織田信勝(おだのぶかつ)、という織田信長(のぶなが)の弟が「豊臣兄弟」に登場します。
「豊臣兄弟」関連のニュースや、SNSでは、織田の弟が主役を食うかもしれない、という意見があるのです。
その真相を確かめてみましょう。
織田信勝の登場時間は、非常に短いものでしたが、その分、強い印象を与えました。
ここでは、織田信勝が、兄とどんな確執があったのか?なぜ死への道へと追いやられてしまったのかを調べてみました。
織田信勝、暗殺される!
兄を2度も裏切った、1558年、織田信勝(おだのぶかつ)は暗殺という最期を迎えました。
織田信長は、謀反を2度も企てた弟を許せなく、排除するということで、ついに暗殺に踏み切りました。
暗殺に踏み切ったのは、織田信長には、弟・織田信勝が無能に思えてからです。
暗殺は次のように行われました。
場所は清洲城(きよすじょう)。信長は、「病気にかかった」と、弟に伝わるような情報を流しました。
それは、織田信勝をおびき寄せるためです。
織田信勝が見舞いにきて、清洲城に入ったところで、信長の家臣たちの手で殺害されました。
現代社会に生きる私たちにとっては、実の兄弟までも殺害してしまう、恐ろしさを感じてしまうのですが、
弱肉強食の中で、自分が抜き出ようと思ったら、不安要素を全て排除しなければならない、これが戦国時代の掟だったのかと、私は思います。
そのためには、排除する相手は、兄弟、あるいは親子でも、という壮絶な時代だった、これは私たちには理解が難しい事実です。
織田信勝は織田信長の弟!
織田信勝は、織田信長の弟で、信長とは同じ母から生まれました。
信勝の下に、さらに「お市の方」がいました。
他にも、同母からの兄弟は、います。
織田信勝は幼少期から優秀と言われ、むしろ兄の信長の方が「大うつけもの」(つまりバカ殿?)と呼ばれていました。
この辺りが、2人の兄弟の間に溝ができた原因と思います。
さらに、織田の2人の兄弟を語るには、母親の存在が欠かせません。
織田信勝、母から溺愛?
織田兄弟の両親は、父は織田信秀(のぶひで)、母の名は、土田御前(どたごぜん、または。つちだごぜん)。
土田御前は、信長よりも弟の織田信勝の方を愛しました。
母親が、長男より次男を愛する…これは戦国時代〜江戸時代初期にかけて時々起きました。
武将の家の長男は、家の跡取りなので、母親から離され、特別な教育を受けます。
次男が生まれると、一族の主人となることが期待されていないので、母親のもとで、愛情を受けて過ごします。
必然的に、母親の愛情と期待は次男に集中します。
そこに家臣たちの、利益がかかってくると、長男派と次男派に別れ、家臣たちが二つに分かれてしまいます。
織田家の他に、有名なのは伊達家、もう少し時代が下がると、徳川家康の孫、家光と忠長のいさかいがあります。
本当は家を尊属させて守り立たせるには、一族内での争い事は避けなければいけないはずなのに。
織田信勝と、兄の仲は?
織田信勝と兄の信長は、子供の頃は仲が良い方、と「豊臣兄弟」では設定されています。
では、それは本当だったのでしょうか?
実際はそれほど仲が良いものではなかったようです。
武家での、跡目争いは正室の子vs側室の子、という図式が多いです。
しかし、側室の子は、正室の子に比べると立場は弱く、結局、正室の子の方が後継者になります。
織田兄弟の方は、どちらも正室の子、どちらも家長になれる資格があります。
兄が、当主不適格者だったとしたら、弟が立てばいいのです。
だからこそ、2人の兄弟は争い合う結果になります。
織田信勝と信長は、争うべくして生まれてきた、宿命のライバルだった、と私は思うのです。
その争いに油を注ぐ役割を果たしてしまったのが、母親の土田御前だった、というわけです。
織田信勝、なぜ謀反を起こした?
謀反、つまり信長に対する裏切りですが、織田信勝は生涯2度も、兄を裏切りました。
母のひいき、家臣からの期待、それらが、織田信勝に織田家当主への、野心を植え付けたのか?という想像は私にはあります。
真相はどうだったのでしょう?
織田信勝は父から気に入られていたから?
