NHK、朝ドラ「ばけばけ」に吉沢亮が登場しました。
役名は、錦織友一。モデルがいて、英語教師です。
そして、あだ名は「大盤石」、どんな意味があるでしょう?
小泉八雲とは生涯の親友と名乗れる人物で、主人公 松野トキ(小泉セツ)に影響を与えることになりそうです。
ここでは、錦織友一、そのモデル 西田千太郎について、解説します。
錦織友一とは誰?
その読み方ですが、にしこおり ゆういち と読みます。
「ばけばけ」では、主人公 松野トキ(小泉セツ がモデル)とは、東京で出会いました。トキがまだ、銀二郎と結婚していた時のことです。
松江の秀才という設定です。
トキと出会った時、学校に受かった、という話でした。その学校が、帝大?と思わせてはいましたが?帝大には行っていません。
それでも、東京で勉強はしました。
その話は、ラフカディオ・ハーンあの教え子 田部隆次(たべりゅうじ)が書いた「小泉八雲、ラフカディオ・へルン』という伝記物語に書かれています。
とにかく、錦織友一は、秀才で、帝大を匂わせているので、学歴詐称では?と一瞬思ってしまいました。
それにイケメンすぎるので、ちょっと詐欺師っぽいイメージでしたが、実はそうではありませんでした。
「ばけばけ」の中では、外国から来た レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)を助け、学校での英語教師としてうまく対応できるように力を尽くします。
生涯かけて、松野トキ(小泉セツ)、レフカダ・ヘブンの良き友人、として活躍しそうです。
錦織友一のモデルは?
モデルは、実在する 西田千太郎(にしだせんたろう)という人物です。
1862年〜1897年 の時代を生きた人物です。
西田千太郎は、島根県の教育者として知られていますが、小泉セツたちと同じく、松江藩士の息子として生まれました。
最初は、松江中学(旧制)の学生でしたが、中退して授業助手になっていたので、正式な教員ではありません。
それでも勉強を続け、文部省中等教育検定試験に合格し、教員免状をとり学校に教員として勤務します。
西田千太郎は苦学生で、小泉セツたちと同じように、武士から平民になるのに苦労し、貧乏生活を送っていたのではないでしょうか?
心理学、倫理、経済学、教育の4科目で免状を取っていますので、相当の努力家だったことが伺えます。
1888年に島根県尋常中学校の教頭先生となり、1890年に、ラフカディオ・ハーンを英語教師として迎えることになります。
この頃、西田千太郎は、二十代。
「ばけばけ」の中では、若い頼りない先生に見えますが、結構な経歴を積み上げた先生なのです。
錦織友一の最期は?
錦織友一のモデル 西田千太郎は、1897年に、この世をさります。まだ34歳でした。
当時は不治の病と言われた結核にかかったのです。
結核には、明確な治療法がまだ確立されていませんでした。
空気の良いところで、栄養をとってゆったりと過ごす、が治療方でしたが、確実に効力のある治療法ではありませんでした。
感染力の強い病気でしたので、かかると、他人に移さないように隔離されたりする病気でしたから、近所で、結核にかかると警戒されるような、差別を伴います。
西田千太郎(錦織友一)もそのような目にあったのかと思うと、悲しさがこみ上げてきます。
錦織友一(西田千太郎)、レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)との交流
錦織友一こと 西田千太郎は、実際は、セツ(トキ)より、レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)との交流の方が強いです。
西田千太郎はハーンに高く評価されてた?
というのも、実在のラフカディオ・ハーン(ヘブン)は、ずっと西田千太郎(錦織友一)のことを気にかけており、
病気の際も、亡くなるその日まで、手紙のやり取り続けていました。
ラフカディオ・ハーンは、西田千太郎の病気のこともそして、千太郎の死も大変悲しんでいました。
その様子が、小泉セツ(トキ)がのちに夫 ハーンについた書いた「思ひ出に記」に書かれてい流ことによると、
『西田千太郎、は卑怯なところが少しもない。もしハーンに悪いことがあれば、全て語ってくれた。悔しいのは病気だ。それについては神を恨みたくなる。良い人なのに…』
という内容のことを書いています。
西田千太郎に似た人を見て?
