松平定信、性格は?老中になる。理想は?幼少期から、白河藩への道。好きな食べ物?家系図は?南湖公園とは?恋愛話は?

松平定信は、田安家から、松平家に養子に行った人物です。

改革で有名な松平定信ですが、田安家で生まれ、松平家(白河藩)に養子に行き、やがて、となかなか複雑な人生を過ごしています。

将来、田沼意次と対立することになりますが、その理由は少年時代、そして本人の性格にありそうです。

ここでは、松平定信の老中になるまでの、道をたどってしらべてみました。

松平定信(田安賢丸)の性格は?

2025年大河ドラマ「べらぼう」では、幼い頃から聡明で、真面目な性格として描かれています。

後世では、松平定信は、真面目、融通が効かない、などと言われています。

松平定信は、田沼意次の政策を批判したことで有名ですが、その度胸は、養子に出され、白川という江戸から離れた土地で、中央の政治に関わるこことなく過ごしたことで、

能力が培われていったのでしょう。

兄の死後、田安家に戻れるかどうかを田沼意次に頼んでも、却下されましたが、特に気落ちすることもなく、卑屈になることもなかったのは、持って生まれた真面目さのせいでしょう。

「天明の飢饉」が起こった時に、質素倹約を我慢強さを武器に、白河藩を救ったのですが、

その手腕が江戸では、うまく作動しませんでした。

これは松平定信の生真面目さが、受けいられなかった、ということではないでしょうか?

その理由はまた別の章で、説明いたします。

松平定信、老中に選ばれた理由は?

1787年、松平定信は、老中に抜擢されました。

1783年、白河藩主に就いてまもなく、浅間山の大噴火が元でひどい飢饉が起こり、その対策がうまくいったところから、松平定信の世間的評価は高まりました。

松平定信の政策により、白河藩では餓死者は一人も出ませんでした。

ちょうど、その時、幕府の老中だった、田沼意次(たぬまおきつぐ)が行った処置は全くうまくいかず、田沼は失脚に追い込まれました。

その分、松平定信が株を伸ばしてきたのですね。

ついに、松平定信は、将軍徳川家斉(家斉)の父、一橋治済(ひとつばしはるさだ)そいて、御三家の推薦を得て、老中、それも首座という、老中の一番上に立つ地位についたのです。

松平定信の理想とは?

松平定信には理想がありました。

それは自分は、徳川吉宗と同じ、「質素倹約」を大切にし、吉宗と同じ理想、庶民に寄り添うことでした。

松平定信は、1759年の生まれ、吉宗の1751年に死去しているので、定信は、実際の吉宗を知らなかったのですが、

吉宗と同じような精神を、定信はその心に持っていました。

松平定信(田安賢丸)の幼少期

賢丸の名に恥じず、田安賢丸(のちの松平定信)は、頭のいい子供でした。

賢丸と呼ばれた、松平定信は、小さい頃から学問好きな少年で、四書五経(ししょごきょう)を読み、12歳で「自教鑑」(じきょうかがみ)という、人のあるべき道を説く本を書きました。

