石川数正、スパイで出奔か?寝返りの理由。豊臣秀吉からの接触?出奔はいつ?

石川数正は家康の古くからの家臣です。

しかし、豊臣秀吉に寝返ります。

その理由は?

家康に対し不満があったのでしょうか?

そこには豊臣秀吉からの接触もあったと言います。

それではいつ、出奔するのでしょう?

石川数正出奔の謎を、探ってみましょう。

石川和正 どんな人

1533年〜1593年、の生涯と言われていますが、他の説もあります。

が、一応知られている年代は、この年代です。

徳川家康の重要な家臣です。

徳川家康が、今川家の人質になっている時から、家康の支えました。

今川義元(いまがわよしもと)が、桶狭間の戦い(1560年)で、織田信長に敗れた時、家康は、今川家から離れます。

代わりに、家康の妻 築山殿と子 信康たちを今川の人質に取られたのですが、彼らを取り戻すのに、石川数正は働きました。

結局、鵜殿長照(うどのながてる)の息子たちとの人質交換を申し出て、受け入れられました。

その立役者が、石川数正だったのです。

織田信長と取り決めをしなければならないときは、ほとんど、石川数正が力を発揮しました。

石川数正は、徳川家の外交担当、という役割にいました。

徳川一の外交上手でした。

しかし石川数正時代は、三河一向一揆が起こった時、父 康政(やすまさ)は一向一揆側について、家康の敵対勢力となりました。

石川数正は、父に従わなかったため、康政は石川家の家督を数正に渡さずに、康政の弟に継がせました。

ひたすら家康に従った、石川数正は忠臣中の忠臣なのです。

三河武士は結束が硬い、と評判でした。

もちろん石川数正の例外ではありません。

ですから、なぜ石川数正が、家康から離れたのか・・・歴史の謎なのです。

石川数正、スパイ説

石川数正は、家康からのスパイとして豊臣家に入り込んだ。

という説があります。

ですが、石川数正が亡くなった後、石川家は家康の手によって、取り潰しになりました。

つまり、石川数正の家は無くなった、ということです。

ここから家康の、怒り具合が見て取れます。

そこまで家康が怒ってしまったら、まず家康が命令したスパイ説はない、といえます。

それに、出奔するために、岡崎城を出た時には門番に止められていますので、スパイ活動があったとはやはり、考えにくいです。

家康は、石川数正が秀吉側に走ったと知ってから、岡崎城を改装しました。

石川数正は、岡崎城の城を熟知しているからです。

もし攻め込まれたら、弱いところもしっかり知っていて、守備が困難になるからです。

ですから、スパイ説の可能性は低いです。

こんなあり得ない説が飛び出してくるのは、実は、石川数正がなぜ、徳川家から離れたのかその本当の理由がまた解明されていないからなのです。

石川数正、寝返りはなぜ?

石川数正(いしかわかずまさ)は、徳川家康の懐刀と言われるほどの臣下です。

懐刀とは、忠実な臣下のことであり、忠実だけでなく、主人の相談役を務め、戦争の計画なども立てられるほどの、知恵のある人物のことです。

そんな人がなぜ、家康から秀吉に寝返ったのでしょうか?

もし、スパイでないとすれば・・・

寝返りの、理由として一番に考えられることはまずは、家康への不満でしょう。

次に家康への不満を並べてみましょう。

家康への不満とは

石川数正が、徳川家康の元を去ったのは、急に決めたのではなく、少しづつ 少しづつ、もやもやしたものが溜まっての結果でした。

信康事件へのわだかまり

1579年、家康の長男 信康(のぶやす)が武田への内通を疑われ、家康から切腹を命じられました。

石川数正は、家康から信康の側近に任命されていました。

信康が元服をした時から、仕えていました。

当然、信康のために弁明もしたことでしょう。

ですから、信康事件は、石川数正にとって辛い出来事でした。

信康の命を助ける道を選ばなかった家康に、不信感を持ち始めたのかもしれません。

この人を主君として、一生仕えられるか・・・に疑問を持った第一歩です。

水野信元、殺害!

