう?正室と側室の争いなんてあったのでしょうか?

生駒吉乃は長生きしなかったようです。今でも墓はあると言いますが、そのお墓現在、拝観できますか?

この記事では生駒の方、こと生駒吉乃さんのこと語ってみようと思います。

生駒吉乃、美人だった!?

織田信長は情報収集のため、生駒家に頻繁に行っていました。

その時、織田信長は生駒家の娘、吉乃に出会ったのです。

大層、美しい人で、信長の一目惚れから始まりました。

さらに生駒吉乃は、心優しく、戦に明け暮れていた信長にとってはまさに癒し系の美女。吉乃は信長より4歳年上だった、ようです。(6歳上、という説もあります)

では実際にはどれほどの美人だったか・・・?その記載は見られません。

肖像画がありますが、生駒吉乃と伝えられているだけです。

その肖像画は、個人所有になっていますので一般公開はされていません。面長な顔立ちである、と説明があるのみです。

イケメンと評判の高い織田信長に似合う女性、となるとやはり美女・・・という願望が出てしまいます。織田信長が自ら愛した女性だから美人に決まっている!と。

生駒吉乃、美人説はこうして生まれました。

生駒吉乃は実在

生駒吉乃は、1528年〜1566年を生きた女性です。戦国時代ですね。関ヶ原の戦いは吉乃没後、40年後です。

生駒吉乃の本名は知られていません。

生駒というのは、吉乃の生家です。尾張国丹羽郡小折に居を構えていた、というわけです。現代では愛知県江南市あたりになります。

生駒家の娘としか知られていませんでした。

生駒家には戦国時代に「類」(るい)という女性がいた、という話も伝わっています。もしかしたら吉乃という名前でなく、類だったかもしれません。

いずれにせよ本名はわかっていません。

この女性吉乃は生家の名前をとって生駒の方、と呼ばれていました。

吉乃という名前が出てきたのは、「前野家文書」(愛知県江南市の古い庄屋、吉田家に残されていた書物。吉田家の先祖が前田ということらしいので『前田家・・』と呼ばれている)と言われる書物の「武功夜話」の中です。

信長の歴史を述べている「信長公記」には登場しません。

生駒吉乃の実家から

吉乃の実家の生駒家、戦国武将の一人、蜂須賀小六(はちすかころく)とは縁戚関係にありました。

後に、豊臣秀吉となった木下藤吉郎が織田信長に仕えることができたのも、蜂須賀小六の縁戚の、生駒吉乃からの推薦だった、という話もあるくらいです。

吉乃に関して、確実にわかっている名前といえば、戒名(仏教で死後にもらう名前)「久菴桂昌大禅定尼」(きゅうあんけいしょうだいぜんていに)だけですが、流石に戒名で呼ぶわけにもいきません。

一応、呼ばれることの多い名前、生駒吉乃、あるいは生駒の方と呼んでおきましょう。

生駒家は織田家の家臣でした。元々の武将の家ではなく、商家から始まりました。油などを扱っていたようです。

最も、信長の正室、帰蝶の父親、斎藤道三も油売りから身を起こしたというから、野心があれば立身出世もあったかもしれません。

生駒吉乃と信長

未亡人となった吉乃は実家、生駒家に戻ります。そこで信長と出会うことになります。

生駒家は、商人をしている豪族のため、多くの国からの商人たちが出入りし、情報が飛び交う場所が、当時の生駒家です。

その情報が欲しくて、信長はよく生駒家に出入りしていました。生駒家はまた商人の家だけあって、お金も集まってきます。信長はそこにも目をつけていました。

が、ここで思わぬ物(というか人ですね)を信長は見つけました。それが未亡人になった吉乃です。

生駒吉乃を愛するようになり、吉乃は信長との間に3人の子が生まれます。

やがて、信長は戦への足掛かりとして新たに建てた、小牧山城(愛知県)に吉乃を住まわせようとして、体調の悪い吉乃のために輿まで用意する、という通常の側室以上の扱いをしました。

が、生駒吉乃は新しい城に落ち着いても体調は良くならず、ついに1566年、39歳で亡くなります。

実家を出発する時から、相当具合が悪かったのですが、是非ともという信長の要請に従ったのですが、それが返って悪かったのかもしれません。輿(こし)と言っても揺れる乗り物では、休めたものではありませんからね。

生駒吉乃を重んじるがあまり、最悪の時代を招いた・・・信長のわがままかもしれません。

生駒吉乃の子供達

織田信長との間に子供が3人生まれます。1775年に信忠、1558年に信雄、そして1559年に長女で後に家康の息子、信康と結婚することになる徳姫、2男、1女に恵まれました。

