織田信澄、悲劇の人?「本能寺の変」に関係?最期?裏切り者か?妻は誰?優秀?評価は?大溝城を作る。子孫は?

豊臣兄弟

NHK大河ドラマに、織田家の家族が揃いました。

織田信澄は「父の罪」「妻の父の謀反」という二重の不運に翻弄され、歴史の波に飲み込まれた武将です。

もし本能寺の変がなければ、織田家を担う重臣として名を残したことは間違いないでしょう。

そんな織田信澄の悲劇を、調べ上げました。

果たして、織田信澄には織田信長に対する反乱の気持ちがあったのでしょうか?

織田信澄、悲劇の人?

織田信澄とは、織田信長の甥で、本能寺の変の時に、犯人の明智光秀(あけちみつひで)の仲間と見られて、殺されてしまう、という悲劇の人です。

織田信澄、親子2代で信長の命を狙ったのはホント?

織田信澄の父は織田信勝(おだのぶかつ)といい、こちらは信長の弟ながら兄の命を狙ったのは本当ですが、息子の方は、特に信長の命を狙った、ということはなさそうです。

織田信澄の父・織田信勝(おだのぶかつ)、織田信長の弟で、兄の地位を狙ったとして、織田信長に殺されてしまった人物です。

織田信澄の父が、信長に反乱心を持っていた、と見られる人物なら、その息子の織田信澄も信長から用心されそうに思えるのですが。

そうではなく、織田信長には武将として、扱われていました。

織田信勝が、織田信長に殺されたのは、1557年で、織田信澄はまだ、幼い頃でした。

信澄は、父親と一緒に処罰はされず、助けられて、しばらくの間は、柴田勝家(しばたかついえ)のもとで養育されていました。

その後は、「津田」(つだ)という家に引き取られることになってはいましたが、実際に引き取られた、という話はありません。

でも歴史上では、織田信澄のことを「津田信澄」と呼んでいる時もあります。

織田信長をはじめとする織田一門では、きっと腫れ物扱いされていなのでは?と私は思っていたのですが。

織田信澄、信長に優遇されて?

実際は、信長の、織田信澄への待遇は良いものでした。

越前の一の谷城主に任命したり、信長の安土城の敷地内に、豪華な屋敷を与えていました。

また織田信澄の方も、自分を育ててくれた伯父・織田信長に恩を感じ敬愛していました。

織田信澄の、織田信長に対する感謝の気持ちを表したような史料・書状はありませんが、伯父に大切にされていたことから、

信長に一生懸命、仕えようとしていた様子が、のちの時代の歴史作家たちの手によって書かれています。

織田信澄の生涯は、本人は、それほど悲劇的には考えていなかったのでは、と私思います。

織田信澄、「本能寺の変」に関わった?

織田信澄は、本能寺の変に関わっているのではいか、と織田信孝たちに疑われます。

織田信長は、1582年京都の本能寺で、明智光秀による襲撃で命を落とした時、織田信澄は、運命の本能寺の日は、大坂城にいました。

織田は、四国攻めを計画中で、その総大将は、織田信長の三男・織田信孝でした。

織田信澄は、本能寺への襲撃隊に加わってはいません、が、明智光秀の娘婿なので、織田の家臣たちからみると非常にあやしい人物です。

織田信澄が、義理の父の明智光秀の味方にはなっていませんでした。

それでも、明智光秀の娘を嫁にもらっている、ということは、そこにいる織田信長に身内たちに疑惑を持たせるには十分でした。

しかも、織田信澄は、かつて織田信長の暗殺を考えた織田信勝の、実の息子であることが、織田勢の疑惑をより強くした、と私は思います。

織田信澄は、親の行動から不幸を背負わされてしまった息子ではないか、と私には思えます。

さらに、義理の父・明智光秀の行動も加わり悲劇を一新に背負ってしまった息子、としか言いようのない、人物だったのだと思われます。

織田信澄の最期は?

織田信澄は、本能寺の変の知らせが来ると、明智光秀の仲間では?と疑われ、織田信長の息子・織田信孝(おだのぶたか)の命令で、殺されてしまいます。

1582年6月5日、織田信長が殺された日から(6月2日)の3日後です。

6月5日、四国攻めの用意が整った、織田信澄は、大坂城におり、織田信孝、丹羽長秀(にわながひで)たちの軍に襲撃を受けました。

織田信澄に、光秀と結んで反乱の疑いあり、と真っ先に考えたのは、織田信孝(信長の三男)でした。

信孝は、キリスト教の教えに気持ちが傾いており、ルイス・フロイスからの評価が高かったのです。

織田信孝の、織田信澄嫌い、というのは、フロイスの影響があったのではないでしょうか?

