豊臣秀吉の妹・あさひ(朝日姫)は、歴史の悪役ではありませんが、秀吉によって運命を左右された悲しい人です。
朝日姫は美人だったのか?その性格や最初の夫、家康との政略結婚、そして悲しい最期まで、大河ドラマの描写とともに史実をここでたどります。
現代では考えられないほどの苦しさを、あさひを通して、戦国時代の悲哀を見つめました。
あさひ(朝日姫)、美人?
大河ドラマのあさひ(朝日姫)は、美人ではない、という設定で描かれています。
それは農民出身ということで、「いも娘」的なイメージがついて回るからでしょう。
兄、秀吉も「さる」、「ハゲネズミ」なんて呼ばれていましたから、兄に似ているとすれば、美人とは言えないのですが・・・・
家康の元に嫁に行った時は、もう40歳を超していました。
今でこそ、40過ぎなのに美魔女、なんて呼ばれる美しい人は珍しくありませんが、当時の40歳は相当老けている部類に入ります。
となれば、若い頃どんなに美人だった女性でも、だいぶ美人度が落ちていたことでしょう。
「40すぎの婆さん(当時ならきっと、こう呼んだに違いない)」を望みもしないのに、押しつけられた徳川方は、「器量が悪い」と腹立ちを込めて呼ぶのも当然です。
しかし、若い時には結婚していたのだから、器量はそんなに悪い方ではなかったと思います。
若い時の結婚だから、秀吉の身分も低い時でしたので、あさひとの結婚は名誉や財産目当てではありませんでした。
非常に美人、という言い伝えはありませんが、まあ、普通の若い娘、といったところでしょう。
あさひ(朝日姫)どんな人?
朝日姫(あさひひめ、または旭姫)は豊臣秀吉の妹で、徳川家康の正室になるのですが、すでに結婚していたのですが、兄 秀吉の命令で別れさせられ、家康の元に嫁に行かされました。
徳川家康の正室はかつて、今川義元(いまがわよしもと)の姪、瀬名(せな)姫という方がいましたが、謀反の疑いをかけられて、処刑されたため、正室の地位は空いていました。
2度目の正室、つまり後妻、のことを継室(けいしつ)と呼びます。
朝日姫は1543年生まれ、1590年に亡くなったと言われています。
秀吉とは6歳違いで、秀吉とは父が同じとも、また違うという説もあります。
小さい頃は百姓の娘として、また、足軽の妹として生きてきましたから、それほど華やかな生活はしていませんでした。
もともと、「姫」と呼ばれる身分ではありませんでした。
最初の名前はなんだったかは全く知られていません。
秀吉は36歳で、城を持つ身分になりました。
秀吉の身分が高くなるにつれて、「姫」と呼ばれるようになっていきました。
あさひ(朝日姫)の性格は?
あさひ(朝日姫)の性格を、記した記録はあまりありません。
母の大政所(なか)はもちろんのこと、兄嫁の北政所(ねね)とも、昔から仲が良かったようです。
それに、秀吉が偉くなった、後でも、3人は仲良く話をする仲であった、と言われてます。
北政所(ねね)が誰とも気さくに付き合える人だったこともありますが、朝日姫はその気さくさを、心地よく思っていたのでしょう。
ここから、あんまり、すまし顔で、見るからにツンとした姫君に、なりたいと思っていた人物ではない性格が私は感じます。
もちろん、若い娘時代は、きれいな着物、美しい家屋敷に胸をときめかせたでしょうが、姫君→奥方様のような扱いは、日がたつにつれて窮屈に思うようになってきたのかもしれませんよ。
すでに結婚していた、夫と別れさせられる時に、どんな反応を見せたのかは記録がありません。
どうも、朝日姫は平凡な幸せを望んだ女性だったように私には見えてなりません。
あさひ(朝日姫)の夫は?
あさひの夫は、大河ドラマで見るところ
朝日姫は、家康との前に、結婚していましたが、その相手の名前が、2人上がってきます。
一人は佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と副田仁兵衛(そえだじんべえ)。
大河ドラマでお馴染みなのは、副田甚兵衛で、今では、副田仁兵衛が夫、というのが定説です。
佐治日向守の名前は、江戸時代に作られた史料「徳川実紀」(とくがわじっき、江戸幕府の公式記録)、「武徳編年集成」、「改正三河後風土記」にみられます。
しかし、これらの史料は、あさひの生きた時代より100年以上経ったころに成立したので、正確さに欠けます。
確かに、この三つの資料には、徳川家康の元にくる秀吉の妹には夫がいて、夫とは強制的に別れさせられた、ということが書いてありますが、この夫の名前が佐治日向守というのです。
ところがここまで、その存在を示した佐治日向守ですが、この徳川の史料以外では名前を見つけることができないのです。
あさひ(朝日姫)の最初の結婚を佐治日向守とする、という説も存在する一方、
「豊臣兄弟」の時代考証を担当する、歴史学の黒田基樹氏によると、「佐治日向守」の名前は、間違って伝わった、あるいは創作された名前、と言っています。
佐治という名は、浅井長政の三女、江(ごう)が結婚した相手で、この二つの名前が混同された可能性もある、と言っている歴史学者もいます。
あさひ(朝日姫)、秀吉に離縁させられる?