織田信勝は母・土田御前にひいきされ、「自分の方が…」と自分を主張するようになった、と思われがちですが、実は、父・織田信秀からの期待も影響しているのでは?と見えます。
織田信秀は、晩年、次男・織田信勝に与えた末森城に、柴田勝家、佐久間盛重たち、織田の重臣たちを、送りその勢力をより安定したものにしました。
兄の信長の方にも那古野城(なごやじょう、現代の名古屋城のこと)の守りも強化し、兄弟の勢力の比率はほぼお同じでした。
そのすぐ後に、織田信秀は亡くなり、兄弟2人の勢力は対等なものになっていました。
そこに、織田信長の、父の葬儀での焼香の香を投げつける事件が起きたのです。
これは父・信秀が、信長を後継ぎとみなしながらも、はっきりと、声明をあげていなかったことに対する、怒りだったのでは?という意見が現代ではみられます。
本当の原因は、母のひいきからではなく、父が次男に心が揺れ動いていたから、そう自分には想像してます。
織田信勝、謀反その1の場合
謀反の理由は、斎藤義龍に焚き付けられた戦に乗ってしまったからです。
織田信勝・信長兄弟の叔父たちとの、対立が表面化してきたのちのことです。
その時は1556年、で織田信勝は20歳〜21歳頃でした。(信長は、2歳ほど年上)
美濃国の斎藤義龍(さいとうよしたつ)が父の斎藤道三を排除し、父の政策に反対の路線をいくことを決め、織田信長を敵視していました。
そこで、織田信勝に近づき、織田信長を討ち取る計画を持ちかけました。
そのために、斎藤義龍は、織田信勝に従っていた、柴田勝家(しばたかついえ)・林秀貞(はやしひでさだ)に近づき、信勝へのサポートをします。
支持を受けた織田信勝は、柴田勝家、林秀貞を引き連れて、織田信長の城を襲いますが、信長の勢いは強く、織田信勝は破れました。
柴田勝家が負傷したのも敗因の一つです。
それでも、兄・信長は弟・織田信勝を許し、柴田勝家、林秀貞も許します。
この許しには、母の土田御前のとりなしがあった、とも言われています。
織田信勝の謀反、その2の場合
しかし、織田信勝、懲りなかったのですね、再び謀反を起こします。
兄・信長への敵意が消えていなかったのです。
1回目の謀反から1年ほどしかたっていない1557年ですが、もう一つの説がでは、その翌年1558年とも言われています。
「信長公記」によると、織田信勝は新しい城を建てていたのですが、
その理由が、今川氏からの攻撃に対する守りの拠点とするというのが、名目でしたが、信長との戦いの準備のため、にも見えました。
信長としては、自分に脅威を見える要因を排除する必要がありました。
今度は柴田勝家の密告で、信長の知るところとなりました。
ではなぜ、柴田勝家(しばたかついえ)は、織田信勝を密告する行為をしたのでしょう?
その理由が「信長公記」に書かれています。
そして、織田信勝は最後となりました。
織田信勝、男色だった?!
という衝撃的な話が、「信長公記」に書かれています。
男色が原因で、柴田勝家に愛想を尽かされて、信長に密告されたのだ、ということが。
織田信勝が、2度目の謀反を起こそうと、竜泉寺城を建設していた時(1558年あたり)のこと。
信勝は、男性を寵愛するあまり、他の家臣たちを大事にしなくなってきた、というのです。
それをみていた、柴田勝家はいたたまれない気持ちになり、織田信長の方に主人を変えようと思いました。
戦国時代の男色は趣味というよりは、「衆道」と呼ばれ、むしろ武士のたしなみとして、扱われていました。
ですから、男色ぐらいで、柴田勝家が、織田信勝に呆れた、ということは私はあまり考えられないと、思うのですが。
他の臣下たちの話を聞かなくなった、織田信勝に見切りをつけた、という方が正しいかもしれません。
織田信勝、イケメンだった?
おそらくイケメンだった、と思われます。
兄に暗殺される、という悲劇的な最期が同情を呼ぶのはもちろんですが。
母親が同じ兄の、織田信長の肖像画は、整った瓜実型の顔立ち、そして、また母親が同じの、妹お市の方も戦国一の美人、として、絵画に、伝承に残されています。
ですから、同じ父母を持つ、織田信勝もイケメンだったのだろう、という想像がつきます。
「信長公記」には、『色白で容姿端麗』という描写があります。
それだけでなく「信長公記」には、信長の兄弟たちも、「美形揃い」であった、という記録が見られます。
美形が多い一族、ちょっと羨ましいですね。
織田信勝か、織田信行か?
織田信長の弟には、二つの名前が伝わっています。
織田信勝、そして織田信行(のぶゆき)ですが、どちらも歴史書に書かれている名前です。
現代では、「織田信勝」という名前で通っています。
「織田信行」と書かれているのは、江戸時代に書かれた、家の系図の解説書で、「信勝」は別名と書かれている箇所もあります。
「信勝」という名前が、使われるようになったのは、「織田信勝」が織田信長と家長争いをした時の記録にあったことから、「信勝」の方が正式なのではないか、と推測されました。
以前は大河ドラマで、織田家の物語が登場した時は「織田信行」という名前で語られていました。
織田信長の息子に、織田信雄、という人物がいますが、こちらも「おだのぶかつ」と読みます。「勝」と「雄」が違うだけですが、読み方が同じです。
織田信勝、「豊臣兄弟」では?
「豊臣兄弟」では、織田信勝が登場する前から、「中沢元紀では?」と話題になっていましたが、第4話で1分にも満たないシーンで、視聴者を驚かせました。
「一瞬すぎた」
「誰だかわからなかった」
という面も話題になっています。
しかもシーンは、織田信長の回想シーンのみ。
ここでは、回想、ということが一つのポイントで、これからの織田信長に影響してくるのでは?あるいはそうであってほしい、など期待も出てきます。
まとめ
織田信長の弟、織田信雄は、母の愛情から、自分の方が当主に向いている、と思った、ということでした。
反対に言うと、自分自身で自分を分析する力が、身に付いていなかった、とみて取れます。
しかし兄弟の巡り合わせが良くなかったのでしょうか?と私は思うのです。
と言うのも、戦国武将たちをみても、織田信長ほど、気性の激しい武将は、いな異様に見えます。
一度兄上つけてしまった、猜疑心は、消えるところを知らない様子です。
兄の気性が激しかったのは織田信行の処罰の原因の一つですが。
兄の気性を読み取れず、反乱を繰り返す、織田信行も「うつけもの」だったのではないでしょうか?
そして母の、褒め言葉を信じてしまった、マザコンでもあるのでは?

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