朝日姫・・・旭姫とも描かれます。
秀吉の妹、で家康の正室となる女性です。
朝日姫と家康との結婚で、両家の険悪な空気はどうなるのでしょう。
結婚によって、豊臣家・徳川家の関係は変わるでしょうか?
しかしその陰では泣いた人もいます。
朝日姫、一体どんな人物だったのでしょうか?
朝日姫(旭姫)どんな人?
朝日姫は豊臣秀吉の妹で、徳川家康の正室になります。
旭姫という漢字があてられていることもあります。
結婚していたのですが、兄 秀吉の命令で別れさせられ、家康の元に嫁に行かされました。
徳川家康の正室はかつて、今川義元(いまがわよしもと)の姪、瀬名(せな)姫という方がいましたが、反乱の疑いをかけられて、処刑されたため、正室の地位は空いていました。
2度目の正室、つまり後妻、のことを継室(けいしつ)と呼びます。
朝日姫は1543年生まれ、1590年に亡くなったと言われています。
秀吉と父が同じと言われていますが、父親が違うという説もあります。
秀吉とは、6歳違いです。
小さい頃は百姓の娘として。また、足軽の妹として生きてきましたから、それほど華やかな生活はしていませんでした。
もともと、「姫」と呼ばれる身分ではありませんでした。
最初の名前はなんだったかは全く知られていません。
秀吉は36歳で、城を持つ身分になりました。
秀吉の身分が高くなるにつれて、「姫」と呼ばれるようになっていきました。
朝日姫(旭姫)の性格は?
朝日姫(旭姫)の性格を、記した記録はあまりありません。
母の大政所(なか)はもちろんのこと、兄嫁の北政所(ねね)とも、昔から仲が良かったようです。
それに、秀吉が偉くなった、後でも、3人は仲良く話をする仲であった、と言われてます。
北政所(ねね)が誰とも気さくに付き合える人だったこともありますが、朝日姫はその気さくさを、心地よく思っていたのでしょう。
ここから、あんまり、すまし顔で、見るからにツンとした姫君に、なりたいと思っていた人物ではない性格が感じられます。
もちろん、若い娘時代は、きれいな着物、美しい家屋敷に胸をときめかせたでしょうが、姫君→奥方様のような扱いは、日がたつにつれて窮屈に思うようになってきたのかもしれませんよ。
すでに結婚していた、夫と別れさせられる時に、どんな反応を見せたのかは記録がありません。
どうも、朝日姫は平凡な幸せを望んだ女性だったように見えてなりません。
朝日姫(旭姫)、美人?
テレビドラマ、映画の世界の朝日姫は、美人ではない、という設定で描かれています。
それは農民出身ということで、「いも娘」的なイメージがついて回るからでしょう。
あに、秀吉も「さる」、「ハゲネズミ」なんて呼ばれていましたから、兄に似ているとすれば、美人とは言えないのですが・・・・
家康に嫁いだときは、もう40歳を超していました。
今でこそ、40過ぎなのに美魔女、なんて呼ばれる美しい人は珍しくありませんが、当時の40歳は相当老けている部類に入ります。
となれば、若い頃どんなに美人だった女性でも、だいぶ美人度が落ちていたことでしょう。
「40すぎの婆さん(当時ならきっと、こう呼んだに違いない)」を望みもしないのに、押しつけられた徳川方は、「器量が悪い」と腹立ちを込めて呼ぶのも当然です。
しかし、若い時には結婚していたのだから、器量はそんなに悪い方ではなかったと思います。
若い時の結婚だから、秀吉の身分も低い時でしたので、朝日姫との結婚は名誉や財産目当てではありませんでした。
非常に美人、という言い伝えはありませんが、まあ、普通の若い娘、といったところでしょう。
朝日姫(旭姫)の夫は?
最初の夫は一人か二人か?