とにかく、あさひ(朝日姫)が、徳川家康に嫁ぐとなると、今いる夫とは別れさなければなりません。
秀吉は、副田甚兵衛に離縁の見返りとして、石高(ごくだか)を増量しました。つまり簡単にいうと、金銭で釣ったとなります。
しかし、金銭的な条件を飲まなかったようです。
その代わり、家をすて、出家をした、または切腹した、と伝えられていますが、確かな証拠はありません。
秀吉一家は、農民の出身ですから、他の武士たちと違い、家の系図や記録が残っていないからです。
長男の藤吉郎が秀吉となって名を上げたから、豊臣家の歴史は秀吉から始まります。
特に秀吉は、あさひ(朝日姫)を、徳川家康に嫁にやることで、自分の立場に箔をつけようとしていました。
だからゴリ押しのような結婚を進めたのです。
秀吉と家康の関係の間の、影の部分なのですね。
あさひ(朝日姫)、家康との主従関係をつなぐために
1584年、小牧・長久手の闘い、で秀吉有利に講和を結んだものの、家康は着々と力をつけつつあります。
従わない徳川
そんな時、秀吉は朝廷から「豊臣」の姓と「太政大臣」(だじょうだいじん)の称号を拝受します。
しかし、徳川はなかなか、豊臣にしたがってくれません。
つまり京都まで、ご機嫌伺いに来ない、というわけなのですね。
そこで考えたのが、妹 朝日姫と家康の結婚の結婚。
その背景には、いつまで待っても、京都までやってこようとしない、秀吉が示しがつかないと困ってための、和解策でした。
和解策の一番良い方法は、婚姻と秀吉は考えました。
結婚の申し出があった時、家康は嬉しいとは思わなかったでしょうね。
若くも美しくもない女性・・・しかも、その姫は初婚ではない・・・嫁の条件としてはいいとこなしです。
政略結婚ミエミエです。
しかしこの結婚が成立すれば、秀吉・家康との和平への道がひらけてくるのです。
あさひ(朝日姫)の気持ちは?
いちばんの被害者は、朝日姫です。
長年連れ添ってきた夫がいる。
仲だって悪くない・・・
それなのに、なぜ別れさせられて、多くの妻を持つ家康の元にわざわざ行かなくてなならないのだろう?
それも人質扱いの自分を・・・大事にしてくれそのもない人の元に、なぜ嫁に行かなければならないのか?
自分はもう40歳を超えている。こんな妻、誰が喜んで迎えてくれるというのだろう
とはいえ、逆らったら、多分、秀吉は怒るのではないか、そう思うだけで気分は落ち込みますね。
朝日姫は、この結婚が和平の印になる、と言われたら断りにくかったのは当然、と思うのです。
家康、あさひとの結婚を承諾する
家康は、結婚の申し出を受けました。
この縁談を断ると明らかに、秀吉・家康の仲がこじれるからです。
離婚をさせてまで嫁に出す側に対し、断ればその好意を踏み躙られたと秀吉は抗議してくるだろう。
これでは徳川・豊臣の関係は壊れてしまいます。
家康は受けるしかない話でした。
家康は朝日姫との婚姻の条件として、もし家康と朝日姫との間に子供ができても、その子供は徳川家の後継とはしないでした。
しかしこの時40歳をすぎていた、朝日姫に子供が望めるかは、まず不可能ですが・・・
あさひ・家康、結婚してよかった?
この2人の結婚は成果を上げるまでに時間がかかりました。
家康に京都に来て挨拶してもらうということは、秀吉にとって、「太政大臣」としての威厳を示すことになります。
しかし、家康は朝日姫を嫁にもらったからといって、即座に秀吉の元に挨拶に行きませんでした。
そこで、今度は秀吉は自分の母親、大政所(おおまんどころ)も人質として家康の元に送りました。
朝日姫、大政所の二人を人質として受け取って初めて、家康はその重い腰を上げて京都に挨拶に向かいました。
旅の途中の宿に、秀吉からの使者が突然やってきて、「謁見の時、秀吉が大きな態度に出るから、家康殿はどうかそれに合わせて臣下の礼をとってください」と願い事を言ってきました。
当日家康は、その願いに従って、非常に丁寧に臣下の礼をとりました。
それを見た、他のものたちは、「あの家康が頭を下げるのか・・・」と感心しました。
こうして、秀吉と家康の確執は表面上消えました。
あさひは、両者を結びつける役割をしたことになります。それは悲しい決断だった、と歴史は見るでしょう。
あさひ(朝日姫)と家康の仲は?
朝日姫と家康の結婚生活は、約2年でした。
朝日姫にとっては、側室がたくさんいる中に嫁に行くことは針の筵(むしろ)のような気持ちだったと察せられます。
家康が、秀吉のいる京都に臣従の挨拶に行った時には、徳川の家臣は、朝日姫、大政所(母)のいる部屋の前に薪を積み上げて、いつでも火をつけられるようにしていました。
もし、殿に何かあったら、人質の命を取る、との覚悟でした。
二人の女性は相当に怯えたと思います。
一方、家康は京都に上る前、家臣たちに、「もし自分が、京都で、秀吉に殺されたとしても、二人の人質は解放するように」と申し伝えていました。
この家康の言葉からは、朝日姫たちを、気遣う優しい性格が見えてきます。
実際の歴史は、仲が良かった、とも悪かったとも伝えていません。
「豊臣兄弟」で考えるなら、松下洸平の徳川家康はそんなに情が深く無い、ような気が私はしますが。
それでも、哀れみ、のような気持ちは持ったのでは?と私は考えています。
当時の家康の城であった、駿府城(すんぷじょう)で朝日姫は住むことになるため、「駿府御前」と呼ばれるようになりました。
形だけは正妻として、尊重していた様子が伺えます。
いえ、それよりも、人質としてきた朝日姫に、かつての自分の人質時代を感じ、優しくしてあげたくなったのでは、と思います。
あさひ(朝日姫)の最期
あさひは、江戸での生活が合わなかったのでしょう、病がちになり、大坂に帰ったところで、病に倒れ、死を迎えます。
あさひ(朝日姫)の死
徳川家康が、京都に登り、秀吉への挨拶が済むと、目的ははたされたということで、大政所が秀吉の元に返されます。
高齢だったせいでしょうか、大坂へ帰った大政所は体調を崩します。
それを聞いた、あさひも、母へのお見舞いということで、大坂城に行きました。
ここでもあさひに対する家康の、心配りが感じられます。
もし「豊臣兄弟」の家康の性格を考えると、家康は秀吉の面子を潰さないで済んだ、その役割を果たしてくれたあさひには用はない、とみて冷徹に返したのかもしれません。
忠、表面上だけは、やさしい顔を見せて。
大政所が亡くなった後、朝日姫は一旦、駿府城に戻りますが、いつの間にまた、聚楽第に戻っていました。
朝日姫は、大坂に帰った後、病気がちになり、ついに聚楽第で1590年に亡くなりました。
朝日姫の墓
朝日姫の訃報を聞いたのは、家康の小田原攻めの準備中でした。
そこで、その時は、京都東福寺に葬りました。
法名は、南明院殿光室宗王大善尼、(又は 南明殿光室総旭大姉)。
東福寺塔頭に南明院があり、家康が作らせたものです。
朝日姫の菩提を弔うためですね。
家康の細やかな配慮をしました。ここにはあさひの肖像画もあります。
また、のちに静岡市葵区にある、瑞龍寺にもお墓を建てました。
徳川家康は、家のために翻弄されてしまった、女性には哀れみを感じていた、と私は思いました。
この寺での法名は、瑞龍院殿光室総旭大禅定尼。
同じ人物でも、法名がいくつもあるのは面白いです。
宗派が違うからなのでしょうか。
あさひ(朝日姫)、「豊臣兄弟」の経過は?
あさひは兄・秀吉に自分の結婚のことを尋ねられますが、それは茶々に結婚に前向きにならせるこためでした。
「豊臣兄弟」では、茶々の結婚とあさひの結婚から次の段階へと、話を進めていくための伏線として描かれます。
徳川家康とあさひの結婚は、秀吉が、強行に進めた、というのは従来通りの流れになりそうです。
それを必死で、実現に向けて走り、あさひの説得に力を尽くし、家康への連絡、そして傷つく妹へのケア、副田仁兵衛への慰め、など調停にあたるのが、豊臣秀長、となるのは目に見えてます。
ここで、あさひと茶々との間にも、新たな結婚観という価値観で通じるものができそう、と私はみています。
まとめ
朝日姫は豊臣秀吉の妹で、農民の出身です。
大河ドラマでは美人ではない設定ですが、若いころは普通の娘さんだったのではないでしょうか。
母の大政所や兄嫁のねねとは仲が良く、平凡な幸せを望む女性だったように私は感じます。
秀吉の命令で夫と別れさせられ、40歳を超えて家康の正室になりました。
家康を京都に呼ぶための政略結婚でしたが、結婚生活は約2年。1590年に亡くなり、家のために翻弄された女性だったと思います。

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