お知保の方は徳川家治の側室です。
「お」がつかない「知保」とも「智保」とも呼ばれています。のちには、仏門に入り蓮光院と言いました。
2024年春に放映された「大奥」では悪役でしたが、2025年大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華之夢噺」ではどうなるでしょう。
側室になった理由、生まれた子供の運命、田沼意次との関係などを中心に、お知保の方の生涯を調べてみました。
果たして幸せな人生だったのでしょうか?
お知保の方、毒を使った?
「べらぼう」で、将軍 徳川家治が亡くなりました。「べらぼう」では毒を盛られた?
そして、犯人はお知保の方?本当はどうなのでしょうか?
お知保の方が作った?
何をしたかというと、徳川家治は、醍醐と呼ばれる食べ物を食べて具合が悪くなり、やがて死、となるのですが。
醍醐を送ったのが、お知保の方だったのです。それも、自らの手で作ったという。
醍醐とは、日本では奈良時代から食べられていた食品で、身分の高い人しか食べられない高級品でした。
徳川家治の死、これていうと毒で亡くなった、ということですが、徳川家の歴史書と言われる「徳川実紀」には、毒殺、という記述は一切ありません。
「べらぼう」では、お知保の方が犯人に見えます。
しかし、お知保の方が毒殺に及ぶ、という説はフィクションと思われます。
お知保の方、なぜ、毒殺の設定に?
「べらぼう」で以前、お知保の方が、毒を飲んでの自害騒動というものを起こしています。
その時は、自分の子供、徳川家基が死に、自分が用無しになった、と感じたから、という遺書を書いていました。
しかし、お知保の方は、命を落としてはおらず、田沼意次は、この自害は本気だったか?と疑っていました。
お知保の方、自殺未遂事件も、実際にあった事件ではなく、のちに起こる、事件への伏線として作られた話だと、思います。
自ら「毒」を用いるなら、他の人に毒を盛ることだってできる、という。
これは、以前のよしながふみ原作の「大奥」にも出てきたモチーフを感じさせるシーンでした。
お知保の方、一橋治済と協力する?
史実を見て、お知保の方と、一橋治済の間に信頼性があった、話は出てきません。
「大奥」では、一橋治済が、カステラというお菓子に毒をいれて、こっそりと暗殺を図っていました。
今回の「べらぼう」でも、一橋治済の息子 豊千代が、カステラを食べていました。
「べらぼう」でもカステラが重要な役割を果たすのではないかと、期待が集まりましたが。
これは視聴者が「べらぼう」と「大奥」の脚本が同じ森下佳子さんだったこともあります。
しかも、この時、醍醐の提案をするのが、大崎という侍女。
大崎は、豊千代の乳母で、ということは一橋家からきた女性ということになります。
お知保の方の息子、徳川家基が死んだのち、一橋治済のおかげで、西の丸という時期将軍の入る御殿から追い出されたものですから。
その後は、大奥で過ごしていましたが、その時近づいてきたのが、大崎でした。
息子が死んで、将軍様以外の頼りになるものがいなくなって、お知保の方は、大崎を信頼していたのかもしれませんね。
お知保の方、田沼意次が大嫌い!
