佐久間信盛(さくまのぶもり)とは、織田信長を怒らせてしまった家臣です。
「折檻状」という厳しい内容の書状を送られ、追放されたことで、信長のパワハラ、ブラックを感じさせる事件です。
佐久間信盛と信長との間のいざこざは、今度の信盛の最期、今後の織田家臣たちの気持ちも左右する事件になります。
事件の全容を知ると、織田信長の恐ろしさを知るきっかけとなった佐久間事件、ここで明らかにしていきます。
佐久間信盛、折檻状を受けた?
折檻状は、織田信長が、家臣の佐久間信盛に宛てて、1580年に書いた、怒りの手紙のことです。
佐久間信盛、折檻状を受けたきっかけは?
佐久間信盛が、織田信長の怒りを買う事件が起こりました。
織田信長が、石山本願寺攻めのため、佐久間信盛を派遣しました。
信長の指示は、「包囲を続けて、戦うな!」で、それを忠実に守り続けたのでしょうか、佐久間信盛は5年間、包囲に専念しただけでした。
「戦うな」、というのは信長の命令でしたが、本願寺側に対し、「降伏しろ」という呼びかけもしませんでした。
本願寺包囲をしていた佐久間信盛を、織田信長は、「職務怠慢」とみなし、送ったのが、『折檻状』でした。
「折檻」という言葉は、相手を強く怒ること。イメージとしては暴力も含んでいます。
織田信長は、折檻という体を使った暴力にはなりませんでしたが、これは立派な言葉の暴力だった、と私は思います。
これを受け取った、佐久間信盛は、まさに身体的折檻と同様の苦しみを感じたことでしょう。
佐久間信盛が受け取った「折檻状」の内容?
「折檻状」の内容は19条にも及びます。
それは、石山本願寺だけのことでなく、三方原など、他の戦についてまで言い及んでいました。
内容を、簡単に説明しますと、
- 職務怠慢
- お前は無能だ
- 恥ずかしいやつめ
- 他の家臣は、失敗してもその後挽回してるのに、佐久間はその気配もない
- 水野信元の死後、その領地を任せたのに、水野家の旧臣を追放し、その金銀を自分のものにした
- 古くからの家臣に給与を増やしてやることをしない、ケチなやつ
- 口答えするとは生意気な?(朝倉攻めの時)
- 欲深く、気難しい上に、良い家臣を雇おうとせずに、いい加減だ
- お前の息子も無能だ
- 信長が織田家の当主になって、30年。その間、目覚ましい活躍がない
と、だいたい、以上のような内容でした。
織田信長にすれば、気に触ることばかりを挙げた、という感じです。
織田信長が、家を継いで、30年ほど経ち、だんだん佐久間信盛の存在そのものに、我慢ならなくなってきた、そんな感じです。
織田信長は、成果主義の人物で、能力により、部下を採用する、といういう性格の持ち主でした。
だからこそ、佐久間信盛のように、家柄、仕えた歴史だけに目を向ける人物、信長には邪魔になり始めた時代に入りつつ、と私は見ています。
佐久間信盛の「口答え」とは?
事件の発端は、1578年、織田信長の、浅井・朝倉責めの時。
逆ギレする佐久間信盛
この後、佐久間信盛は、職務に気を抜いた、と信長から怒られたのですが、そこでは口答え以上に逆ギレした始末。
| 当時の様子は、「信長公記」に書かれて終えい、要約すると、
信長は、敵方からの寝返りもあって、朝倉勢に夜襲をかけ追い詰め、一気にケリをつけるつもりでいました。 しかし、動き方をちょっとでも間違えると、反対側から、浅井が攻め込んできて、織田勢は挟み撃ちにあう危険性もありました。 織田信長は、朝倉が引いていくときを狙うことにして、臣下たちにそのときを逃さないように見張るよう命じました。 しかし、佐久間信盛をはじめとした臣下たちは、事態を甘く見て、朝倉の撤退を見逃してしまったのです。 当然、「何度も言っただろうが!けしからんことだ!」と怒ります。 見逃しを怒られたことに対し、佐久間信盛は、 「それでも、(信長様は)私たちのような(立派な)家臣を、得ることは難しいです」と、言って反論しました。 |
自分を優秀に見せる佐久間信盛
逆ギレした言葉の意味は、『今回はうまくいかなかったにしても、自分たちほど優秀な家臣は他にいない!』と開き直った言葉です。
ちなみに、他の武将たちは、しっかりと謝っていました。
ですから、織田信長は尚更怒り狂い、これが追放の原因の一つにもなりました。
佐久間信盛は、織田家の古くからの家臣ということで、「他とは違う!」という傲慢な態度があったのではないか、と私は想像しています。
「口答え」の件に関しては、佐久間信盛の方が悪い、と私は思います。
佐久間信盛の性格?
佐久間信盛が、織田信長の怒りを喰らったのは、その性格に問題があったのでしょうか?
佐久間信盛はお調子者?
佐久間信盛が、信長に言い訳をした時のことを考えると、「調子がいい人」に見えます。
その場、その場で、都合のいいことを言って相手の機嫌をとる、という感じです。
その反面、その場の雰囲気を読むのが得意、ともいえます。
かつて、1568年、織田信長が京都に向かうことを決めた時、家臣の反応は鈍いものでした。
その中で、佐久間信盛は、「賛成!と早々と声をあげ、全員に賛成の意見を促します。
主人の顔色をうかがう佐久間信盛
豊臣秀吉が登用されつつあった時、織田の家臣たちは、「あんな成り上がりもの」と不満を述べましたが、
「お館様(信長のこと)の見立てが間違っていたことがあったか?」と言って、周囲を嗜めました。
主人の顔色を伺うのも上手かったようです。
織田信長の時代に、日本に来ていた宣教師ルイス・フロイスは佐久間信盛について「織田家の家臣の中で、位が高く、裕福で、強い!」と絶賛していました。
私がここまで見えたことは、力がありながらおべっか使いに見え、それに織田信長は、佐久間信盛を心底信用することができなかったのではないでしょうか?