織田信澄は、戦いましたが、ついには丹羽長秀の家臣・上田重安(うえだしげやす)の手で討たれました。

織田信澄は、謀反人として首を刎ねられた上、織田信孝の命令で、堺の町外れに首はさらされました。

その時の織田信澄の年齢は、20代後半、とされています。

はっきりとした年齢がわからないのは、そもそも生まれた年がはっきりしていないからです。

織田信澄は裏切り者だったか?

織田信澄は、裏切り者だったのでしょうか?

残されている史料では、どちらとも言えません。

織田信澄は、明智光秀の娘婿だったため、明智光秀と結んで織田信長の殺害を計画した、と織田信孝は思っていたのですが。

「蓮成院記録」では、信澄殺害について『織田信澄は、明智光秀の縁者(娘婿)だったためか、謀反に加わっていたからかは不明』。

一方「家忠日記」では、信澄殺害の理由を『織田信澄は明智光秀と結んで、謀反を起こした』と書かれています。

これらの史料からでは、真実が見えてきませんね。

織田信澄が、伯父・信長から重んじられていた、ということを考えれば、今回の殺害は、織田信澄にかけられた濡れ衣、と、私は見ています。

織田信澄が、本音を隠して、信長の元で出世し、明智光秀と組んで、父の仇を打つ、という考え方もありますが、

織田信長は猜疑心の強い人物なので、少しでも怪しいと感じたら、その段階で、織田信澄を自分から遠ざける、あるいは理由をつけて殺害していたのでは、と私は思います。

織田信澄は、親子ともども、信長のことで命を落とすことになってしまったことが悲劇なのです。

「蓮成院記録」:奈良興福寺の連城院に残されている、寺の記録。1490〜1616年までの記録で、戦国時代のことも含まれている。

「家忠日記」:徳川家の家臣で戦国武将の松平家忠がつけていた日記。この日記の内容は、1577〜94年に及んでいる。

織田信澄、妻は誰?

織田信澄の妻は、明智光秀の娘です。しかし名前は知られていません。

明智光秀には、娘が3人いる、という言い伝えですが、その中には、織田信澄の妻となった娘は入っていません。

明智光秀には、もう1人娘がいて(合計4人)、その1人が、織田信澄の妻になった女性ではないか、いうことです。

のちには、織田信長を裏切ることで有名な明智光秀ですが、この時点では、有能な信長の武将なので、

その娘と結婚したということは、織田信澄は、織田政権には大切な人材であったことの証明です。

織田信澄は優秀だった?

織田信澄は、戦争で、戦績を上げています。

  • 越前一向一揆での活躍
  • 鳥羽城を、柴田勝家、丹羽長秀とともに破り500〜600名の一揆を敗北させる
  • 窮地にある明智光秀を救援する

以上の、手柄から、織田信澄は、

織田信長の息子たち「信忠」(のぶただ)、「信雄」(のぶかつ)、庶子の「信孝」(信孝)、信長の弟の「信包」(のぶかね)達のすぐしたの地位にまでつけるほででした。

1581年、京都御所での馬揃え(信長の軍事パレード)では、織田信澄は5番目の順番に配置されました。

こんなに華々しく、御所で人々にお披露目のように、織田信澄を登場させるなんて、織田信長は、この甥をかなり高く買っていた、と思われるシーンです。

織田信澄の優秀さ、織田信長からの期待、それらは、織田家の他のメンバー(息子、兄弟)からの嫉妬をかったのだ、と私は想像します。

優秀さが、織田信澄の悲劇を生み出したのかもしれない、と私は考えています。

織田信澄の評価は?

