浅井長政(あさいながまさ)は、「豊臣兄弟」で姉川の戦いで、織田勢に敗北しました。
この後の、浅井長政はどうなるのでしょう?
追い詰められて最後を迎えるのですが、どのような最後だったのでしょう?
そしてお市の方とは別れになるのでしょうか?
浅井長政はその死後も穏やかに眠れる、というわけではありませんでした。
ここでは、浅井長政の、最後を追及しました。
浅井長政の金のドクロとは?
非常にセンセーショナルな話題ですが、浅井長政は、最後は金ピカのドクロになってしまったのです。
織田信長が浅井を滅ぼし、浅井家の当主、浅井長政とその父・浅井久政(あさいひさまさ)、もう1人の宿敵・朝倉義景(あさくらよしかげ)を討った後、
3人の首を骨にして、漆や金・銀箔を塗り見せものにした、ということです。
装飾した頭蓋骨(ドクロ)を、首改め(敵がたの武将のはねた首を検分するため)台にのせて、酒宴の余興にしました。
この話は、「信長公記」に記載されているエピソードです。
「織田軍記」にも、頭蓋骨に漆、金箔などで、装飾し黒漆の箱におさめ、それぞれに、浅井長政、浅井久政、朝倉義景、と名札が付けられていた、とあります。
「浅井三代記」という史料では、朝倉義景と浅井長政の頭蓋骨から、肉部分をきれいに取り除いてから加工した、ということが書かれています。
死んでまでも、安らかな死後を迎えられず、このような仕打ちは屈辱的と私には見えます。
戦争の勝者になったとはいえ、織田信長のこの行為は、私か極めて悪趣味と思っています。
敵を辱めるためには、何でもやる、という行為は戦国時代ならのことでしょうが、人間の残忍さを感じさせる話ですね。
一説には、織田信長は、頭蓋骨を盃にして、酒をいれて飲んだいう話を聞きますが、それはないはずです。
あくまでも、歴史書に書かれたのは、頭蓋骨を金色に塗り、酒宴の出し物にした、ということだけですので。
浅井長政の最後はどのように?
1573年9月1日、浅井長政は織田信長に攻められ、敗北により自害で終わりました。
29歳でした。
浅井長政が、切腹に至るまで
羽柴秀吉(はしばひでよし)は、最初に小谷城の小丸を攻撃し、小丸で指揮を取っていた長政の父・浅井久政を負かし、切腹させるまでとなりました。
浅井長政の方も、小丸の不穏な様子を見て、もうダメだと思い、最後を覚悟します。
その間、妻・お市の方とその3人の娘たちを羽柴秀吉に引き渡すことを決意しました。
もちろんその前に、自分の後継者である万福丸もこっそりと逃します。
そして、ついには家臣たちも城からできるだけ退去させた後、自ら切腹してその生涯を終えました。
浅井長政の小谷城は炎上したか?
代々の大河ドラマでは、小谷城の最後はいつも城が炎上して落城、というシーンが見られますが。
城の跡地を発掘してみると、焼けた、というあとは見つかりません。焦土層がないのです。
現在城の形は跡形も残っていませんから、城炎上、と見えますが、燃えた証拠がないとなれば、織田方の手で、あるいは秀吉の命令(?)で小谷城は解体された?
あるいは、城の建材(材木等)は他の城を、建てるときに使ったのかもしれない?という見方がされています。
この理由は、城は必要とされることが多かったからでは?と私は考えます。
戦国時代は、大将も増えてくるし、戦いも多いとなると、拠点とする城墓必要性は高かったでしょう。
そして、城の建造に使う、木材などは、急に調達をすることは難しかったので、古い城を解体して使った、という見方ができます。
浅井長政の小谷城の攻防戦は?
1570年が姉川の戦いで、その3年後の1573年に、織田信長は小谷城の攻撃始めます。
浅井長政の盟友・朝倉氏が敗北!
1570年、織田信長は、浅井家と同盟を結んでいた朝倉を徹底的に潰すところから始めたのです。
朝倉氏が敗北したのは、朝倉氏の中に裏切り者が出たからです。
それは朝倉景鏡(あさくらかげあきら)といい、朝倉義景(あさくらよしかげ)の従兄弟です。
浅井の者も、のちに秀吉に寝返ったものがいる、ということはこの戦いは裏切り者が多かった?と見えます。
裏切り、というのは、現代私たちが考えるほど、悪いものではなく、むしろ自分や自分の一族が生き延びるためには必要な手段だったのでは、と私は思っています。
朝倉が敗北したところで、信長は豊臣秀吉を浅井に送り降伏を勧めますが、浅井長政は拒絶したために、織田勢は小谷城攻撃にかかりました。
小谷城の構造は?