朝日姫は、家康との前に、結婚していましたが、それが1回とも2回とも、言われています。
名前が二つ上がってくるからです。
一人は佐治日向守(さじひゅうがのかみ)。もう一人の名は、副田仁兵衛(そえだじんべえ)。
この二人は同一人物とも、別の男性とも言われています。
途中で名前を変えたとの言い伝えもあります。
身分についても、尾張国の農民で、秀吉(当時の木下藤吉郎)に従い、出世した。
あるいは織田家の家臣だった、という説もあります。
佐治という名は、浅井長政の三女、江(ごう)が結婚した相手で、この二つの名前が混同された可能性もある、と言っている歴史学者もいます。
秀吉、朝日姫の離縁に踏み切る
とにかく、朝日姫が、徳川家康に嫁ぐとなると、今いる夫をなんとかしなければなりません。
秀吉は、二人を離婚させました。
その見返りとして、夫には石高(ごくだか)を増量しました。つまり簡単にいうと、金銭で釣ったとなります。
しかし、金銭的な条件を飲まなかったようです。
その代わり、家をすて、出家をした、または切腹した、と伝えられていますが、確かな証拠はありません。
秀吉一家は、農民の出身ですから、他の武士たちと違い、家の系図や記録が残っていないのです。
長男の藤吉郎が秀吉となって名を上げたから、豊臣家の歴史は秀吉から始まります。
特に秀吉は、朝日姫を、徳川家康に嫁にやることで、自分の立場に箔をつけようとしていました。
だからゴリ押しのような結婚を進めたのです。
秀吉と家康の関係の間の、影の部分なのですね。
秀吉、朝日姫、家康をつなぐために
1584年、小牧・長久手の闘い、で秀吉有利に講和を結んだものの、家康は着々と力をつけつつあります。
従わない徳川
そんな時、秀吉は朝廷から「豊臣」の姓と「太政大臣」(だじょうだいじん)の称号を拝受します。
しかし、徳川はなかなか、豊臣の臣下になってくれません。
つまり京都まで、ご機嫌伺いに来ない、というわけなのですね。
そこで考えたのが、妹 朝日姫と家康の結婚の結婚。
その背景には、いつまで待っても、京都までやってこようとしない、秀吉が示しがつかないと困ってための、和解策でした。
和解策の一番良い方法は、婚姻と秀吉は考えました。
結婚の申し出があった時、家康は嬉しいとは思わなかったでしょうね。
若くも美しくもない女性・・・しかも、その姫は初婚ではない・・・嫁の条件としてはいいとこなしです。
政略結婚ミエミエです。
しかしこの結婚が成立すれば、秀吉・家康との和平への道がひらけてくるのです。
朝日姫の気持ちは?
いちばんの被害者は、朝日姫です。
長年連れ添ってきた夫がいる。
仲だって悪くない・・・
それなのに、なぜ別れさせられて、妻がたくさんいる家康の元にわざわざ行かなくてなならないのだろう?
それも人質扱いの自分を・・・大事にしてくれそのもない人の元に、なぜ嫁に行かなければならないのか?
自分はもう40歳を超えている。こんな妻、誰が喜んで迎えてくれるというのだろう
とはいえ、逆らったら、多分、秀吉は怒るのではないか、そう思うと、気持ちが塞ぐのも当然です。
朝日姫は、この結婚が和平の印になる、と言われたら、断りにくかったのでです・
家康、結婚を承諾する
家康は、結婚の申し出を受けました。
この縁談を断ると明らかに、秀吉・家康の仲がこじれるからです。
離婚をさせてまで嫁に出す側に対し、断ればその好意を踏み躙られたと秀吉は抗議してくるだろう。
これでは徳川・豊臣の関係は壊れてしまいます。
家康は受けるしかない話でした。
家康は朝日姫との婚姻の条件として、もし家康と朝日姫との間に子供ができても、その子供は徳川家の後継とはしないでした。
しかしこの時40歳をすぎていた、朝日姫に子供が望めるかは、まず不可能ですが・・・
結婚の結果は・・・?
家康に京都に来て挨拶してもらうということは、秀吉にとって、「太政大臣」としての威厳を示すことになります。
しかし、家康は朝日姫を嫁にもらったからといって、即座に秀吉の元に挨拶に行きませんでした。
そこで、今度は秀吉は自分の母親、大政所(おおまんどころ)も人質として家康の元に送りました。
朝日姫、大政所の二人を人質として受け取って初めて、家康はその重い腰を上げて京都に挨拶に向かいました。
旅の途中の宿に、秀吉からの使者が突然やってきて、「謁見の時、秀吉が大きな態度に出るから、家康殿はどうかそれに合わせて臣下の礼をとってください」と願い事を言ってきました。
当日家康は、その願いに従って、非常に丁寧に臣下の礼をとりました。
それを見た、他のものたちは、「あの家康が頭を下げるのか・・・」と感心しました。
この時の家康の成長ぶりが見えるエピソードです。
こうして、秀吉と家康の確執は表面上消えました。
朝日姫は、両者を結びつける役割をしたことになります。
朝日姫と家康の仲は?