1575年 12月。

水野信元は、武田への内通を疑われ、家康とその家臣たちの手により暗殺されました。

その殺害に手を下した一人が、石川数正でした。

水野信元は、家康にとっては実の伯父。つまり母 於大の方の兄でした。

実の兄を殺害した人物として、於大の方は、石川数正に悪感情を持っていました。

それもおびき寄せての騙し討ちに近い殺害方法だったので、ますます於大の方は疎ましく思っていました。

徳川家のためにしたことなのに・・・・責められる目で見られた石川数正は、徳川家に居づらいと思うようになってきました。

家康も、石川数正を、あまり庇ってくれなかったのでしょうね。

石川数正はそこがいたたまれない、と感じていたことが、原因の一つに入れていいでしょう。

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(1584年)では、家康が戦いでは優位に立ちました。

しかし他勢に無勢で、最後は秀吉に仕切られることになりました。

その理由は、家康と同盟していた織田信雄(おだのぶかつ)が秀吉との和平をさっさと決めてしまったからでした。

その時、和睦の条件を取り持って、秀吉との折衝に当たりました。

家康はよく戦った、と自分で満足していましたが、石川数正はそうではない。

負け戦の要素もあった、と反省するところで、家康の浮かれ具合(?)に腹が立ったのでした。

その時、「あー、この人とはやっていけない」と思ったのかもしれません。

小牧長久手の戦い後の、人質条件

小牧・長久手の戦いの和平の条件として、徳川は、豊臣に人質を出すこととなります。

戦そのものには徳川の勝利に近いものだったとしても、やはり、周囲が豊臣の軍勢ばかりでした。

それに、徳川側の総大将、織田信雄が何よりも和平よりだったため、徳川方は押され気味でした。

交渉はどうしても豊臣有利に運びます。

その結果が人質です。

それも徳川からだけ。

その中には、家康の息子 於義伊丸(おぎいまる、後の結城秀康、ゆうきひでやす)そして、石川数正の次男 康勝(やすかつ)も入っていました。

豊臣方に、息子がいる・・・それも徳川家を出る、理由に一つになります。

小笠原貞慶の問題

小笠原貞慶(おがさわらさだよし)はかつては上杉の庇護のもとにありましたが、やがて家康に味方するようになります。

その時、働いたのが、石川数正だったのです。

そんな小笠原貞慶は、徳川を裏切り、豊臣についたのです。

小笠原貞慶の離反の責任を、徳川では、石川数正に負わせたのです。

石川数正の監督不行き届きと、して、その責任を追及されたのでした。

小笠原貞慶は、周りが豊臣に囲まれていたため、その圧に負けたわけですから、石川数正に責任はないはずです。

強いて責任を問うなら、助力をしなかった家康の方にありそうです。

石川数正の、やり方が良くない・・・こういう人物は信頼が置けない、というレッテルが貼られてしまいました。

今後の自分の意見は取り上げられないかもしれない、と思った石川数正は、徳川に自分の居場所なし・・・という感覚を持ってしまったのですね。

石川数正、豊臣秀吉からのヘッドハンディング?

石川数正は、豊臣秀吉から、「自分の家臣にならないか」と猛烈にアプローチをかけられていました。

石川数正は、和睦の使者として、徳川⇄豊臣と奔走したので、秀吉も石川数正の働きぶりはよくわかっていました。

豊臣秀吉は、一代で名を挙げてきた武将なので、信長や家康のように先祖代々仕えてくれる家臣というものがいませんでした。

そこで、有能な家臣が欲しくてたまらなかったのです。

自分自身でも、育ててはいましたが、未だ若くもう少し時間がかかりそうです。

すぐに使える人物が欲しかったのです。

そこで、秀吉は石川数正を一生懸命説得し始めました。

秀吉は、「人たらし」と言われるほど、人の心を掴むのが上手でした。

石川数正は接待漬けにもあいました。

その説得が功を奏したのか、あるいは秀吉はあるいは報酬をちらつかせたか・・・?

いやいや、豊臣秀吉が惚れ込んで自分の部下に従ったほどの男が、報酬ごときで動くとは思えない。

やはり、なびくとしたら、秀吉の魅力でしょう。

だからこそ秀吉が欲しがった人物なのです。

石川数正へ真田信尹からの誘い、事実か?