織田信澄は、信長にの裏切り者の弟の子に生まれ、さらに義父となった男も信長の裏切り者、と不幸な星のもとに生まれた人物に見えます。

しかし、当時日本にいた宣教師、ルイス・フロイスは残忍と見ており、多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)は、織田信澄のことを「一段の逸物」と呼んで、その能力を高評価していました。

織田信澄をルイス・フロイスが見ると

織田信澄のことを、日本に来ていた宣教師ルイス・フロイスが書いた「日本史」、「耶蘇解放」によると、

織田信澄は、武勇に優れた武将ではあったけれども、自領を治めていると、領民への残虐な行為が見られていました。

罪人に対する処罰が非常に厳しく、処刑として馬に踏ませる刑を執行しただけではなく、残忍な行為が、民や家臣に行われることもありました。

さらにルイス・フロイスは「織田信澄の死を望むものが多かった」とまで書いています。

このような行動をするということは、織田信澄はかなり性格が荒い、と見ることができます。

気質が厳しい、というところは、比叡山の焼き討ち、一向一揆への虐殺をやってしまった信長と、信澄はよく似ていると思いませんか?

私はそれが織田家に流れる血筋なのではないか、と思い、身震いを感じるのですが。

織田信澄を多聞院英俊が見ると?

多聞院英俊という、日記として戦国の歴史を書きとめた、奈良興福寺の僧侶は織田信澄のことを、褒めています。

「一段の逸物」(いちだんのいちもつ)と、書いており、織田信澄の死を、惜しんでいます。

「一段の逸物」とは、非常に優秀な人物、その人柄も稀に見るほど良い、という意味です。

どこが、優秀な人物に見えたかというと、戦争で功績を上げたこと、織田信長に認められ、大溝城(おおみぞじょう)の城主になったことが、優秀の証明になります。

この見方は、ルイス・フロイスとは全く逆の見解です。

それは織田信澄の、行動が、キリスト教的に見るとあまりよろしくない、とフロイスは考えていたのではないでしょうか?

反対に、仏教的に見ると、普通のことだったのでしょう。

キリスト教vs仏教の違い、、と言ってところでしょうか?

織田信澄、大溝城

大溝城(おおみぞじょう)は、織田信澄が明智光秀の設計のもとに、作った城で、信長と織田信澄の絆を感じさせる城です。

1576年(または1578年)、織田信長が安土城が作られた、すぐ後のことで、大溝城は、ちょうど安土城とは琵琶湖を挟んた向かいにあたります。

織田信長は、琵琶湖の支配を考えていました。

ここに、織田信長の織田信澄に寄せる信頼が伺われます。

織田信澄は、信長の琵琶湖支配の構想に入っていたのですから。

織田信長に重んじられた、織田信澄…のちに、織田信長の子供達に嫉妬される要素がここから始まったのかも?

織田信澄の子孫は?

戦国時代では、謀反人の子供達は、殺されてしまうことが多いのですが、織田信澄の息子は違います。

織田信澄の長男は昌澄(まさずみ)といい、藤堂高虎(とうどうたかとら)が仲介になってくれて、豊臣秀吉、そしてその子息、秀頼の家臣となります。

大坂の陣では、秀頼の軍で戦いますが、結局大阪の敗北に終わってしまったため、自害しようとしたところ、藤堂高虎に止められ、徳川秀忠のもとに仕えることになりました。

その子孫は幕末まで続きました。

また、織田信澄の次男は元信(もとのぶ)といい、父亡き後は、織田信雄(信長の次男、母は生駒吉乃)に仕え、その後は豊臣秀頼のもとで仕えていました。

兄弟どちらも、豊臣の元についた、ということは、兄弟の父・織田信澄は、本当は織田信長を裏切っていなかったのではないか、と私は推測します。

織田信澄のキャストは?

2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」で織田信澄にキャスティングされたのは、緒形敦。

そう、祖父が緒方賢、父が尾形直人、という生粋の(?)大河ドラマ俳優と言っていいほどの役者さんです。

緒形健は1965年、大河ドラマ「太閤記」で豊臣秀吉役を、緒形直人は、1992年、大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANG」で織田信長役を、演じられていました。

今回、3代目の尾形敦は、信長の甥の役になります。

全員、戦国時代、織田信長に関係してくる役、ということで主役ではありませんが、いろいろな意味で注目が集まります。

まとめ

織田信澄は信長の甥で、謀反人の父を持ちながらも信長に重用された優秀な武将でした。

明智光秀の娘を妻とし、大溝城主として織田信長の琵琶湖支配を手助けするか、とまで思われた次人物です。

しかし「本能寺の変」が起こり、光秀の娘婿であるためにを謀反を疑われ、証拠もないまま織田信孝に殺されてしまいます。

裏切りの確証はなく、冤罪を受けたの可能性が高い悲劇の戦国武将でした。

それでも子孫は徳川に雇われて、幕末まで続きました。

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