2026年大河ドラマ「豊臣兄弟」の主人公、豊臣秀長にはケチという噂があります。
豊臣秀長のけちが金銭感覚が、豊臣秀吉の出世に財政を支えたのでしょうか?
豊臣秀吉は、ケチと言われる上、金貸しまでして、豊臣家の財政を作り上げました。
財政テクが、兄の秀吉の朝鮮出兵にまで
そのケチぶり、どのように発揮されたか、調べてみました。
「豊臣兄弟」豊臣秀長はケチ?!
具体的な「ケチ」のエピソードを挙げてみましょう。
「川角太閤記」という書物には、島津討伐に九州に遠征した時、豊臣秀長は米を大量に準備したのです。
普通なら、これは兵糧米で、兵士たちに配る、と考えられるでしょう?
ですが、豊臣秀長は、米を彼らにお金をとって販売しました。
これで、豊臣秀長の評判は、ダダ下がりです。「米を配って、兵士を援助するのではないのか?」という声も上がります。
なんと、ドケチ、せこい!と私は声を上げたいのですが、以下のように見える、という解説もあります。
それは、無償で兵に米を与えると、兵士たちが、公平さ、不公平さを感じて、米の取り合いが起きる可能性があったから、販売することにした、という理由です。
もし、兵士同士の争いを避けるために販売した、というのならば、豊臣秀長は、先を見通す力があった、ということになります。
豊臣秀長は、幼少期〜青年期にかけて、生活は貧しい者でしたので、自然とお金を貯める癖があったのかもしれないですね。
ですから、そこを「ケチ」とみなされたのでしょうか?
豊臣秀長の蓄財は?
豊臣秀長がケチ、という噂が出たのは、秀長の死後で、秀長の治める大和の郡山城に、財産が山ほど残されていたところからです。
では蓄財として、どのくらいあったのでしょうか?
金子(金貨)は約65000枚、金子は6畳間いっぱいになるほどの量。
当時の価値で、金子の一枚で10万円〜15万円。とみると、およそ現代の70億ほどにはなっているでしょうか。
その話は、現代の作家、堺屋太一の『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』に書かれています。
小説の元ネタとなったのは、「多聞院日記」の記載からです。
なんとまあ、豊臣秀長は、稼ぎまくったことでしょう。
| 多聞院日記
奈良の興福寺には、多聞院(たもんいん)という塔頭(たっちゅう)があり、そこで、勤行をした僧侶たちが代々書いていった日記です。 1478年〜1618年までの記録が、日記には残されています。 内容は、興福寺についてのこと、大和(奈良)の情勢が主に書かれていました。 |
「豊臣兄弟」豊臣秀長、秀吉の怒りを買う?
豊臣秀長が行った、金銭貸しの事業は、兄・秀吉の怒りを買うこともありました。
兄は、豊臣秀長の部下に不祥事があったのです。
「多聞日記」という日記の中に、以下のようなエピソードがあります。
豊臣秀長の領地だった紀伊の国(現在の和歌山県)では木材が採取され、その木材は、大坂で売られていました。
木材の売買の役目を与えられていたのは、豊臣秀長の部下でした。
ところがこの部下が、木材の収益をピンハネ、つまり横領していたのです。
やがて、横領は豊臣秀吉に知られることとなり、秀吉は、秀長の部下の処刑を命じました。
横領事件は、「豊臣秀長が、自分の部下に横領を命じたのではないか」という噂を呼びました。
噂を秀吉は信じたようで、弟、豊臣秀長に対し「正月に顔を見せるな」と、伝えるほどまでに怒っていました。
豊臣秀長が、本当に収益の横領を命じたかどうか、は不明のままでいます。
しかし、豊臣秀長の死後に発見された、お金の量などを考えると、もしかしたら秀長は収益金を一部ピンハネした?事件は、ある程度事実か?と私には見えるのですが。
「豊臣兄弟」豊臣秀長の『奈良貸し』とは?
「奈良貸し」とは、豊臣秀長がお金を貸していたことを、示す事実です。
「奈良貸し」の制度から、豊臣秀長は、「高利貸し」と言われるようなりました・
「ならかし」と読み、「奈良借」といういう書き方の方が、本来の漢字のようです。
「奈良貸し」というのは、この金貸が行われたのは、豊臣秀長の領地、大和国(現在の奈良県)だからです。
| では奈良貸しとは
寺社、商人にお金を貸して、地域経済の活性化をはかるために、地域全体の経済状況を挙げていく、これが目的でした。 年貢以外の方法で、お金を地域に回し、税収を増やしていくやり方です。 |
「奈良貸し」のメリットは、金を貸し付ける領主は統治力が強まり、借りる側は資金をえて、経済活動がやりやすくなるところにあります。
豊臣秀長、「奈良貸し」の目的は?
