荒木村重は、織田信長に処刑された戦国時代の武将です。
この荒木村重の籠城事件は、有名ですが、その理由がよくわからない、というのが、この事件のキモです。
交渉の使者であった黒田官兵衛を幽閉した。妻子を置いて居城を脱出したことから卑怯者と言われましたが、
それには理由があり、荒木村重は異実は卑怯者ではない、と現代では言われています。
ここでは、荒木村重について、その処刑の原因、卑怯者ではなと思われる理由を解説します。
荒木村重は、卑怯者ではない!
荒木村重はその行動を見ると、確かに卑怯者と見えるのです。
なぜ卑怯者に見られたか、そしてその行動がなぜ卑怯者ではなかったのかを、順を追って調べることから始めました。
荒木村重が、卑怯者と言われたのはなぜ
荒木村重は、家臣・妻・子供を置いて有岡城から脱出してしまったことから、「卑怯者」と言われているのです。
荒木村重が、織田信長に反抗して、有岡城に立て篭もり、さらに織田方が説得に送り込んだ黒田官兵衛を幽閉しています。
そうまでして、織田信長に逆らったのですが、
荒木村重の家臣からは、織田に寝返る者が出、さらにアテにしていた毛利からの援軍は、秀吉との戦いのため遅れたり、と戦況は思わしくありません。
そこで城から、脱出したのですが、脱出すると、織田信長の軍にあっという間に城は落とされて、
その結果、荒木村重の妻・子供たちは処刑されてしまいました。
だから、「家族、家臣を捨てて1人で逃げたヤツ」という汚名が荒木村重にずっとついた回るのです。
荒木村重の置いて行かれた妻については、こちらで解説しています。
荒木村重がなぜ、「卑怯者ではない」と言われるの?
城の主人である、戦国武将ならば、敵に攻め入られて落とされてしまう時は、城とともに討死、というのが、当時の武将のセオリーでした。
だから、1人で脱出した、荒木村重は、卑怯者と言われてしまうのです。
荒木村重の脱出という行動は、自分の態勢を立て直すチャンスを求めてのこと、と最近の研究では言われるようになってきています。
しかし荒木村重が1人で城を出た結果、城にいた一族や家臣が、織田信長に処刑されてしまった、というのであれば、荒木村重は卑怯だった、ということになります。
さらに自分の勢力の盛り返しもできなく、全てを失ってしまったので、荒木村重は実は卑怯ではなかった、と言われても自分にとっては、にわかに信じがたいです。
「卑怯者でない」という根拠を探すのは、難しいと私は見ています。
荒木村重、茶壺は妻より大事?
荒木村重を卑怯者にしている理由の一つには、妻子を置いて有岡城を出たことにありますが、
それだけでなく、荒木村重は、茶器を持って逃げ出した、というところにもあります。
荒木村重は、荒木高麗(あらきこうらい)と名前を付けられている、茶碗を持っていました。
この茶碗の正式名は、「唐草文染付茶碗 銘 荒木)と言います。
他には、「兵庫壺」と呼ばれる、茶壺も所有していました。
持って逃げたのは、茶壺と思われます。
城を脱出する時の格好は、背中に茶壺を背負い、腰には、「立桐筒」という名前の、鼓を結わい付けて、無様な格好だった、と『信長公記』に書かれています。
この鼓は、荒木村重の能楽の師匠・観世宗拶(かんぜそうさつ)からもらった、貴重な品物ということですが。
そんなものを持ち出すくらいなら、妻や子供を背負って逃げ出した方が、荒木村重に対し好感度が出るのに、と私は思います。
荒木村重は、これを持ち出せば、新たに兵を起こすときに役にたつ、と思ったのでしょうか?
そして、妻たちも、自分が兵を新たに起こしたときに迎えに来れば良い、と思っていたのでしょうか?とそんな推測を私はしていますが、
それでも、結果を見ると荒木村重は卑怯者に見えて仕方がありません。
荒木村重、まんじゅうで勇気を見せる?