四書五経とは、東洋の古典で、中には孔子(こうし)の論語(ろんご)も入っています。

日本では古くから自らを高めるために読む書物として、武家などの地位の高い人たちの必読書でした。

かなり早熟な子供でしたね。

そんなに神童のような子供だから、周囲の人から、いずれは田安家の後継となり、将軍の地位にもつくかもしれない、と言われたほどです。

松平定信(田安賢丸)、当主への期待

松平定信(田安賢丸)は七男なので、まず田安家の後継者になるだけでも大変なのでは?と思った方もおられるでしょう。

しかし、実は、田安家の当主、宗武の息子は、長男から四男まで早い時期に亡くなっており、五男 治察(はるあき、または はるさと)が次の当主と決まっていました。

乳幼児の死亡率は、出生率の約2割、と歴史人口学では言われています。

江戸時代は、衛生状態悪く、病気にかかってもそれに対処する治療法が、確立されていませんでしたので、子供の死亡率が高いのも当然、と言えます。

松平定信は正室ではなく、側室の子でしたが、父 宗武の正室に養育されていました。

そんな、頭の良さで期待を集めた、田安賢丸でしたが、子供の頃は病弱で6歳の時、危篤に陥ったこともありました。

しかし病弱だったのは、田安賢丸だけはなく、後継者候補の治察も同様、身体の弱い子でした。

身体は弱くても、田安賢丸の方が、頭脳明晰だったので、いずれは、周囲が田安家の当主を、賢丸にと、期待してたようです。

松平定信の母

「母」と言っても、松平定信を産んだ母ではなく、育てた母です。

生母は、尾張藩の家臣なので、そんなに身分の高い人ではなく、側室でした。

育ての母は、公家 近衛家(このえけ)の出身で、松平宗武の正室、後に出家して宝蓮院(ほうれんいん)と呼ばれました。

宝蓮院は、松平定信(田安賢丸)と共に、その兄、治察も引き取って養育していました。

松平定信の兄たちが次々と亡くなり、すぐ上の同母の兄 治察も病弱というのだから、どうしても期待が、賢丸にかかります。

宝蓮院は、賢丸をいずれ、田安家の当主にするつもりで育てたに違いありません。

ドラマ「べらぼう」の展開だと、かなり厳しいお母様に見えます。

どのような育て方をしたのか、エピソードは残っていませんが、賢丸の妹 種姫を将来の将軍の正室にすることを、考えて育てた、というから、野心がある女性に見えます。

松平定信(田安賢丸)は白河藩に

松平定信が17歳になった時、白河藩主 松平定邦(さだくに)の養子になることが決まりました。

 

白河藩の松平家ですが、この松平家は、徳川家康の弟を祖先に持ちます。

どういう弟かというと、家康の母、於大の方(おだいのかた)が家康の父、松平広忠(ひろただ)に離縁された後、

結婚した相手、久松俊勝(ひさまつとしかつ)との間の子供 久松定勝(ひさまつさだかつ)です。

松平定信は、田安家の当主だけでなく、次期将軍の期待もかかってきたのにです。

於大の方と久松家のことについては、於大の方の記事をお読みください。

 

当時の将軍 徳川家治(いえはる)は、男子が生まれたからです。

田安家の方は、当主の田安治察に子供ができず、賢丸を養子にしたい希望を出していたのですが、将軍 家治からは、その願いは却下されました。

が、これには裏があり、田安家の願いの却下は、田沼意次の策略だった、ということでした。

これは後に(1790年ぐらい)に、一橋斉済が尾張家と水戸家に語っていたことから判明しました。

松平定邦が、家の格を上げようと望んで、田沼意次に相談したことから、始まった、ということでした。

それには、将軍に血筋の近い、田安家の子供を自分の養子にすることが、手っ取り早い作戦でした。

おそらく、松平定邦は、田沼意次に、つけとどけ(ワイロ?)を送ったのでしょうね。

結局、松平定信は、白河藩にいき、26歳になった時、白河藩主となりました。

田安家の当主後継者には定信の兄、治察が決まっていましたが、当主の座に着く前に亡くなってしまったのです。

そこで、白河藩に行った、松平定信を田安家に戻してもらおうと思ったのですが、これは却下されます。

松平定信は、自分の、そして自分の家の意思が受けいられなかったので、反対をした田沼意次を将来もずっと、敵意を抱いていたに違いありません。

それが、のちに、松平定信、田沼意次の対立の原因の一つとなったと、思われます。

松平定信の好きな食べ物は?

松平定信は、茶人として有名でしたので、白河藩では茶道の人気がありました。

そこから、当然、茶道で用いられるお菓子の文化も発達してきます。

だからと言って、特にこのお菓子が好き、という嗜好はありませんでした。

煮ぼうとう と、南湖だんご、ということが伝わっていますがそれは、後に松平定信と結び付けられて、白河の名物になったものばかりです。

松平定信が広めた「南湖団子」とは?

