朝ドラ「風、薫る」に大山捨松という女性が登場しました。
大山捨松は会津出身、母からは「捨てて待つ」思いを込めて改名させられ、アメリカに留学生として送られました。
日本人女性初の学士号と看護資格を得て帰国し、看護教育の必要性を訴え学校設立に尽力します。
偏見の中でも活動し、女性の地位向上に大きく貢献し、主人公の一ノ瀬りんとも共に助けあう仲となります。
ここでは、大山捨松が、辛い過去をどう乗り越え、世の中に役立って行くようになったかを解説します。
大山捨松、なぜ捨松という名前?
「捨松」と言うのは、本名ではありません。
元の名は、「山川さき」、といいました。山川というのは結婚前の姓です。
それは、ほんの幼い頃に、母親から名前を変えさせられたからです。
「さき」はアメリカに留学することにが決まった時にです。
時代は明治初期の会津。
一度日本を出て、アメリカに行ってしまったら、日本に帰れる保証はありません。
そこで、母親は、捨てるつもりの覚悟を決めて、名前を変えて送り出したのでした。
母親の思いは「捨て、待つ」捨た思いで旅立たせたけれど、帰りを待つ。
「松」は「待つ」ということです。
母は周囲の人々からは「子供を捨てる鬼母」のような見方をされた、といいます。
このように、事情が全然わからない海外に幼い娘を出してしまった、ことは人情的にどうかな?と思える事実ですが、
明治初頭の会津という事情を考えると、母親は少しでも娘に良い環境を与えたかった、一か八かの賭けに出たのでは?と私は思うのです。
そんな母の思いが、滲み出るような感情が「捨松」という名前だったのではないでしょうか。
大山捨松、何をした人?
大山捨松は、近代女性の「初めて物語」を地でいく人物です。
大山捨松、日本人女性初めての有資格者!
まずはアメリカで初めて看護婦の勉強をし、看護婦の資格をとりました。
また、日本人女性で、初めて学士号を所得した教育家です。
鹿鳴館で、華やかにダンスを踊る姿が「風、薫る」に出てきますが、大山捨松が外国で感銘を受けたものは、華やかな文化的な面だけではありません。
病院経営の人間構成です。
日本の病院に看護婦がいないことに気がつきました。
看護婦不在にショックを受け、日本でも病人を看護する女性の手が必要、と考えたのでした。
そこで、鹿鳴館の貴婦人たちを相手に、チャリティーバザーをやり、資金を集めて日本初の看護婦養成所を1886年につくりました。
養成所を作った、という手腕も素晴らしいですが、そのための資金集めのチャリティーバザーを企画し、成果を上げた、指導力がまず目を引くと私は思います。
自分が、看護師養成所を作った、というのが何より指導力の手腕を感じます。
大山捨松、鹿鳴館では評判が悪い?
「風、薫る」で、見ていているのは今のところ、他の貴婦人たちから『成り上がりもの』のような見方をされています。
そのシーンは鹿鳴館での、舞踏会シーンで噂されているからなのですが、鹿鳴館の中で、非常に目立つ存在だったからです。
外国からの客人と外国語で会話し、西洋マナーを身につけた、近代女性。
自分から見ると、当時は西洋文化の香りのする、進歩的な女性、と見たいのですが、当時の女性たちの見方はちょっと違っていたようです。
日本女性にとって、江戸時代からイメージされていた、奥ゆかしさ、慎ましやかを捨てしまった女性、時として、「あばずれ」などと汚い言葉で噂せれることもありました。
「出る杭は打たれる」という風潮が、まだまだ当時の日本にはあったようですね。
大山捨松、看護学校を作る?!
チャリティーで、集めたお金で、大山捨松は、明治18年(1885年)日本で初めての看護学校を作りました。
その学校の名前は、「有志共立東京病院」所属の「看護婦学校」といいました。
その学校は、現代の「慈恵医大」付属の「慈恵看護専門学校」です。
「風、薫る」に出てくる学校「梅岡女學校」のモデルは「桜井女学校」であり、ここには「桜井看護婦養成所」です。
この学校は、1886年に、「桜井女学校」に併設された養成所で、大山捨松の建てた学校ではありません。
大山捨松が、バザーを計画したのは、看護婦学校を作る必要性を感じたからでした。
アメリカで育った、大山捨松は、医師を手助けする看護を専門に受け持つ人を専門家させること、そして、女性の地位の向上を目指したからこそ、看護婦学校の必要性を感じていたからでした。
大山捨松、大関和(一ノ瀬りん)との出会い
大山捨松は、大関和(おおぜきちか)に大きく影響を与えた女性となります。
大関和は、「風、薫る」の主人公・一ノ瀬りんのモデルです。
「風、薫る」の原案となっている「明治のナイチンゲール 大関和物語」では、チャリティーバザールに行った時に、大関和が英語での対応を手伝う、となっています。
「風、薫る」の中でも、似たような設定がされている、ということを耳にしました。
大山捨松は、会津藩の藩士の娘。
一方の大関和(一ノ瀬りん)は、黒羽藩(栃木県)の出身で、黒羽藩はかつては、会津藩と友好的な関係にありましたが、会津戦争の時には、黒羽藩は、幕府側についていました。
ということは、歴史的に見ると、2人は敵藩同士だったのですね。
ここで大山捨松と大関和が出会ったのは、運命のいたずらかという運命を私は覚えました。
大山捨松、看護婦だった?
大山捨松は、日本人初めての看護婦でした。トレインドナース(trained nurse)と呼ばれる、看護婦としての専門教育を受けた看護婦です。
大山捨松は、アメリカ留学中にすでに看護婦の免許をとっていました。
大山捨松、看護婦としての活動は?