それに何より、致命的と思えたのは、一言多い!というところでしたね。
佐久間信盛は無能?
追放される人、はクビ。クビになる理由というのは「無能」だから、という図式ができますが、佐久間信盛は、無能だったのでしょうか?
佐久間信盛の経歴を見ると、織田信長が、まだ吉法師(きっぽうし)と呼ばれていた幼少期から織田家に仕えていた、古株です。
織田家が参加した戦にも数多く参戦しており、それなりの戦果も上げているから、決して無能ではありません。
しかし、佐久間信盛の方も、朝倉攻めで信長から、信盛の行動をとがめられたとき、開き直る。
石山本願寺攻め、で積極的な行動に出なかった、
と言ったあたり、佐久間信盛の態度も傲慢に見えるようになってきたのだと思います。
佐久間信盛、追放の理由
十九ヶ条の折檻状の中にあるように、戦いの中で、佐久間信盛は、織田信長の意見を求めるようなところがなくなっていきたところに、傲慢さが感じられます。
この頃には、織田家も勢力を広げてきていたので、佐久間信盛の、口答えが他の将軍たちに悪い影響を与えるのでは?と信長も心配になり始めました。
というのは、ここで、織田信長が佐久間信盛を追放した、というのは、他の将軍たちに向かっての見せしめ的意味があったのではないかと、私は考えています。
他の武将たちには、信長に逆らったり、口答えするにような真似をされたくないのです。
逆らう武将がいると、命令の統制が取りにくくなるからです。
佐久間信盛の最期
織田信長からの折檻状が、佐久間信盛の人生の最期につながります。
出された処分は、佐久間信盛は息子・信栄(のぶひで)と共に追放。出家して高野山へ行け、だった。
「多聞院日記」には、高野山で、余生を送っていた、ということが書かれています。
しかし「信長公記」には佐久間信盛は、高野山一年過ごした翌年(1581年)、高野山を追い出された、ということが書かれています。
しかし現代の歴史学者、神田千里は、「多聞院日記」の方を信頼し、「信長公記」の方が間違って話が伝えられている、と見ています。
佐久間信盛は、熊野で最期を迎えた、というのが通説ですが、高野山で生涯を終えた、という説もあります。
佐久間信盛の死因?
死因は病死と言われています。
病名は伝えられていませんが、佐久間信盛が亡くなったときは、年齢は55歳になっていたので、体調も不調を覚えつつある年代だったのでは、と私は思います。
亡くなった場所は、高野山とも熊野とも言われています。
もう一つ説があって、十津川で湯治となったのはいいのですが、そこで足を滑らせて転落死した、
ということです。
もし十津川で亡くなったとしたら、十津川温泉を通って熊野に向かう道があるから、高野山を出て熊野に向かう。
その間、病気になっていたことを理由に十津川温泉で療養してから、という予定だったけれど、十津川温泉で、命を落とした、という流れになります。
佐久間信盛、「豊臣兄弟」では?
佐久間信盛は、もちろん、2026年NHKの大河ドラマ「豊臣兄弟」にも登場します。
「豊臣兄弟」では、「退き佐久間」(のきさくま)と呼ばれます。
「退き佐久間」とは、戦いではいつも殿(しんがり、軍の最後尾)を務め、味方を無事に撤退させられるようにする、大切な役割です。
もちろん史実でも「退きの佐久間」というニックネームは知られていますが、「豊臣兄弟」では、特にその呼び名が、強調されているように見えます。
「豊臣兄弟」では、菅原大吉さんがキャスティングされています。
見た目が頑固そうかも?
佐久間信盛、本能寺の変につながる?
佐久間信盛の追放は、「本能寺の変」(1582年6月)より2年ほど前のことで、佐久間信盛の死んだ後のことなので、直接の関係はありませんが。
佐久間信盛追放事件は「織田信長はコワい人」という意識を、織田の家臣に植え付けた効果はありました。
織田信長は、成果主義の人、だったからこそ、周りに不安をもたせてしまった、ということもあります。
長年、信長に忠実に尽くしても、報われないかもしれない、それどころか、信長の機嫌一つでも損ねたら、追放されるかもしれない、と。
家臣たちにとって、織田信長の家臣であることは、現代のブラック企業のパワハラ社長のもとで働くような気分になったのかもしれませんね。
パワハラにあって、耐えられなくなったのが、本能寺事件を起こした明智光秀でした。
明智光秀のその時の心のうちは、自分が佐久間信盛のような目に遭う前に、相手を叩き潰す!
佐久間信盛は、織田の家臣たちにとって、悪い手本となってしまった、と私は思います。
まとめ
佐久間信盛追放事件は、織田信長の性格を家臣や他の武将たちに、示すきっかけになった事件だったのではないでしょうか。
佐久間信盛の方は、優秀か家臣がいるからこそ、主人の力が良い認められる、という考えを持っていました。
しかし、主人である織田信長は、優秀な家臣がいても、その上をいく考え方ができる家臣がいるなら、そのものを重用する、という一歩進んだ考え方でした。
言ってみれば、佐久間信盛の方が古臭い考え方を持っていた、ということになります。
その古い考えの上に、油断してしまったのが、佐久間信盛の悪い点だったのだと、私は考えています。
進歩的な考え方を重んじるあまり、家臣たちに恐怖を植え付けてしまったのは織田信長の責任でもあります。
この佐久間信盛に関する、佐久間の動き、信長の動きが、今後の戦国時代の運命を左右することになったのです。

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