また、東京では勤めていた、東京帝国大学(現在の 東京大学)の英文学教授を退職後、早稲田大学に講師として呼ばれた時代のこと、
早稲田大学の学監(学長の補佐で、学生と学長の間を取り持つ役目)の高田早苗が、西田千太郎によく似ている、と言ってうれしそうにしていました。
そのエピソードが「思ひ出の記」に書かれています。
ラフカディオ・ハーン(レフカダ・ヘブン)にとって、錦織友一 こと 西田千太郎は、得難い友、だったのですね。
おそらく、故国から遠く離れた東洋の地で、英語で自分の心も理解してくれる、最初の友だった、という気持ちがハーンにはずっとあったのでしょう。
ですからお互い、生涯の友、親友と呼び合える仲でした。
錦織友一、「大盤石」と呼ばれたわけ?
「大盤石」そのもの意味は、「基盤がしっかりしていること」、「大きな岩」です。
錦織友一(西田千太郎)は、東京で、「大盤石」と呼ばれていたのですが、それは、錦織友一は何をやらせても完璧、だったとしてつけられたあだ名でした。
錦織友一のモデル、西田千太郎が「大盤石」と呼ばれていたことから、錦織もドラマで同じく「大盤石」と呼ばれます。
「大盤石」と言われていた話は、島根県生まれの作家、池野誠『小泉八雲と松江 異色の文人に関する一論考』に書かれています。
しかし錦織友一(西田千太郎)は「大盤石」と呼ばれていたにもかかわらず、東京帝国大学には入らず、中等教員検定試験の合格留まりでした。
帝大まで行っていないと、学校の校長先生にはなれない、ということで、錦織友一(西田千太郎)は学校の教頭先生にまでしかなれませんでした。
錦織友一と セツ の仲は?
史実では錦織友一(西田千太郎)はトキ(小泉セツ)よりも、レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)の方と先に、信頼関係を結びます。
西田千太郎(錦織友一)は結局、セツ(トキ)とハーン(ヘブン)とのキューピット役を勤めています。
2人の絆は、ヘブン(ハーン)が松江になって来た時から始まります。
「ばけばけ」の物語は、錦織友一、トキ、レフカダ・ヘブンの3人の友情が、軸となって回るドラマだと思っています。
実際は、ハーン(ヘブン)の方が、先に、西田千太郎(錦織友一)と親しくしていて、通訳なども西田が勤めていました。
小説「セツと八雲」によると、セツ(トキ)は、ハーンと話が通じなくなると、西田千太郎(錦織)を頼りにしていました。
そのころのセツは、ハーンのもとで女中働きをしていましたから。
錦織友一、英語がペラペラ?
「ばけばけ」の中で、非常に流暢な英語を話しているところがみられました。
発音もネイティブに近く聞こえますね。
旧制中学を退学しても、助手として務められたのだから、かなり優秀な人物でした。
錦織友一(西田千太郎)は努力の人?
旧制中学の退学の理由はわかっていませんが、江戸時代に武士階級の人たちは、生活に困る人が多かったですので、西田家もその例外ではないことが推測されます。
もちろん、錦織友一(西田千太郎)は生まれながらに頭が良かったのですが、何よりも努力家だったのでしょう。
1885年、東京に勉強に行ってからは、アメリカ人からもイギリス人からも英語を学習しました。
つまり、アメリカ英語と、イギリス英語の両方を習った、ということになります。
また、論理学もイギリス人について、勉強しました。
ここで注目する点は、イギリス人から言語だけでなく、学問も習った、というところです。
当然外国語の授業だってでしょう。外国語で講義を受けるのはとても難しいです。
最初の半年〜一年は、英語の単語を聞き取るのに必死で、文章自体の意味をつかむまでには行かず、2年目以降に入り、ようやく身につけた英語の力が発揮できる、というものです。
英語で講義が受けられる、ということは相当なハイレベルの英語を身につけた、という証明です。
「ばけばけ」で英語が、ペラペラなのも当然ですね。
錦織友一(西田千太郎)、ヘブン(ハーン)の英語を直す?