荒木村重が織田信長に仕えるようになった理由の一つ、と言われるエピソードがあります。
『備前老人物語』という、戦国時代から江戸時代初期の説話をまとめた成立年代不詳の物語集に収録された話です。
また『絵本太閤記』にも見られる逸話ですが、『絵本太閤記』も江戸時代にできているので、史実と断定することはできません。
荒木村重は、自分の前に差し出された、刀の刃先に刺してある、饅頭(を食べてみせた、という話が有名です。
荒木村重の前に、刀(脇差)の刃先に饅頭を突き刺したものが差し出されました。
「それを食べて見せよ」というのが織田信長の言いつけです。
刀に刺した饅頭を食べることは、下手すると口の中を切ってしまい、非常に危険です。
しかし、荒木村重は引くことなく、口を大きくあけ一気に饅頭を丸ごと食べたのです。
これは荒木村重は、危険があっても、ひるまず立ち向かう勇気の持ち主ということの証明になり。織田信長は、荒木を「使えるやつ」と見て、有岡城の城主と決めました。
こんな大胆なことができるから、卑怯者ではない、という仮説も生まれるのかと、私は思います。
荒木村重の裏切りの理由?
荒木村重は誰を裏切ったかというと、織田信長です。
裏切った日は、1578年(天正10年)11月16日、という記録があります。
ではなぜ荒木村重は、織田信長を裏切ったのか?
その理由が、歴史的にはっきり解明されていないのです。
現代、考えられている説を4つ挙げて見ました。
- 荒木村重に対する、織田信長の扱いに不満
- 荒木村重の不始末(命令違反)
- 毛利元就に寝返った
- 明智光秀にはめられた
理由その1、織田信長からの扱いに不満
裏切り、反乱の理由としていちばん考えられるのが、上司(織田信長)からの雑な扱いでしょう。
この場合は、信長の、中国地方への侵略戦争です。
織田信長は、この役を豊臣秀吉(羽柴秀吉)に任せました。
ところが、荒木村重は、自分の元にその役割が回ってくると思っていました。
その理由は、荒木村重の居城が有岡城(ありおかじょう)であり、播磨(今の兵庫県伊丹市)にあり、中国地方に攻め入るには、ちょうど拠点となる場所です。
そんな期待に燃える荒木村重をよそに、秀吉に任せたと聞いては、荒木村重としては面白くありません。
織田信長は、自分(荒木村重)を無能と見たのだろうか?という疑いを持ちたくなりますね。
理由その2、荒木村重の失敗。
荒木村重の家臣が、勝手に本願寺に米を売った
織田信長は、本願寺と対立したため、信長配下の者たちが、本願寺と勝手に取引をするのは当然許しません。
そこを、配下の荒木村重の部下が、勝手に本願寺に米(兵糧米)を売ったのですから、そりゃあ信長は怒ります。
織田信長の怒りに対抗するために、信長を裏切った、ということを理由にした説です。
同時に部下に対する、監督不行届、という面も織田信長には見えたのでしょう。
確かに規約違反ではありますが、織田信長の怒りは厳しすぎる?というのが私の意見ですが、織田信長の性格を考えてみると、そんなこともあるかも?
理由その2、毛利に寝返った?
荒木村重は、本願寺と手を組み、織田が西に勢力を広げるのを防ぎ、さらにそこに、毛利が西の方から攻めてくれば、織田の動きは止まるだろう、と考えていた、可能性が考えられています。
つまり、荒木村重は天下をとりたかった、というのが裏切りの理由と考える説です。
この考え方は、天正5年〜6年にかけて、松永久秀が織田信長に逆らい、本願寺・毛利氏を頼りに反乱を起こしたことにならって、推測されています。
しかし、本願寺、毛利氏ともにどちらも自分たちの、領地を広げようという意思はありませんでした。
自分の領地を守りたい、という気持ちが強く、防衛には一生懸命でしたが、自らの攻撃というものには消極的でした。
理由その3、明智光秀の陰謀?
明智光秀が荒木村重を排除しようとした計画、という説があります。
それは、明智光秀が、本能寺で織田信長を襲撃するつもりでいたので、自分の障害になりそうな武将は?と考えついたのが、荒木村重だった、というわけです。
しかし、明智光秀説は、無理がありすぎます。
織田についている強い武将というと、かなり多くの武将がいて、荒木村重だけがいなければいい、というものではありませんね。
だからこの説には、疑問ありです。
上記の理由を見てみると、これ一つが、という決定的なものはありません。
私は、この全てが要因になったのだと見ています。
明智光秀の陰謀説にしたって、上三つの理由があるから、きっと荒木村重と織田信長が不仲になりそうなことを見越して、
1人でも多くの武将を、信長の近くから排除しておこう、と考えていたのかもしれません。
荒木村重を、織田信長が説得?