小谷城は山城で、難攻不落と言われていました。
織田信長たちがどのように小谷城を落としたかは、宮下英樹のマンガ「センゴク」で非常に詳しく解説されています。
リアルさで知られる漫画なので、作者は相当、資料を調べまくったのでしょうね。
小谷城は、それ一つだけある城ではなく、いくつかの城が周囲にあり、それが小谷城を守っている、という感じです。
周辺で一番有力な城は、大嶽城(おおづくじょう)で、城ができた頃は、こちらの方が織田あり城の本丸であったほどに重要な城です。
というのも、浅井の城が、点在している小谷山の一番頂上にあった城で、ここを抑えれば、見通しがきくようになります。
大嶽城は、朝倉氏が守っていたのですが、それを織田軍が朝倉を追い払い、織田方のものとなりました。
小谷城の、情勢を見渡せる大嶽城が奪われ、援軍を頼もうにも、すでに朝倉は敗北しているので、他からの援護は全く期待できません。
小谷城と小丸の切り離し
大嶽城を落とすと、小谷城は丸見えとなります。
小谷城はここで、滅ぶべき運命になってしまいました。
小谷城は、「小谷城」と呼ばれる本丸と、その周りを固める城「小丸」、「京極丸」というような「〜丸」と呼ばれる区画があり、それらが本丸を防御していました。
小谷城では、本丸を浅井長政が、小丸を長政の父・浅井久政がそれぞれ守っていました。
その中間にあった「京極丸」を羽柴秀吉が、奇襲攻撃で奪い、本丸と小丸の連携を阻止しました。
それには、浅井の人間の秀吉側への寝返りがあったことが指摘されています。
現に、藤堂高虎(とうどうたかとら)は浅井の人間だったのに、秀吉に内通するようになっていました。
小谷城は、防御力が堅固な城と言われています。
それでも、城に攻め入った豊臣秀吉は、まず大手門を突破して、竪堀を突破します。
豊臣秀吉が、こんなにすんなりと、小谷城を攻撃できたのは、すでに浅井側からの内通者を得ていたからです。
その中の1人が、藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
小谷城は、竪堀が有名な城ですが、秀吉が駆け上ったのが、織田軍に勇気を与え、それで、織田信長側は勝利できたようなものです。
| 城の竪堀とは
山の下から、城壁まで、まっすぐ上に登る形に、掘られた堀、それも水を張っていない空堀です。 攻める側はその堀を登っていくのですが、一直線なので、上から狙い撃ちされます。 しかもその堀から横にのがれることはできませんので、かなり防御に優れた構造でした。 秀吉が成功したのは、他の侍が盾になってくれたからなので、そこで上まで無傷で登れたのです。 |
浅井長政の子、まんぷく丸はどうなる?
浅井長政の3人の娘は、織田信長の元に、娘の母・お市の方とともに返されました。
もう1人忘れていけないのが、息子の存在です。
浅井長政に男子がいた!
武将の息子は、戦国時代の習いとして、処刑されてしまいました。
男子は、後継者になり父を滅ぼした者に仇討ち、また家名を取り戻そうとするからという理由で、殺されてしまうことになっていました。
嫡男は、万福丸(まんぷくまる)と言いましたが、この子供の母はお市の方ではなく、生年月日も不明です。
万福丸については、最後も含め「浅井三代記」に記載があります。
浅井長政の息子「万福丸の最後」
家臣に預けられ、城から逃れたのですが、織田信長が、お市の方をだまして、家臣に万福丸を連れてくるよう手紙を書かせます。
その策略に乗って、出てきたところ、羽柴秀吉に万福丸を連れて行かれてしまい、織田信長の命令で、処刑されてしまいました。
信長は「串刺しにしてさらせ」と命令したのです。
「信長公記」には、浅井の嫡男は10歳、と書かれています。
小谷城落城の時、浅井長政とお市の方の長女・茶々は7歳ほどだったと言いますので、茶々たち3三姉妹の兄、ということになりますね。
史料「浅井家譜大成」では、万福丸には弟がいて2人とも、お市の方の子供ではないが、お市の方の養子になった、となっています。
また、「信長公記」をベースに書かれた史料「当代記」には、万福丸は朝倉氏に、人質に出されていた、という話も書かれています。
浅井長政が、織田信長に従わず、朝倉義景に味方したのも、跡取り息子の人質があったからかもしれません。
戦国時代は、敵からの報復を恐れるため、相手の一族を根絶やしにするか、それとも、男子のみを絶やす、を目的とした、処罰が普通のことでした。
万福丸にいた可能性がある弟も見つけ出されて殺された、ということです。
現代人の私たちから見ると、非常に残忍な行為に思えますが、自分自身とその一族が生き残るためには、必要な手段だったということです。
それだけ、生存そのものが厳しい時代だったのだと、私は戦国もののドラマを見るたびに悲しさを感じます。
まとめ
浅井長政の最後は、戦国時代でも悲惨な歴史の一つ、と言っていいでしょう。
金のドクロにされた話、万福丸処刑の話、と聞くだけで身の毛が立つ感じがします。
この話を聞くたびに、戦国じだいの厳しさを思い知るところです。
この時代女性に生まれても、家のために利用され、男子に生まれれば、戦さに負けると幼少であるが殺される、という運命が待っていました。
しかし、悲惨な話と同様に、この浅井家の血筋を引く娘たちが、戦国の時代を終わらせ新しい時代への扉を開いた、と言えるのだと思いました。

コメント