お知保の方は、田沼意次を憎んでいたことから、必然的に、一橋治済・大崎の策略にかかってしまった、というわけです。
お知保の方は、自分の息子 家基は、田沼意次に暗殺された、と思い込んんでいたからです。
また、徳川家治の場合も、家治は醍醐を食べる前から体調の不良を訴えており、田沼意次はそのために、送った町医者に対し、お知保の方は、反対を訴えていました。
ですから、お知保の方は、家治が死んだのは、毒を盛られたからで、毒を持ったのが、町医者で、その指示を出したのが田沼意次だと、言うのです。
しかし、ここでちょっと疑問が浮かんできます。
上様(家治)が亡くなると困る、と言っていたのは田沼意次ですが、お知保の方から見ても、家治の死は、困るはずです。
家治の死で、お知保の方が得をすることはありません。
もし、毒入り醍醐を作ったのが、お知保の方ならば、上様を死に追いやってまでも息子 家基の仇を取ろうとしたのか、上様への愛情はもうなかった、と言うことが考えられます。
徳川家治の死が、一橋治済の策略だとすれば、お知保の方まで巻き込むと言うことは、一橋治済は。よほどの口上手、だった、と言うことになります。
お知保の方、側室に
知保の方ですが、第10代将軍 徳川家治(とくがわいえはる)の側室です。側室になるということは大奥にいた女性です。
元々、側室として大奥に入ったのではなく、1749年に、9代将軍 徳川家重(とくがわいえしげ)の雑用をする侍女として、大奥入りしました。
知保の方、側室への道
こうした雑用係を、御次(おつぎ)と呼んでいます。
この時の名前は「お蔦」(おつた)と言い、後に改名し「知保」となりました。
やがて、1751年にお中臈と呼ばれる、上級の侍女となります。
お中臈になれる、ということは、将軍の身辺のお世話をする女中になることであり、同時に側室候補になることを意味していました。
知保の方、江戸時代の「シンデレラ」?
なぜ「シンデレラ」なんて呼ばれるのかというと、側室への出世を指しているからです。
というのも、ドラマ「大奥」では、知保は貧しい家の娘だった、という設定からそう呼ばれるのですが、実際は違います。
裕福とは言えませんが、生まれははたもとで、それなりの格式を持ち、困らない生活をしていました。
それに徳川家では、家康の時代とは違い、将軍家に生まれた男子なら、母親の身分はどうでもいいようななっていました。
実際、5代将軍 綱吉(つなよし)の母親は、八百屋の娘ですから、知保の方の生まれは、もう家治の時代になってくると、そんなに考慮されなくなっていました。
「大奥」のような、ストーリー展開は、「べらぼう」では必要のないこと、ですね。
知保の方でなく、弟がシンデレラかも?
知保の方が、竹千代(のちの家基)を産んだときに、弟 津田信之(つだのぶゆき)が津田の家を継ぎました。
竹千代が、将軍家の後継者となることが決められ、江戸城西ノ丸御殿に移ると、弟 信之は1000万石に加増されました。
その後も何度も加増が加えられ、ついには、6000万石与えられる、大身旗本(たいしんはたもと、旗本でも上級に属する)にまで出世しました。
それは、知保の方が、世継ぎを産んだからです。
知保の方は、津田家にとって、福の神様、みたいなものだったのでしょうね。
シンデレラになったのは、知保の方ではなく、むしろ弟だったのですね。
知保の方の出世はどのように?
知保の方の、血縁関係に、「お遊の方」(おゆうのかた)という人物がいました。
お遊の方は、徳川家治の生母 お幸の方(おこうの方)とライバル関係にある、側室でした。
その時の将軍は、徳川家重。
知保の方はお遊の方と、徳川御三卿の一つ、清水家の遠縁にあたる、ということですが、この話は知られていたこと、というだけで、信頼ある文書は見当たりません。
しかし、知保の方の出世を見ると、血縁関係のコネはきっとありましたね。
徳川御三卿とは
将軍の血筋を絶やさないようにするために、御三家以外にも、将軍につける、徳川の血を引くために設立された「家」です。 田安(たやす)徳川家、一橋(ひとつばし)徳川家、清水(しみず)徳川家 の3つ。 8代将軍 吉宗(よしむね)の次男 宗武(むねたけ)が田安、吉宗の四男 宗尹(むねただ)が一橋。 9代将軍 家重の次男 重好(しげよし)が清水 です。 この3家は屋敷を江戸城内に与えられており、将軍家との交流も多かったです。 |
お知保の方と、徳川家治は仲が良かった?
側室に上がる女性となると、将軍とは互いに愛情があったか気になるところです。
ところが知保の方と将軍はは、愛情で結ばれた、というわけではなかったのです。
知保の方、家治に愛された?