豊臣秀長の「奈良貸し」の目的は、
- 奈良の経済的発展のため
- 兄・秀吉の朝鮮出兵の軍資金を稼ぐため
と考えられています。
そのうちの一つ、『奈良の経済的発展のため』を見ていきましょう。
豊臣秀長の領地(奈良)の繁栄のため、に行った、という説を、
現代の歴史学者・黒田基樹は、著書『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国政治』に以下のように書いています。
「金銭貸付は、利子を目的にした貸付というよりも、奈良への経済融資をし、融資から地域を発展させようとした意図があったのこと」
「秀長の死後、秀吉が、残った貸付金を破棄しているところから、営利目的の高利貸し、ではなかったことが、うかがわれる」
私は現代の「国債」に似ているかな、と思ったのですが、国債のほうがもう少し、利益を目的とした感じがします。
朝鮮出兵の資金繰りのため、というのは、下記に項目を作りました。そちらをご覧ください。
豊臣秀長の「奈良貸し」いつから
「奈良貸し」は、1589年10月5日に、豊臣秀長は、奈良の裕福な商人たちに、米1万石を貸し付けたのが始まりです。
金子(小判のような金貨)一枚を米4石として計算し、金子2500枚を、貸し付ける形としました。
貸した以上返済しなければなりません。返済日は、翌年(1590年)春、と決められ、返済もきちんと行われていました。
以上のことは、「多聞院日記」に記録が残されています。
奈良の町人は真面目だったのですね。だから豊臣秀長の、「借金をしろ」という申し出に応じたのですね。
しかし豊臣秀長の、けちぶりはこの後も、続きます。
1590年の春以降もまだ、豊臣秀長は町人に、金子を貸し出しそれが1591年、秀長が亡くなるまで続きます。
その時には秀長に返すべき残高が、金子(金貨)でまだ500枚あった、のです。
豊臣秀長の「奈良貸し」の後始末?
豊臣秀長が1591年に亡くなった時の残高は、兄・秀吉によって債権は放棄されます。
放棄を宣言したものが、「徳政令」と呼ばれており、これで「奈良貸し」は終わった、と見えるのですが、実は事件が起こってしまいます。
井上源五、「不正貸付事件」
豊臣秀長の部下で奈良奉行(南部奉行、と言っていた)を務めていた、井上高清(いのうえたかきよまたは、井上源五、とも言われている)が「不正貸付事件」を起こします。
貸し付けるには、元手がなけれでめですが、その金は、秀長が亡くなった時に、まだ町人に「貸し付けたままになっていた、500枚の金貨(金子)を使ったのでした。
井上源五が、豊臣秀長に南部奉行に任命された、ということですが、秀長没後も秀吉から引き続き南部奉行を務めてました。
そこで「徳政の令」で、「奈良貸し」の後始末を任されたのではないでしょうか。
だからこそ、そのお金を、借金破棄にしないで、そのまま利子回収を行ったのでしょう。
その利子は両替商に納められ、その後、井上源五のもとに入るようにしておきました。
「不正貸付事件」の始末は
不正事件に対し、井上源五は処罰されないで終わり、あいまいにされてしまいました。
その理由は、やはり、秀吉の朝鮮出兵のための資金集め、が関係しているからです。
朝鮮出兵は、豊臣政権の重要な政策になってきていたからです。
井上源五が、処罰されなかった理由を考えると、豊臣秀長の「奈良貸し」は、出兵の資金を稼ぐために考案した、政策と見ることができます。
しかし、豊臣秀長は、秀吉の朝鮮出兵を反対した側の人間。
すると、「奈良貸し」の目的は、朝鮮出兵の財源集め、というのはちょっと違うのかもしれない、と私は考えるのですが。
それでも、兄が出兵を決めてしまった以上、その被害をできるだけ抑えようとして、資金あつめに翻弄したかもしれない可能性を、私は同時に感じています。
「豊臣兄弟」豊臣秀長、「朝鮮出兵」の資金調達をはかる
『奈良貸し」は、軍資金集めのため、と言っているのは、河内将芳(奈良大学・歴史学教授)は、「図説 豊臣秀長」には次のようなことを書いています。
「文禄の役(朝鮮出兵)のための、船を製造するための費用を、奈良貸しからの金銀を使うよう、秀吉は、指示を出した」、ということです。
朝鮮出兵の軍資金に当てた、となると、「奈良貸し」とは、利子を集めようとした目的が感じられます。
秀吉も、「戦には大量の金が必要」とよく知っていました。
だからこそ、井上源五事件の結末を、きちんとつけないでいた、いえ、つけられなかったのです。
まとめ
豊臣秀長が、「ケチ」と言われていますが、
「ケチ」というより、財テクに優れた才能を発揮する人物、と見えます。
「ケチ」というのは節約家で、物や金を使うときにいちいち、ケチケチ渋るイメージですが。
豊臣秀長の場合、お金を集めよう、とういうほうに頭が回っている感じです。
人から、金をとって売りつけたり、金貸しをしたり、とそれを勧められた人にとっては、非常に嬉しくない話で、やっぱり、ケチ、と思われてしまう性質です。
豊臣秀長の、金儲け主義、うまくお金が集まってきていたようですが、そのため、悪い噂もついてまわりました。
こういう点から考えると、豊臣秀長は、豊臣家が繁栄するように、あえて、泥水を被った、という見方もできます。

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