田沼意知、死因は?刺殺の犯人は?暗殺の疑いは?なぜ殺された?

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺」

田沼意知は、田沼意次の息子で、刺殺されました。

犯人は、佐野善右衛門政言で、私怨ということで片付けられましたが、裏では暗殺の疑いも?

一体、なぜ殺されなければならなかったのでしょうか?

ここでは、田沼意知の、恨みを勝った理由、刺殺の理由、を詳しく調べました。

どうぞ最後までお読みください。

田沼意知の死因は?

斬られた傷が原因で死亡しました。傷もひどいものでしたが、それよりも大量出血の方が死因につながりました。

すぐに助け出されなかった、ということも、田沼意知(たぬまおきとも)の怪我をよりひどいものにしています。

田沼意知、死因は出血多量?

何度も何度も切りつけられる、というかなり 悲惨な事件でした。

即死ではなく、8日後の4月2日に亡くなりました。

切り付けられた後、一週間ほど生きていたことで、田沼意知を刺した刃にはトリカブトの毒が塗られていたのでは?と言う推測もあります。

徳川家に関する公式記録「徳川実紀」、「営中刃傷記」、「甲子夜話」などからは、傷の酷さがわかる記述があります。

現代の医者がその記録を見たところ、おそらく動脈を損傷していると見られる、即座に止血ができれば、命を落とさなかった可能性もある、と言っています。

しかし江戸時代のこと、止血の方法の知識が十分ではなかったことが想像されます。

いや、現代でも助かるかどうか紙一重の状態だったのではないでしょうか。

記録によると、田沼意知は応急措置がなされただけで、カゴで家まで送られた、とあります。

傷のひどさ、多い出血量が原因で、トリカブト説はないのでは、と思います。

田沼意知、救出の遅れが死因に?

殺害時、現場近くには20名近くいたようです。

騒動が起きたのに、何も対処できなかった罰として、20名が処分を受けた、という記録から、20名が困り果ててウロウロしていたようです。

それだけ人数がいれば、田沼意知を襲う佐野伝左衛門政言を抑えられたはずなのに。

それなのに実際、佐野政言を抑えたのは、大目付 松平対馬守忠郷(まつだいらつしまのかみたださと)、70歳、ただ1人でした。

ですから、残りの20名は、職務怠慢と、いうことにでお咎めを受けました。

ここにも疑惑があるのですが、

誰も田沼意知を助けようと思わなかったほど、田沼は憎まれていたのか?

それとも、全員が、事件に関わっていたのか?

疑惑の一つは、佐野政言が持っていた、とされる七か条の口上書きを、握りつぶしたのは松平忠郷か?

佐野政言と、彼が持っていたとされる「七ヶ条の口上書き」についてはこちらをご覧ください。

田沼意知、刺殺の流れは?

1784年(天明4年)、3月24日 田沼意知(たぬまおきとも)は切り付けられ、死亡しました。られています。

刺殺までをドキュメンタリー風に追ってみました。

田沼意知、刺殺の時?

3月24日、夕方 役人たちの勤務時間が終わり、いつも通り帰宅する 若年寄り 田沼意知。

御用部屋を出て、中の間から桔梗の間に差し掛かった時、佐野善右衛門政言に突然、斬りかかられました。

桔梗の間より少し先の部屋から、飛び出して来たもようです。

田沼意知は、さやに納まったままの脇差しで応戦しますが、肩を斬られ、倒れたところさらに、犯人に腹に刀を刺そうとしたところ、股の部分に刺さり、肩・股共にひどい重傷を負います。

田沼意知は、鞘から刀をぬかなったのは、以下二つの理由が考えられます。

  • 急すぎて鞘を抜き払う余裕がなかった。
  • 江戸城内では、刀を抜いてはならない、という規則があった。

周囲は、あぜんとして見守るばかりでした。

それでも田沼意知は人のいる方へ逃げていき、佐野政言も追いかけていき、そこを大目付たちに取り押さえられました。

田沼意知はすぐにかごに乗せられ、自宅に運ばれたのですが、肩も股もどちらの傷も骨に達するほどで、手の施しようがなく、4月2日に、ついになくなりました。

4月2日は旧暦で、現代の暦だと、5月20日にあたります。

田沼意知、城内で襲われた理由?