南湖団子とは、一口大のお団子に餡や醤油だれをかけて、食べます。

南湖公園を作るとき、働いていた職人に松平定信が振る舞った、ということからきています。

なかなか歴史の古いお菓子ですね。

今でも、南湖公園に遊びに行くと、湖畔のお茶屋で、南湖団子を楽しむことができます。

松平定信に関連付けられた、煮ぼうとう

煮ぼうとうとは、煮込みうどんのような料理です。

幅の広い麺(きしめんのもっと幅広い感じ)を、たっぷりの野菜で煮込み、味は、醤油と味噌があります。

この料理、元から白河にある料理ではなく、埼玉県深谷市の、そして、山梨県の郷土料理です。

だから、松平定信とは本来関係のない食べ物です。

実はこの料理は、渋沢栄一がすごく好きな料理で、渋沢栄一が、松平定信を尊敬していたことから、米沢と、煮ぼうとうが結びつけられました。

なんだか、商売の方が先立ってしまった話ですね。

松平定信(田安賢丸)、の家系図は?

松平定信は、田安家の七男で、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の孫です。

その名は、田安賢丸(たやすまさまる)と言いました。

吉宗の長男は、9代目将軍 家重(いえしげ)。

その弟に、宗武(むねたけ)と宗尹(むねただ)といいますが、宗武は田安家(たやすけ)。宗尹は一橋家(ひとつばしけ)とそれぞれ、家を建てました。

もう一つ、徳川家重の次男、徳川重好(しげよし)が清水家をたて、田安家、一橋家、清水家の3つの家を御三卿(ごさんきょう)と言います。

徳川の直系を絶やさないようにするために、作られた家で、将軍家に、さらに尾張家、紀州家に将軍を継げる年代の男子がいない時に、将軍職を継がせるようにするためにです。

松平定信は、その田安家に生まれました。

将軍 吉宗の孫ということは、この時代の将軍家 家治とは従兄弟同士です。

松平定信が作った、南湖公園

「南湖公園」(なんここうえん)は1801年、白河藩に作られました。白河藩は現在の福島県白河市です。

身分の差なく、誰でも訪れ楽しめる公園、として作ったのです。

これまで、公園というのは、殿様の庭園だったので、公共の公園としては初めてのことだったのではないでしょうか。

「南湖」とは、

中国 唐の時代の詩人 李白(りはく)の「南湖秋水夜煙無」の「南湖」から、そして、公園を造営する場所が、白河小峰城に南側にあった、という両方をかけてつけられた名前です。

公園は庶民の憩いの場だけでなく、湖の水は灌漑用水として使うこともでき、そのほか船の訓練場として使うこともできました。

また造営工事そのものも、公共事業となり、庶民の働き口にもなりました。

一石二鳥のような公園ですね。

松平定信に恋愛話は?

松平定信の恋愛は、2024年、フジテレビの「大奥」で描かれていたストーリーです。

「大奥」によると、松平定信は、まだ、田安賢丸(たやすまさまる)と呼ばれていた時代、五十宮倫子(将軍 徳川家治の正室)と顔見知りであったことが描かれています。

顔見知りどころではなく、お互いの中の恋愛感情に、見ている方はびっくりしたはず。

その思いあいの様子が、NHK大河ドラマ「べらぼう」でも描かれるかな?と期待(想像?)下からもいるかもしれません。

が、「べらぼう」では、このエピソードは描かれないと思います。

というのも、実際に、松平定信と、五十宮倫子は、年が違いすぎました。

松平定信の生年 1759年、五十宮倫子の生年 1738年。なんと、21歳も五十宮倫子の方が年上であるばかりでなく、倫子さんの長女が1756年の生まれというから

娘よりも、さらに歳が下ではありませんか。これだけ歳が離れていたら、恋愛があったかなんていうのは、全く無理な話ですよね。

まとめ

この記事では、松平定信の老中までの道のりを、調べてみました。

我慢の、半生でしたね。

これから、老中になってから、その成果はどうであったか?

松平定信の政策に、「べらぼう」の主人公 蔦重とどのように関わっていくのか?

それが江戸、および日本の生活にどう影響するのかについてはまた別の記事でご紹介したします。

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