朝日姫と家康の結婚生活は、約2年でした。
朝日姫にとっては、側室がたくさんいる中に嫁に行くことは針の筵(むしろ)のような気持ちだったと察せられます。
家康が、秀吉のいる京都に臣従の挨拶に行った時には、徳川の家臣は、朝日姫、大政所(母)のいる部屋の前に薪を積み上げて、いつでも火をつけられるようにしていました。
もし、殿に何かあったら、人質の命を取る、との覚悟でした。
二人の女性は相当に怯えたと思います。
一方、家康は京都に上る前、家臣たちに、「もし自分が、京都で、秀吉に殺されたとしても、二人の人質は解放するように」と申し伝えていました。
この家康の言葉からは、朝日姫たちを、気遣う優しい性格が見えてきます。
実際の歴史は、仲が良かった、とも悪かったとも伝えていません。
当時の家康の城であった、駿府城で朝日姫は住むことになります。
そのため「駿府御前」と呼ばれるようになりました。
形だけは正妻として、尊重していた様子が伺えます。
いえ、それよりも、人質としてきた朝日姫に、かつての自分の人質時代を感じ、優しくしてあげたくなったのでは、と思います。
朝日姫(旭姫)、「どうする家康」でどうなる?
朝日姫はもちろん、NHK大河ドラマ「どうする家康」にも登場します。
今回は、「旭姫」の漢字名になっています。
山田真歩さんが、旭姫役です。9月3日から、お目見えします。
予告の写真などを見ると、くせ毛の女性です。
そして、笑顔が印象的な旭姫です。
美人とは行かなくても、好感度な女性ではないでしょうか。
その笑顔を見ると、完全に泣く泣くお嫁に来た、だけの方ではないようです。
豊臣家と徳川家の繋ぎとなる、大切な役目と、覚悟を決めて嫁にきた決意が感じられます。
これまでの「どうする家康」での家康の性格を見ると、旭姫に同情すると思われます。
秀吉の今回の嫁事件は、横暴に見えますが、朝日姫の健気さに、心打たれるのではないでしょうか。
女性として愛するかどうかは別として、秀吉の犠牲になったにも関わらず明るく振る舞おうとする、旭姫に優しくしよう、とする家康の気持ちは見えるはずです。
そこに家康は、自分の過去に我慢してきた思いがかさなるのではないでしょうか。
朝日姫(旭姫)の最期
朝日姫の死
徳川家康が、京都に登り、秀吉への挨拶が済むと、目的ははたされたということで、大政所が秀吉の元に返されます。
大坂城まで帰ったところで、高齢だったせいでしょうか、大政所は体調を崩します。
それを聞いた、朝日姫も、母へのお見舞いということで、大阪城に行きました。
ここでも朝日姫に対する家康の、心配りが感じられます。
しかし、朝日姫は、大坂に帰った後、病気がちになり、ついに聚楽第で1590年に亡くなりました。
大政所が亡くなった後、朝日姫は一旦、駿府城に戻ります。
しかし、その後いつの間にまた、聚楽第に戻ったかは記録にありません。
朝日姫の墓
朝日姫の訃報を聞いたのは、家康の小田原攻めの準備中でした。
そこで、その時は、京都東福寺に葬りました。
法名は、南明院殿光室宗王大善尼、(又は 南明殿光室総旭大姉)。
東福寺塔頭に南明院があります。
これは家康が作らせたものです。
朝日姫の菩提を弔うためですね。
ここにも家康の細やかな配慮が見られます。ここには朝日姫の肖像画もあります。
また、のちに静岡市葵区にある、瑞龍寺にもお墓を建てました。
この寺での法名は、瑞龍院殿光室総旭大禅定尼。
同じ人物でも、法名がいくつもあるのは面白いです。
宗派が違うからなのでしょうか。
そういえば、今日でも、改宗するとと、元に所属していたところ、と新しいところとで、二つの戒名ができますね。
それと同じでしょう。
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