田沼意知は、殿中(江戸城の中)なのですが、なぜここでなければならなかったのか?

襲うと言うのなら、田沼の家屋敷に押し入る方が簡単なはずです。

ですがその方法だと、田沼意知が死んでも、「不慮の死」などと内密に片付けられてしまったら、犯人は主張ができないので、これはボツ案です。

では、城への行き、帰りでは?この場合だと、護衛がついていて、襲撃が難しくなります。

城の中なら、人も多いので田沼意知の護衛はそこまで多くなく、比較的襲いやすい場所になります。

そこで、城内を選んだ、と思われます。

田沼意知殺害の犯人は?

田沼意次を、襲い刺殺した人物の名は、佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)でした。

佐野善左衛門政言は、取り調べを受けましたが、理由について真実を語ろうとはしませんでした。

確かに直接手を下したのは、佐野善左衛門政言であるのは、間違いありません。

ですが、動機を考えると、個人的恨みか?乱心か?他に黒幕がいて、佐野は手先だった?という疑問も出てきます。

田沼意知、殺害犯人は佐野善左衛門政言!

田沼意知 襲撃で、そこですぐに取り押さえられたのが、佐野善左衛門政言だったので、彼が現行犯であるのは間違いありません。

その時、佐野政言は、乱心(精神錯乱)だったのか、あるいはそうでなかったのか?

殺害は、佐野善左衛門政言1人の考えだったのかが疑われます。

田沼意知、殺害犯人 佐野政言は乱心?

刺殺犯人 佐野善左衛門政言は、田沼意知を刺殺したとき、乱心していたのでしょうか?

田沼意知 刺殺は乱心から?

江戸時代の、刃傷事件(刀を抜いて切り掛かること)は「乱心のゆえ」と片付けられることが多いのです。

佐野政言の、田沼意知襲撃事件も、「乱心」が疑われました。

佐野善左衛門政言は田沼意次・意知 親子に、系図を奪われる、狩の手柄を取られるなど、心に抱えた不満が爆発した、となれば、それは乱心です。

そもそも、「乱心」とは何でしょう?

乱心とは、精神状態が普通でなくなり、通常でない行動をすること、ということですが、そんなに精神状態が乱れる人がが多かったのか?という疑問が起きるのですが。

そんなわけないでしょう、とツッコミを入れたくなります。

実際は、武士の規範、身分制度に縛られた人の心の鬱屈が、現れたものだっただと思います。

「乱心」とわかった場合は、罪が軽減されることもありました。

佐野政言、田沼刺殺時は乱心でなく?

佐野政言の乱心ではない、という意見もあります。

作家 池波正太郎が歴史小説「剣客商売」の中で、

佐野政言が発狂しているなら、狙う相手は田沼意知以外の人物になる可能性もあると言うのです。

要するに、誰でもよかった、と。

陰謀があるとして、暗殺を狙うなら、わざわざ発狂して、確実性のない人物を使うわけがない。

池波正太郎は、小説では、田沼意次に好意的です。

もし、佐野が暗殺実行者としたら、捕まった時に、発狂が疑わえれば、それは見せかけである。

「田沼罪状」と言うものを手にしていた、というが(これは「七ヶ条の口上書き」のことでしょうか?)、そのようなものはなく、後世に偽造した話ではないか、と言っています。

田沼意知、暗殺された疑いが?!