徳川家治の初めての側室が、知保の方でした。
知保の方と、家治の間に男子は生まれましたが、非常に思い合っていた間柄、とはあまり思えません。
家治の方は、知保の方をあくまでも、世継ぎの母親、という認識しか持っていませんでした。
というのも、家治と、正室 五十宮倫子とは仲が良かった、ことが伝えられています。
知保の方は、家治が正室、五十宮倫子(いそみやともこ)と結婚して10年後です。
10年後で初めての側室、しかもその頃(1761年)、正室は、女子を産んでいます。
ということは、後継者を必要とするための手段が、側室だったわけです。
さらに生まれた子供は、正室 五十宮倫子の手元で育てられることとなりました。
こうした事情のもとでは、徳川家治から、知保の方へ愛情ゆえの結びつきというより、後継のため、という義務感からだけのような感じです。
知保の方、家治を想う?
しかし知保の方が、家治を想っていなかったかというとそうでもなかったエピソードが伝えられています。
それは、家治が亡くなった時に、知保の方が錯乱した、という噂が流れたからです。
でも、それは、家治が亡くなったためにパニックに陥っていた、という見方もされています。
いずれにせよ、知保の方は、家治が亡くなって非常に悲しんだということです。
やはり、お知保の方は、家治に心が動いていたから、側室に入って子供を持とうと決意したのだと思います。
お知保の方の子供はどうなる?
1761年、知保の方は子供、それも男子を産みます。
そして付けられた幼名が 「竹千代」。
竹千代、という名は、徳川家にとって大切な名前です。徳川幕府 初代将軍の幼名が竹千代、と言ってので、徳川幕府の長男は、すべて竹千代と幼名を与えられました。
次期将軍が約束されている、そんな息子です。
中には時々、竹千代を名乗らなくても将軍になった人物はいます。
まず、第9代将軍 徳川家重 こちらは紀州藩から将軍になった、徳川吉宗(よしむね)のため、紀州藩に由来した名前を付けています。 そして10代将軍 徳川家治(いえはる)もまた違いました。 |
知保の方が産んだ男子は、正室 五十宮倫子の養子として育てられます。
名前も、家基(いえもと)と付けられ、次期将軍としての教育を受けます。
五十宮倫子は で亡くなり、家基は再び生母 知保の方の元で養育されます。
次期将軍として誰もが期待していたのですが、18歳の時に、突然腹痛に襲われそのまま亡くなってしまいました。
お知保は、田沼意次と、とどう関わる?
知保の方を、将軍 家治の側室に、と勧めたのはそもそも田沼意次(たぬまおきつぐ)でした。
それなら、知保の方は、田沼意次のバックアップを受けているのではないか?
知保の方、側室入りは田沼意次の推薦から?
知保の方を側室に進めた話は、田沼意次と大奥の有力者が、決めた、ということが伝えられています。
大奥の有力者が誰か、とまではわかっていませんが、その時、力があった者は、大奥筆頭であった松島(まつしま)、あるいはその次に筆頭となった高岳(たかおか)でした。
その二人のうちどちらか、でしょう。
知保の方も、大奥の中臈を務めていましたので、大奥内での権力はありました。
その権力は、田沼意次も利用したいと思っていたようです。その将校に田沼意次は、お知保の方にせっせと贈り物をしていました。
田沼意次は、政治を動かすには、大奥の力が欠かせないと思っていたからです。
こちらの事情については、田沼意次の記事をお読みください。
知保の方の息子の死は、田沼意次の陰謀?