しかし元々身体が丈夫でないと言われた生駒吉乃。3番目の徳姫を産んだのち、体調を崩すようになりました

というか、当時の医学的事情、またお産の事情を考えると、比較的年齢が高くなった女性が、産後の日だちが悪い、というのは当然考えられることですね。衛生状況も悪いです。

しかし生駒吉乃は我慢をして、信長の前では平気な様子を装っていました。

生駒吉乃は子供を産んだため、信長からは正室に次ぐ待遇を受けました。

小牧山城と生駒吉乃

小牧山城に迎えられました、

産後でまだ本調子でなかったのですが、輿に乗ってなんとか城まで行きました。

辛い道中になりましたが、生駒吉乃は信長のため、我慢していました。

しかし回復できずに、亡くなってしまいます。

側室、生駒吉乃が亡くなった後、信長は三日三晩泣き続けた、ということです。こういう話から吉乃は織田信長に一番愛された女性、と言われています。

性格が荒々しく、恐れられていた信長ですが、生駒吉乃に対しては非常に愛情深い一面を示していました。

政略も、駆け引きもないまた命を狙ってくる相手でもない、そして性格も優しく美しい、年上だっと、いうところから、信長の人間性を引き出してくれる美女だったのですね。

殺伐とした戦国時代に、こうした美女に出会えた信長は幸せだったのかもしれません。

生駒吉乃と帰蝶。「レジェンドアンドバタフライ」から

帰蝶は織田信長の正室ですが、生駒吉乃は帰蝶が輿入れしてくる以前にすでに信長の元に仕えていたのでは、と言われています。

生駒吉乃と帰蝶の関係

多分、生駒吉乃の実家、生駒家が身分の高くない家だったので正室となれなかったことが想像されます。

しかし、帰蝶にとってはどんな想いだったのでしょうね?当時の身分の高い人の結婚は、政略結婚でしたから、結婚する相手にすでに側室がいる、なんて現象、珍しくないのかもしれません。

帰蝶にとっても、武将の娘だから、夫となる人物に側室がいる、ということは承知の上だったはずです。実際自分の父にも側室がいたのですから。

ですが、戦国時代の慣わしとはいえ、全く平常心でいられるわけはありません。やはり、帰蝶には心乱されるものがあったに違いありません。

生駒吉乃と帰蝶の仲

生駒吉乃と帰蝶・・・二人の仲はどうだったのでしょうか?やはり正室と側室、世間で考えられる通り丁々発止とやり合う仲だったのでしょうか?

あまりこの二人の仲が悪かった、という話は伝わってきていません。もっとも戦国の最中の女性の争いはくだらない、と思われていたのかもしれませんが・・・

生駒吉乃と帰蝶、元々生まれた家の身分の違いました。それに吉乃は控えめな性格だったようです。身分違いの理由から、帰蝶を一目置いていた感じがします。

2013年公開の信長の映画「レジェンドアンドバタフライ」では、生駒吉乃は帰蝶を尊敬していたし、帰蝶も吉乃を好ましく思っていたシーンがあります。

ここはもちろんフィクションですが、実際はこれに近いものであったような気がします。

生駒吉乃の子供を帰蝶が育てる?

生駒吉乃の没後、信長と吉乃との子供、二人の男子、信忠と信雄は、正室、帰蝶によって清洲城(きよすじょう)で育てられました。

信長は信忠を自分の後継にするつもりでした。帰蝶との間に子供はできませんでしたから。

長男の信忠は幼名を、奇妙丸(きみょうまる)と言いました。次男、信雄(のぶかつ)の方のよ幼名は、茶筅丸(ちゃせんまる)、抹茶を立てる時の箒のような形をしたブラシっぽい物ですね。

戦国時代の子供の名前の付け方は様々ありますが、信長のネーミングセンスはちょっと分かりません。キラキラネームみたいです。

信長は自分の娘たちの中で特に徳姫を愛していました。やはり一番愛した人の産んだ子が、一番愛おしかったのかもしれません。

盟友としての徳川家康の息子に徳姫を嫁にやったのだから、徳姫の扱いは相当重いと見ていいでしょう。ですから正室生まれの娘としての箔をつけての輿入れです。

徳川に対しては愛娘だから大切にしろよ、とのアピールです。

生駒吉乃の墓は

生駒吉乃の墓は愛知県江南市、久昌寺(きゅうしょうじ)にあります。生駒家の菩提寺です。

吉乃の死後、遺体は荼毘(火葬)に伏されました。

信長が生駒吉乃の死に際して嘆き悲しんだ、という記述は、この久昌寺に収められた「久昌寺縁起」という書物にあります。

そして吉乃の実家、生駒家に香華料(香典、またはお花料に匹敵するもの)として660石を授けたとことも書いてあります。

その墓も。また生駒吉乃が荼毘に伏された場所、江南市田代にも墓碑が作られています。

しかし残念ながら、久昌寺は、生駒吉乃と生駒家歴代当主の墓が江南市の市文化財に指定されているにも関わらず、廃寺となることが2021年に決定しました。

久昌寺に在住する住職がいないからです。そのために建物の老朽化が進み維持や再建の費用の目処が立たないのです。

寺の後地は江南市に買い取られ、整備され公園として公開されることになります。

生駒家当主と生駒吉乃の墓は残されることも決まっています。墓所だけでなく寺の本尊や位牌も残され、それらを安置するお堂が建てられます。

一安心ですね。これなら参拝することができるかもしれません。

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