田沼意知 殺害に直接手を下したのが、佐野善左衛門政言であるのは、当時の証言などから見て間違いありません。

では、佐野政言が、誰かにより操られて犯行に及んだ、こういう説も、近代では考えられるようになりました。

田沼意知、暗殺説の根拠?

田沼意知は、父 田沼意次(おきつぐ)の七光で出世したと思われ、しかも 父とともに、嫌われていた政治家だったので、実は計画的な殺人だったのでは?と言う噂も出ています。

実際、田沼意知 死亡ののちに得をしたのが、田沼の政策に反対な、古い家柄の大名、侍たち(譜代)でした。

「べらぼう」でも、佐野善左衛門政言は人から吹き込まれた話によって、田沼意知殺害の行動へと走りました。

田沼意知事件、黒幕を考えたティーチング説とは?

黒幕説が上がってきたのは、長崎出島にあった、オランダ商館長 イサーク・ティーチングの「日本風俗記」の記述からです。

そこには事件の様子が書かれていました。

田沼意知は、いつも勤務が終了すると、同僚たちと一緒に帰宅するのに、その日に限って、バラバラに帰宅につき、田沼意知が1人取り残される形に。

「佐野善左衛門政言が、犯行に及んだあと、すぐ近くの部屋に人、それも警備がいたにも関わらず、佐野を取り押さえなかった。

これは全員が、驚きのあまり、何をしていいのかわからなかったということもあるのでしょうが。

ティーチングは、『あえて動かなかったのではないか?、犯人が逃げられるよう仕組まれていたようだ』と疑問を投げかけています。」

しかし、ティーチングは江戸から離れた長崎にいて、江戸に来たわけでも、実証検分もしていないので、あくまでもティーチング本人の推理です。

そこで、オランダ商館長 ティーチングなどは、田沼を自分たちの国とも関わってくるかもしれない人物として、目をつけていたのでしょう。

興味を持っていた、人物が刺殺されたから、個人的に調べてみたのでしょうね。

それでも、ティーチングの洞察力には、現代の私たちから見ても驚かされます。

ティーチングが田沼意知に関して、書いている記事はこちらにあります。

田沼意知暗殺、黒幕有力候補、松平定信?

黒幕について具体的な名前を出すとすれば、松平定信で、佐野円座衛門政言をそそのかしたか?という疑惑です。

松平定信は田沼親子の政策に批判的な有力大名(名家)です。

松平は田沼意次親子のやり方に不満があったという理由から、暗殺に至った、と言う説があります。

しかし、田沼意知を殺害したとバレたら、その大名家はお取り潰しとなりますから、それを避けるために、佐野政言を使ったのでは?と言う見方もあります。

松平定信は、白河藩の養子になっていて、自分の家に家督を継ぐために一家の一橋家に戻りたい、と言っても、田沼意次の反対にあってできなかった、と言う事件があります。

そのことで、田沼家を恨んでいたので、容疑者の可能性はあります。

松平定信自身も、「田沼を殺してやりたいと思い、短刀を作らせたが、大人気ないことなのでやめた」なんて告白していました。

松平定信は、田沼意次が、引退したのち、田沼と全く違った政策をとってので、疑いはマックスですが、実際はどうだったのでしょう?

「刀を作ったが、〜」発言は、自分は殺害していない、と証明するために告白したのでしょうか?

反対に考えると、やってないアピールをして、こっそりと人をまたは組織を動かしてやらせた、なんて深読みもできます。

しかし、真相は闇の中。ですから「田沼意知を誰が殺したか?」と推理小説ばりの話題が持ち上がるのです。

田沼意知殺害、黒幕 一橋治済 説?

「べらぼう」の流れを見ていると、一橋治済(ひとつばしはるさだ)が黒幕?とも見えてきます。

田沼意知・意次、一橋治済、対立「蝦夷地を巡って」対立?