織田信長は、荒木村重の説得に懸命に努めましたが、結局は無駄に終わっています。
1578年、荒木村重は織田信長から、中国攻めをする豊臣秀吉(羽柴秀吉)に援軍を送るよう命じられたときに、自分の居城・有岡城に立てこもります。
この時から、「荒木村重の反乱」と言われるようになりました。
織田信長は、荒木村重を説得しようして、まず、「母を(信長の元に)人質に差し出し、荒木村重本人が、安土城に弁明に来れば許す」と申し出ました。
荒木村重はその申し出を受けるつもりでいましたが、側近たちに止められます。
側近たちは、荒木村重に「信長公は、相手に一度疑いを抱いたら、許すことはありません。ここは、毛利と結び、籠城することが一番です」と薦めるのです。
荒木村重は、臣下のすすめを聞いて、籠城を決意します。
それでも、織田信長は、何度か荒木村重に説得の使者を送りますが、荒木村重の決意は固く、ついに織田信長は、本気で怒ってしまいました。
つまり、織田信長は、ここまでは本当に、荒木村重と和解する用意ができていました。
織田信長は短気、と思っていましたが、意外と辛抱強いところもある、と私は感心したのです。
そこまで、織田信長が説得を重ねたにもかかわらず、荒木村重は、一切聞き入れず、籠城を決意、織田信長を本気に怒らせてしまいました。
荒木村重、黒田官兵衛を幽閉した理由?
荒木村重の説得にあたった武将が黒田官兵衛、結果は黒田官兵衛がうまく説得できず、荒木側に囚われ、幽閉されてしまいました。
幽閉場所は、荒木村重の居城・有岡城の地下牢(土牢)です。
黒田官兵衛がなぜ説得に行くことになったかというと、荒木村重とは古くからの知り合いということだったからです。
荒木村重、黒田官兵衛を幽閉!
黒田官兵衛は、交渉決裂で殺害されたのではなく、なぜ幽閉されたのか、その理由は現代でも解明されていません。
荒木村重は、黒田官兵衛を、とらえたら、殺害することもできたはずです。
なのに幽閉とは、
- 荒木村重は、1人で説得に来た黒田官兵衛に武士としての心意気を感じ、殺害には忍びないと思った
- 黒田官兵衛をこのまま返したら、必ず荒木側に敗北をもたらす存在となる
- 黒田官兵衛を生かしておくことで、荒木村重側の人質として使う
- 黒田官兵衛を、しばらく織田側に返さないことで、黒田官兵衛の動向を知らせず、織田がわをうろたえさせる
ということが、理由として考えられます。
荒木村重が、黒田官兵衛を幽閉したと言われる、土牢は有岡城の跡からは、発見されていないので、幽閉のエピソードは史実なのか、現代では研究途上です。
荒木村重が、黒田官兵衛を幽閉した結果
織田信長は、黒田官兵衛が帰らないことで、疑心暗鬼となりました。
「黒田官兵衛」が荒木村重に寝返ったかもしれない。
荒木村重の作戦は、効果があったのですが、一時的なものにしかなりませんでした。
実際起きた事件では、黒田官兵衛が、当時仕えていた姫路の小寺家(こでらけ)が、織田信長から責めを負わされるようなことを言われ、その結果、姫路の家臣たちの心が織田信長から離れる。
などという、織田側の足並みが、乱れてきます。
黒田官兵衛が裏切ったかも、という疑惑は、織田の陣営で、動揺を引き起こしました。
しかし、それだけのこと。
織田信長の、荒木村重の城に向かう進撃は止まらず、荒木村重は、有岡城から逃走してしまう、という結果に終わりました。
まとめ
荒木村重は妻子・家臣を置いて有岡城から脱出したため「卑怯者」と呼ばれてきましたが、近年の研究では態勢立て直しのための行動という見方も出てきました。
織田信長への反乱の理由は諸説ありますが、どれも真相解明には至らず、現在でも謎のままです。
信長は荒木村重を家臣としておきたかったため説得を重ねましたが、村重は籠城を選び、説得に訪れた黒田官兵衛を長期に渡り幽閉してしまいました。
これにより織田側は荒木村重への攻撃に踏み切り、村重は最終的に城を捨てて逃走した次第です。
荒木村重は、卑怯者だったのか?それとも何か考えがあっての行動か?
「豊臣兄弟」での解釈が待たれます。

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