錦織友一(西田千太郎)はヘブン(ハーン)の来日で、ハーンの通訳を務めただけでなく、ハーンが英訳した文章の間違いすら指摘できるほどの、英語の腕前がありました。
ハーンの英訳にもアドバイスできるほどでした。
日本人の感覚を英語で表現できるほどの、英語の達人だった、ということを示しています。
ハーンが「喇叭手 白上源次郎(らっぱしゅ しらかみげんじろう)という日本の軍歌を翻訳したときに、間違いの指摘をしています。
「喇叭手〜」は日本の軍歌だったので、外国人のハーンが考える英訳では、日本人の心を伝えきれていないところが、あったのでしょう。
錦織友一(西田千太郎)役、吉沢亮
「ばけばけ」で錦織友一にキャスティングされたのは、今 映画の出演が続いている、吉沢亮です。
映画「国宝」で歌舞伎役者を演じた吉沢亮が、今度はどんな日本風イケメンを演じてくれるのか楽しみです。
吉沢亮 ご本人は、錦織友一を「秀才と呼ばれるがゆえのプレッシャーを抱えた人物」と見ています。
また、錦織友一が、非常に魅力的な人物に見えた、ということで、この役を引き受けた、と語っておられます。
そこから発展し、錦織友一は「自分の力で日本を変えたい」と強く理想を持つ人間として成長させようという意気込みが見られます。
同時に、レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)に振り回される様子も見受けられ、楽しい構成になっていると思われます。
ここから、どのようにして、ヘブン先生と親友になっていくのか、これも注目したいです。
また、英語を話す難しさも感じている、ということをおっしゃておられました。
錦織友一の家族は?
錦織友一(西田千太郎)は亡くなった時には、両親と、妻、そして4人の子供(一男三女)がいました。
西田千太郎(錦織友一)の妻
妻とは、1884年、安食クラ(あじき くら) という女性と結婚し、翌年に娘 キン が生まれました。
錦織友一は、松江中学を退学して、学校で授業の助手として働いていた頃の話です。
しかし、それでも勉強を続けたくて、1885年に東京に行きました。
「ばけばけ」の中で、トキ(小泉セツ)と、東京で出会ったのがちょうどその時期でした。
妻たち家族を、一緒に東京に連れて行ったという記録は見つかっていませんが、おそらく1人で東京に出て行ったのでしょう。
妻、安食クラの出身などは、わかっていませんが、出雲地方に多い苗字です。
クラさんは、西田千太郎より5歳下です。
人柄がわかるものとしては、小説「へルンとセツ」のみで、そこには、『穏やかで優しい』とあります。
夫が、仕事を辞めてまで、東京に言って勉強するというのを、容認した女性ですので、優しいだけでなく、芯もあり、生活力もあった女性ではないでしょうか。
西田千太郎(錦織友一)の子供達
娘 キンについては、知られていることがないのは残念でう。
3人の息子たちは、上2人の動向が知られています。
西田千太郎の長男 西田哲ニ(てつじ)
1888年生まれで、父親の名前の「二」の漢字を受けついでいます。
哲二さんは、名前と同じく秀才ぶりも父親譲りで、旧制中学卒業後、東京帝国大学(現代の東京大学)工学部に進学しました。
しかし、短命なのも親譲り(?)だったのか、30歳で亡くなっています。
西田千太郎の次男 西田敬三(けいぞう)
敬三は、哲二より3歳下、1891年の生まれです。
敬三も、父や兄と同じく、優秀な人材です。
東京帝国大学農学部に進学後、「農商務省水産局」に就職しました。
第2時大戦中は、朝鮮総督府の水産試験場 勤務となりましたが、戦後、日本に帰国し広島大学水畜産学部教授・学部長 の職につきました。
無事定年退職を終え、1980年、89歳で亡くなった、ということは、無事長寿を全うし、父や、兄のように早死にしなかったのですね。
西田千太郎の三男 西田兵四郎
この方については、1894年に生まれ、中学を卒業した、ところまではたどれまが、それ以降の記録は全くありません。
長女については、女の子ですので、嫁に行ったりして、正確な記録が途切れる、ということは第二次世界大戦以前なら、珍しいことではなかったのですが。
男性の場合は、記録が見つけやすいのですが、三男の場合は見当たらないのです。
こちらも第二次世界大戦以前のこと、家制度の日本では、長男が特に大切にされていたので、その影に埋もれて、記録が消えてしまったのではないか?と思われます。
まとめ
「ばけばけ」で、松野トキ とレフカダ・ヘブンの親友となる、錦織友一 は実在の 西田千太郎がモデルです。
努力家で、英語ペラペラの影には、「大盤石」と呼ばれていたことからもわかるように、数多くの努力が感じられます。
非常に好感のもてる登場人物ですが、結核で早死にしてしまうのが、実に惜しいです。
レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)が日本を愛すようになったのは、自分のために親身になってくれた日本人の親友がいたからこそ、と思わせてくれる人物が、錦織友一でした。

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