動機を一番感じられるところは、政治面での「蝦夷地」(北海道)に関することです。

田沼親子が、幕府の直属の土地にしようと考えていましたが、一橋治済も蝦夷地を狙っていました。

松前藩主 松前道廣が「北海道を幕府で取り上げないでくれ」と一橋治済のところに頼みにきたこともきっかけの一つになったと思います。

そもそも、一橋治済は、田沼親子の革新的な政治手腕を快く思っていませんでした。

一橋治済が望む政治は、保守的なものだったので、斬新な政策が進めば日本は混乱を起こしてしまう、と考えていたのでしょう。

田沼親子は、商業、海外貿易を進めることで、日本の経済を作り、日本の国の発展を目指そうとしました。

田沼意知殺害に、「丈右衛門」関与か、一橋治済の手先?

「べらぼう」で事件があると、「丈右衛門」(じょうえもん)が登場します。

丈右衛門と、一橋治済が一緒の画面で並ぶことはありませんが、丈右衛門が出た後に、一橋治済も画面に映ります。

丈右衛門を見ると、時代劇(これも時代劇ですが)お庭番のように見えます。それも一橋治済付きの。

2人の現れるタイミングから、事件との関係が匂ってきます。

平賀源内の獄死の時も、丈右衛門が動き、その後に、一橋治済が、怪しい(?)手紙を焼いて、そこで焼き芋を作っているシーンが出ました。

佐野善左衛門政言の場合も、田沼意次、意知のことを有る事無い事、悪魔の囁きのように佐野の耳に吹き込むのでした。

田沼意知はなぜ殺されたのか?

田沼意次が殺されたのは、佐野善左衛門政言の個人的恨み、恨みから発狂して殺害した、幕府の公的な記録にあります。

確かに、佐野政言は、恨み以外の理由を語ろうとはしませんでした。

田沼意知殺害は、佐野政言の個人的恨み?

佐野善左衛門政言が、田沼意知を恨むきっかけになったのは、田沼意知が、佐野家の家系図を借りて返さなかった、ということでした。

佐野政言は、田沼意知殺害理由を書いた「七ヶ条の口上書き」と言う文書を持参していた、と言うことですが、それは見つかっていません。

「七ヶ条の口上書き」があった、ことは江戸後期に書かれた「営中刃傷記」(えいちゅうにんじょうき)と言う読み物にあるからですが。

それによると、口上書きは焼き捨てられた、写し書が残されている、とかありますが、「七ヶ条〜」が見つかっていないので、どうにもわからないところです。

田沼意知 殺害理由、田沼意次に打撃を?

田沼意知 自身は父 意次と共に仕事をしていたので、意知のしたことを特に恨まれての殺害ではありません。

田沼意次の殺害、に直接手を出さず、息子 田沼意知をこの世から消すことで、父 意次に打撃を与えようと、目論んだものでは、と言うのが一つの見方です。

もう一つは、田沼意知は父の後を当然継ぐものを思われ、政策も父のやり方を、進めていくでしょう、と見られています。

こんな、田沼意次の政策を続けられてはたまらない、と言う思いが、反対派の人たちに働いた、と言うのも理由だと思います。

田沼意次は、当時(1780年代)、経済格差を広げた・賄賂をとっていた、と言うことが取り沙汰されて、嫌われる政治家になっていました。

庶民の間でも、田沼の政策は不人気で、田沼を批判する歌が出るほどでした。

こうしてみると、田沼意知は、父意次のとばっちりを受けたような、可哀想な人、と言う感じもします。

田沼意次がどのような政策を取ったか、はこちらに書いていますので参考までにご覧ください。

まとめ

田沼意知が、江戸城内で不意打ちにあい、出血多量で亡くなったのは、佐野善左衛門政言の恨みによるものでした。

ですが、その裏には田沼親子を、追い落とそうと狙っている人々の気配が感じられるものの、証拠不十分で、現在に至っています。

現在まで伝えられている、証拠をもとに、「べらぼう」がどのように推理を下すのか、楽しみですね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました