豊臣秀長は誰?人望と活躍は?秀吉との仲?生きていたら?藤堂高虎は部下。子孫は?

豊臣兄弟

豊臣秀長(とよとみひでなが)は秀吉の弟です。

豊臣秀吉が天下人になるのをひたすら支えた健気な弟です。

その人柄に人気があります。

早死にしたのですが、もし、もっと生きていればどんな世の中になったでしょうか?

人気があった人物なので、その死因が取り沙汰されています。

その死に謎はあったのでしょうか?

今でも、私たちが愛するお菓子エピソードがあります。

ここでは秀吉と対比させながら、豊臣秀吉という人物を見ていこうと思います。

豊臣秀長、誰?

豊臣秀吉と3歳違いの弟です。

父が同じという説もまた父は違うと・・・・両方の説があります。

1540年〜1591年の生涯でした。

秀吉と同様、農民の生まれです。

後に秀吉に誘われて、秀吉の部下になるところから、武士としての経歴がスタートし生涯、兄を支えます。

そして、兄 秀吉と、武将たちとの間の調整役を務めました。

兄の分身のような存在だった、と言われています。

男同士の兄弟の場合、どちらの実力が上になるかで、争いなることが多いですが、秀吉と秀長の場合、秀長が兄を支え、自分の役目を知り、徹したことで、生涯争うことがありませんでした。

豊臣秀長が温厚な性格だったせいかもしれません。

兄の良心となる部分を引き受けたかのようです。

大和の地を与えられて大和守(やまとのかみ)と呼ばれていました。

秀吉の方が天下人であるのに、穏和な性格の秀長のようが人気がありました。

また秀吉とは、意見が合わずに対立することもありました。

というのも、豊臣秀吉は、嫌がる妹を離婚させてまで、家康のところに嫁にやったり、人質が足りなければ、自分の母親まで人質に送っていました。

兄の、人道を外れて見える行動に、豊臣秀長は抗議しました。

秀吉はそんな弟 秀長の考えにをうるさがったので、天下人の秀吉なら、弟の暗殺の可能性アリかも、となります。

ところが、家臣をまとめ上げ、トラブルのクッションにもなっていた秀長がいなくなると困るのは秀吉だから、やはり無理です。

豊臣秀長の人望

豊臣秀長は、また知将でもありました。

知将とは、軍事関連で戦略の立て方がうまく、軍議では適切な意見を述べるということです。

浅井・朝倉攻めでも自分が打ち出した策で成功しました。

また、竹中半兵衛といった他者の意見を聞き入れる、器の広さも持ち合わせています。

さらに経済面でも優れていたと言います。

但馬にある銀山に目をつけて、そこを支配していた一族が落ち目だと知り、攻め落とし但馬一体を掌握しました。

戦果を次々あげたにも関わらず、おごらない性格に人望が集まりました。

「武功夜話」では、常に温和で、邪心のない人物、と評判である、と書かれています。

多くの人に好かれ、豊臣政権に必要な人材は全て、豊臣秀長が集めたということです。

「人たらし」の兄弟、と言いますが、秀長は兄 秀吉以上の「人たらし」だったのですね。

豊臣秀長の活躍

本能寺の変の後

本能寺の変以降の動きで活躍ぶりを見せました。

1582年、本能寺の変が起きた時、豊臣秀長は兄 秀吉と共に中国地方の毛利を攻めの最中でした。

知らせを聞いて、急いで戦を終わらせ、京都まで帰ります。

それが「中国大返し」と言われる行動です。

大返しで、秀長は、しんがり(一番最後)につきます。

信長討死の知らせがもし、敵方 毛利氏(もうりし)に届いていれば、追撃されるのは必須。

それをなんとか無事に切り抜けて、京都まで帰ってきました。

次に、明智光秀を倒すのですが、討伐の山崎の合戦で、秀長はまた重要な役わりを果たしました。

四国征伐

1585年、秀吉は四国征伐にかかります。

四国の長宗我部氏が相手です。

その時は秀吉は体調を崩して大阪で留守番をしていました。

そこで代理として、豊臣秀長が総大将となり、80,000の軍を率い、次々と戦果を上げていました。

秀吉の方は徐々に健康を取り戻していったのですが、ここで病み上がりの兄の出陣を願っては、面目が立たない、といって、兄の参戦を断りました。

「自分に任せて欲しい」そう書状を送ったと「四国御発向事」にあります。

そこからも秀長の攻撃は凄まじく、50日余りで長宗我部氏を降伏させ、四国平定となりました。

穏和と言われているとは信じ難いほどの、鬼神ぶりです。

必要な時には、力を発揮する人物なのだな、ということがわかります。

大和郡山の領主となって

ここで豊臣秀長は100万石の大名となります。

これで、押しも押されずの一大大名です。

大和国は、宗教が強い地域でした。

宗教勢力が出張ってくると、争いが絶えなくなるので、宗教抑えるために、検地をして税額を計ったと言います。

郡山での経済を発展させるため、郡山での商業活動を奨励しました。

そのやり方は、織田信長の手法と似ています。

織田信長の元で、自ら学ぶことが多かったのでしょう。

豊臣秀長も兄 秀吉も、農民の生まれだったため、武将なら生まれると同時に身につける、学問、教養がつけられていなかったのです。

それだからこそ、大人になって、人一倍努力して、学問・教養を身につけたのでしょう、

例えば現在まで残っている、手紙などは、見事な筆捌きです。

この兄弟の、裏でどんな努力があったのか、と思うと頭の下がる思いです。

豊臣秀長 秀吉との仲は

幼少時代

兄弟というと、仲が良かったか、そうでなかったかが気になるところです。

幼い頃は中がいい、悪いもありませんでした。

というのも、秀長がまだ小さいうちに秀吉(この頃は、藤吉郎 とうきちろう と呼ばれていた)は家を飛び出してしまったからです。

一方秀長は、子供の頃は、小竹(こちく)と呼ばれてました・

秀吉は、農民であることが嫌になって一攫千金を目指しました。

それに対して、秀長は地道に農作業をし得て農作物を育てることに生きがいを見出していました。

これだけ見ても、秀吉と秀長、性格が全く違いますね。

この性格の違いから、秀吉と秀長の父親は違う人なのではないか、という説があるのでは?

秀長、秀吉の部下となる

兄、秀吉は、織田信長の家臣となったのち、初めて里帰りしました。

故郷で自分の部下になる者をスカウトするためにです。

まず秀吉が目をつけたのが、弟の秀長。

兄の説得に感銘を受けたのでしょうか、秀吉の部下となり、名前の木下小吉長秀(きのしたこきちながひで)と名乗りました。

秀長、という名前は、秀吉が天下人になってからです。秀の字と長の字を入れ替えました。

その理由は分かりません。

出世してから名前を変える武将は多いので、秀長もそれに倣ったのかもしれません。

秀吉の部下ではありますが、農民の若者が急に戦に出て・・・なんて活躍はできませんので、当面は戦場に出かけて不在となった秀吉の留守を守る任務をしていました。

秀吉の大事な補佐役に

そのうちにだんだんと、秀吉の部下の武将たちをまとめる仕事を任されるようになりました。

確かに、農民上がり、などどバカにされることもあったようですが、だんだん武将たちも秀長を尊重するようになってきました。

これも、秀長が真面目で穏和で、人懐こい性格をしていたからだと思われます。

兄とは対照的な性格だったのが功を奏して、人心を掴み、秀吉とはうまい具合のタッグを組んだのですね。

秀長は、秀吉の補佐役と同時にストッパーの役になっていました。

秀吉は熱しやすく直情的な性格でしたが、弟、秀長は穏やかなタイプだったからです。

豊臣秀長の死後

秀長は志半ばにして、亡くなりますが、秀長の死によって、豊臣家は打撃を受けることとなります。

秀吉に対するストッパーがなくなり、秀吉は朝鮮出兵を強行し、失敗に終わります。

後継者となった秀次も、刑死させられました。

千利休の処刑もまた、人々から不満を向けられる原因となりました。

秀吉本人は気がついていなかったかもしれません。

豊臣秀長が、生きていたら

歴史には「もし、〜れば」という仮説がよくあります

豊臣秀長の場合も、もう少し生きていたらどうなっていたでしょう。

秀長が生きていれば・・・確実に言えることといえば、千利休の切腹は避けられました。

千利休に対しては、家康をはじめとして、多くの助命嘆願が集まっていました。

豊臣秀長なら、うまく秀吉の怒りをいさめられたはずです。

秀次の処罰事件は、この時期から秀吉は自分の実の息子可愛さに、少し精神の均衡を崩していたかも、と歴史では言われています。

秀次事件と朝鮮出兵を見て、秀吉にアルツハイマー症があったのでは・・・・と現代では考えられています。

この辺りはいくら豊臣秀長が生きていたとしても、止められなかったでしょう。

それに豊臣家滅亡も、秀長人気のため多少は先に伸びたかもしれませんが、防ぐことはできなかったはずです。

秀頼が幼過ぎたこと、秀吉ほどの統率力を持たなかったのが原因だったからです。

豊臣秀長の家臣 藤堂高虎(とうどうたかとら)

豊臣秀長の家臣からのちに、名のある武将になった人物が藤堂高虎です。

藤堂高虎は元々は、浅井長政(あざいながまさ)のもとで足軽をしていました。

浅井家滅亡の後は、織田家に仕えていましたが、そこもやめて豊臣秀長の元にやってきました。

そのころの藤堂高虎は、禄高(給料に相当する)も高くなありませんでしたが、秀長はこれまでの戦で、藤堂高虎の働きぶりに目をつけていました。

豊臣秀長の元で認められて、藤堂高虎はメキメキとその才能を発揮していきました。

「人たらし」なのは、さすが秀吉の弟だけあります。

豊臣秀長あっての、藤堂高虎でした。

秀長の死後は、秀長の息子に仕えていたのですが、その息子も早いうちに亡くなると、失意のもとに出家しようと思ったほどです。

そこを、今度は秀吉に拾われて、秀吉の元で活躍して、武名を高めます。

しかし、秀吉の死後は、徳川家康に従います。

豊臣の遺臣たちからは、「裏切り者」と呼ばれますが、藤堂高虎にとっても真の主君は、豊臣秀長忠ただ1人でした。

豊臣秀長の子供

豊臣秀長には、男子1人、女子2人 の3人の子供がいた、と記録にあります。

豊臣秀長の息子

息子は、木下与一郎、または羽柴小一郎という人物ということです。

生まれた年はわかっていません。

秀吉が、1578年〜1580年、三木合戦(織田信長の在命中)の参戦者に「木下与一郎」の名前が残っています。

それが秀長の息子だった可能性があります。

ただし、三木合戦には城攻めの将軍の1人、「木ノ下将監」(きのしたしょうげん)という人物がおり、その人の身内の木ノ下もいたので、どちらかの判明はついていません。

羽柴与一郎は結婚はしましたが、早死にしてしまいました。

子供はいませんでした。

豊臣秀長の娘たち

長女 おみや

長女は、「おみや」といったそうです。

おみやは秀長の姉の息子(従兄弟ですね)秀保(ひでやす)と結婚して、秀保婿養子として、秀長の後継者となりました。

秀保の兄は、豊臣家の後継となるはずだった、秀次です。

おみやは秀保と結婚するものの、結婚から4年後に秀保は亡くなります。

急速に容体が悪化していったのですが、この亡くなり方は、おみやの兄、与一郎の死に方とよく似ています。

歴史が語り継がれていく中で、どちらも若死にしたので、話が混じってしまったのかもしれません。

この2人の間にも子供はいません。

次女 おきく

長男と長女は、正室の間に生まれた子供だったのですが、次女は側室との間に生まれた子供とされています。

おきくは最初は母と住んでいたのですが、のちに父の大和郡山城に引き取られました。

しかし、まもなく秀長は亡くなります。

その後は秀吉に引き取られ、養女となって、毛利秀元(もうりひでもと)に嫁ぎました。

毛利秀元は毛利輝元の養子で、この時点で後継者でした。

その後、大波乱が起きて、毛利輝元に子供が生まれて、秀元は後継者の座を外されます。

秀吉と似たような、ことが起こったのですね。

一方、おきくの実家も、義兄 豊臣秀保が亡くなり、実家の後つぎは亡くなり、秀長家は潰れてしまいました。

その後は関ヶ原の戦いがあり、毛利家は徳川につくのですが、家康からは簡単に寝返るやつ、と思われてひどく厳封される始末です。

それでも、夫 秀元との仲は良い状態のままでした。

ところが、1609年、おきくは23歳で亡くなります。

もしかしたら早死にの家系だった?

3人の子供、誰1人として子供を残した者はいませんでした。

豊臣秀長の兄 秀吉にも直系の子供はいないとなると、豊臣家は滅びる運命にあったのでしょうか?

豊臣秀長と鶯餅

豊臣秀長は、大和を秀吉から賜り、郡山城城主となっていました。

1580年、秀吉を郡山城に招いての茶会をすることとなりました。

秀長は、何か美味しいお菓子はないか、とお城御用達の菓子職人、菊池治兵衛(きくちじへい)に相談しました。

そうしたところ、一口サイズの餅に餡子を入れ周りにきな粉をまぶしたお菓子を作ってきました。

秀吉はそれを大変気に入り、「この菓子を鶯餅と名づけよ」と、菓子に名前を下さりました。

それ以来、この菓子は、鶯餅と言われるようになり、現代の私たちも茶菓子として楽しんでいます。

私たちが知る鶯餅は、生地はもち粉から作った餅で、周りにまぶしてあるきな粉は蓬が混ぜられて全体に若草色です。

一方、菊屋治兵衛の店では、生地は餅米から餅を作り、周りのきな粉は、よもぎを入れない普通のきな粉です。

そして、地元では御城之口餅と呼ばれています。

それは店が、お城の入り口近くに、今も昔もあるからです。

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