徳川が収めていた領土は豊臣の武将たちにぐるりと取り囲まれていることになりました。

すぐ後ろには、真田家もいます。

真田家は、豊臣家についたり、徳川についたりと、誠に予想のつかない一族です。

その真田家の一人、真田信尹(さなだのぶただ、真田昌幸の弟)が、豊臣につくよう説得した・・・

と2016年大河ドラマ「真田丸」ではありました。

真田家にとって、石川数正は、戦いたくない人物です。

その、武力、知力、・・・嫌な相手です。

そこで、真田家は、真田信尹を使って、石川数正を取り込もうとした・・・という説でした。

しかし、この話は、これまでの歴史書ではみられない事件ですので、脚本家 三谷幸喜の創作の可能性が高いです。

石川数正、出奔後の家康

出奔(しゅっぽん)とは・・・逃亡して、行方をくらますこと。

ですが、豊臣にいることがわかったので、行方はくらましていません。

しかし、この石川数正のように、前触れもなく急にいなくなることを出奔と言います。

もちろん家康にとっては青天の霹靂です。

石川数正が秀吉の元へ出奔した結果、秀吉は家康のもとにこれ以上戦を仕掛けなかった。

もちろん当面のことですが。

この頃、家康は周りを秀吉に味方するものばかりに挟まれて、小牧長久手の戦いでは比較的良い戦績を収められましたが、今度秀吉が出てくれば、絶対に潰される。

そんな状況でした。

その状況が見えていたのが、石川数正だったのです。

さすが古参の家臣!

よくスポーツ漫画などであるように、特定の選手を伸ばしたかったら、敵側の監督になって弱点をつくことで、目的の選手を成長させようとするのに似ています。

かつて漫画「巨人の星」で星飛雄馬を成長させようと思った、星一徹(父)があえて敵方チームのコーチになった話を思い出させます。

小田原の北条攻めでは、石川数正は豊臣方、家康も豊臣方で味方同士になっています。

さてその時、石川数正はなんと思うでしょう?

成長した・・・と思うでしょうか?

石川数正、出奔はいつ?

1585年、11月13日。

ちょうど、小牧・長久手の戦いの後の徳川方の会議が1585年10月に行われました。

秀吉側からは、さらに人質の要求がありました。

しかし、徳川方はこれ以上は出さない、という結果で終わりました。

ほんの1ヶ月後に、石川数正は出奔したのです。

実際の時は、1585年なのですが・・・・

8月13日〜8月20日に小牧長久手の戦いでしたので、

大河ドラマ「どうする家康」ではいつ頃くるかというと、おそらく8月27日あたりでしょうか?

石川数正、出奔とは?

ではここで、石川数正出奔の真相とは・・・といきたいのですが・・・・

いまだに真相は解明されていません。

しかし、数多くの要素が集約した結果です。

一つ一つの嫌なこと。

  • 信康を守りきれなかったこと、
  • 於大の方からの嫌味(?)
  • 楽天的な家康の殿、全く本質に気がついてくれない。
  • 息子を人質に出さなければならない苦痛
  • 秀吉からのアプローチ・・・・ここに本当に自分を必要としてくれる人がいる
  • 家康への荒療治

このすべてが重なったからではないでしょうか?

石川数正、松本城を造る

秀吉は1590年、天下統一を成し遂げました。

その時、石川数正とその息子を松本に送ります。

そこで家康の監視をすることと、松本城を整備することを、言いつけました。

ここで石川数正は、文字通り一国一城の主人となったわけです。

石川数正が、家康の元から出奔した時、ほぼ50歳。

もしかしたら、死ぬ前に一旗あげてみた、そんな心境になったことも考えられます。

石川数正の最期

石川数正は1593年に死去します。

関ヶ原の戦いの7年前です。享年61歳。

1592年、秀吉は朝鮮出兵します。

その前に、肥前名護屋に出陣します。そこが出兵拠点です。

場所は現代の佐賀市唐津市にあたります。

1593年12月、京都の七条河原で葬礼が行われた記録があります。

死亡した年もいくつか説があり、もう少し前に亡くなっていたかもと言われています。

死因はわかっていません。

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