大山捨松は、看護婦の資格を持っていますが、看護婦として働いたことはありませんでした。
確かにアメリカで、看護婦の資格をとり、実習をした、という記録は残っていますが、実際に勤務した記録の方はありません。
大山捨松が日本に帰国してからは、病院に看護婦という立場のものがひとりもいないことに、驚きました。
ということは、大山捨松が、トレインドナースとして働ける場所がなかった、ということです。
そこで大山捨松が思ったことは、自分が看護婦として働くより、まず看護婦を育てて、働ける場所を作ろう、いうことだったと、私は思っています。
大山捨松、看護婦を目指した理由?
大山捨松がなぜ、看護婦を目指したかというと、幕末に起こった幕府と反幕府との戊辰戦争のためです。
戦争というものは多くの人の命を奪います、怪我人も多く出ます。
大山捨松は、多くの苦しむ人を見たからこそ、人を助ける道に進みたい、と思ったのでした。
特に、捨松に影響を与えたと思われるのは、捨松の兄嫁が、砲弾で負傷しそこから命を落とすまでの経緯を見たから、ではないかと私は推測しています。
大山捨松と夫との出会いは?
大山捨松の夫は、大山巌(おおやまいわお)といい、薩摩藩の出身者で軍人です。
大山捨松(この時は姓は山川)23歳、大山巌40歳、という歳の差の結婚も驚きですが、何より私が驚いたのは、大山巌が薩摩藩出身、大山捨松は会津藩の出身で、敵藩同士だということです
大山捨松・大山巌敵となるはずの家柄?
さらに大山巌には、3人の子供が残されていたわけですから、初婚の捨松にとってはうれしいとは言えない縁談でしょう。
さらに、山川家は、会津藩の家老の家柄、大山家は下級武士、江戸時代なら、釣り合わない、ということで破談になる話です。
大山巌の、亡くなった妻の母・吉井友美(薩摩出身の歌人)が、この縁談を進めました。
大山家は西郷隆盛とは縁戚関係にあり、隆盛の弟の西郷従道(さいごうつぐみち)を、婚姻の使者にたててきました。
山川家は、「うちは会津藩、逆賊ですから」と言って断りますが、西郷の方も負けてはいません。
「西郷も西南戦争の逆賊になっています」というのが説得の文句でした。
大山捨松の思い切った行動とは?
結局、大山(山川)捨松がとった、行動で、2人は結婚することとなりました。
山川家は理由に詰まって困ったのですが、捨松が「大山様の人柄を知った上で決めとうございます」と返答しました。
これは、明治時代になったとはいえ、まだ、女性には慎ましさを求めていた時代では、自分の意思をはっきり伝えた、という意味で画期的なセリフです。
それで、2人で会うのですが、今日でいうデートのようなものです。
大山捨松を書いた物語に書かれている話を読むと、
最初のうちは、大山捨松(山川捨松)は、外国生活が長く、日本語があまりうまくなく、大山巌いついては、薩摩弁丸出しなので、話が通じませんでした。
困った大山(山川)捨松は、英語で話し始めた結果、話が通じたのです。
大山巌も、ヨーロッパに留学したことがあり、英語、ドイツ語、フランス語が話せました。
これで、徐々にお互い双方の想いが通じ、結婚となりました。
大山巌・捨松の結婚披露宴は鹿鳴館で、その招待状はフランス語で書かれていました。
こうして、大山捨松は、鹿鳴館の花となりました。
時代の先端をいく、まさにハイカラ夫婦、という印象を、今の私たちにも与えてくれますね。
大山捨松は、新島八重と知り合いだった?
幕末の会津というと、新島八重(大河ドラマ「八重の桜」主人公)が思い出されます。
大山捨松と新島八重(旧姓・山本八重)は、お互い知り合いだったのでしょうか?
日本赤十字社でのつながりはありますが、お互いに親しくしていた、というほどの関係ではありませんでした。
大山捨松の方は、日本赤十字社の正社員であり、日本赤十字社篤志看護婦人会の設立発起人になっています。
新島八重も、日本赤十字篤志看護婦人会京都支部の理事になっています。
大山捨松、元の名は山川さき、その生まれは1860年の生まれ、新島八重は1845年の生まれ、で大山捨松の方が年が若いです。
だから、1868年の会津戦争で、八重は「八重の桜」で見るように、戦いに参加しますが、大山捨松の方はまだほんの子供でした。
「八重の桜」を見ると、会津戦争で、戦争に参加していた八重は、会津城内で、まだ8〜9歳の大山捨松(この頃は山川さき)に出会った、という設定です。
また「八重の桜」には、岩倉具視の欧米遣欧使節団で通訳を務めていた、新島八重が、アメリカへ行った初の日本人留学生、大山捨松(山川さき)と会話する場面がありました。
2つのシーンは、実際のことであったかは、不明です。
しかし、大山捨松も新島八重、どちらも、近代日本の女性の地位の向上のために、力を尽くした人物、という点で共通点が見られると、私は思います。
それは会津人の持つ辛抱強さ、真面目さからくる性質ではないでしょうか?
まとめ
大山捨松というと、その名前から「芸者上がり」?のような人物を想像していましたが、全くそのような人ではありませんでした。
会津戦争での経験だけでも、辛いはずなのに、海外に留学した、ということは当時の日本人にとって、かなりの苦労を強いられたと思うのです。
当時の、アメリカやヨーロッパはまだ、人種に対する偏見の目がありました。
その中で、外国語をマスターした上で、学問に励み、学位をとってくる、という根性に私は、大谷捨松を尊敬してしまいました。
これから「風、薫る」のなかで、主人公たちとどんな、苦労の道を切り開く様子が展開されるか、目が離せないですね。

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