知保の方には、徳川家基という、徳川家の後継が生まれましたが、わずか18歳で、亡くなりました、
狩りの最中の急な発病、そしてあっけなく亡くなったものですから、暗殺または毒殺の噂が立ちました。
家基はこれまで、元気であまり病気にかかる様子がありませんでしたから。
当時の世間の噂では、暗殺の犯人は田沼意次、というのです。
それに家基は、田沼政治を批判していた、というのですから、ますます疑いは深まります。
田沼意次は、自分の思う通りに政治を持っていきたい、と思って、知保の方を側室に推したのですが、どうも結果は希望するようにいっていなかった、
というのお疑惑に拍車をかけていたのではないかと思います。
もう一つの疑いとして、一橋治済(ひとつばしはるさだ)が自分の子供 家斉(いえなり)を将軍にしたかったから、という説があります。
が、現代に至るまで、その真相はわかっていません。
知保の方、将軍 家治の死も田沼の陰謀を疑う
将軍 徳川家治は、病気にかかり、1786年危篤に陥りました。
田沼意次は、名医として知られる町医者を紹介したのですが、家治の病状はもはや手の施しようのないところまで来て、その命は助かりませんでした。
でも、その頃、田沼意次は幕府の内部から、また民衆からも嫌われていて、徳川家治の死は、田沼意次の計画ではないか、と言われたほどでした。
2023年、よしながふみ原作、NHK男女逆転の「大奥」では、これは田沼意次に仕掛けられた濡れ衣だった、ということでしたので、
将軍暗殺については、田沼意次の犯行を証拠づける史実はありません。
でも、歩き出した陰謀説は止まりませんでした。
知保の方、田沼意次を恨む
知保の方は、息子が死んだ犯人を田沼意次を決めつけて、恨んでいました。
そして今また、将軍 家治までとなると、知保の方は、家治を死に導いた犯人を、田沼意次と思い込みます。
ここで田沼意次と知保の方は、完全に決裂していまいました。
真相が不明なのに、そんな決めつけは、と思うのですが、
ここでお知保の方は未亡人として、出家し、田沼意次とは会うことはもうありませんでした。
田沼意次が政治的に失脚した、大きな要因は、徳川家治 暗殺の嫌疑であり、失脚により政治体制は大きく変わり、江戸の街は風紀取り締まりが行われ、
「べらぼう」の主人公、蔦重たちは大きな罰を受けることになるのです。
知保の方が声を大きくして、田沼意次の罪状を告発したことは、まさに世の中を変えてしまった、そんな感じです。
お知保の生涯。
知保の方は、徳川将軍の後継となるような男子を産んだわけですが、知保の方自身が、家柄の高い娘だったのか、気になります。
旗本 津田信成(つだのぶしげ)の三女、身分はそれほど低くありません。
ただし 禄高は120石です。現代でいうと、年収600万円に相当しますからそんなに、裕福な家庭ではありません。
参考までに、知保の方と同時代の、平の侍の年収は100石、で役500万ぐらいに相当しますので、津田信成の年収は、決して多くありません。
津田信成という名前を調べてみると、戦国時代の織田信長(おだのぶなが)の一族に、この名前の武将が出てきますが、
この人物とは関係なく、信長の母方の従兄弟の子孫である、生駒(いこま)氏の子孫です。
生駒と言っても、織田信長の側室 生駒の方 とは関係ありません。
蓮光院となるお知保
お知保の方は、将軍 家治の死と共に出家し、蓮光院(れんこういん)となります。
江戸時代、将軍ならびに大名の妻は、夫の死後、仏門に入るのが慣わしでした。
すでに、自分の子供も失っていた、知保の方は、家治も亡くなり、寂しい思いをしていたことでしょう。
そういうこともあって、取り乱したのか、と思われます。
お知保の方の最後は?
蓮光院となった知保の方は、49歳でしたが、1791年に55歳の生涯を終えます。
死因については、特に記されていません。
江戸時代の女性の平均寿命は、28.6歳との統計が、神奈川県予防医学協会から出されています。
あまりにも短すぎるようですが、乳幼児の死亡率が多かったこと、反面、長寿もいた上での統計です。
そこから考えると、知保の方の55歳というのは、それほど短いわけではい、病気等の記録がないことから、不審な死ではなかったと推測されます。
おそらく、穏やかな死だったのでしょう。
お知保、「べらぼう」では?
歴史の中では、それほど取り沙汰される人物ではありませんが、「べらぼう」では、一味違うかもしれません。
「べらぼう」では、知保の方は、高梨臨さんにキャスティングされています。
まとめ
お知保の方(蓮光院)を考えてみると、大奥での悲しい女性と考えられます。
将軍様の後継者を産むために側室になった、これは人権が考えられていない、ということでしょう。
徳川家治がまだ、お知保の方を見そめた、というのならまだわかるのですが、そうではなかった、というのですから。
お知保の方は、自分の存在を消されたまま、大奥で過ごした、というところが哀れに思えます。
しかも生まれた子供まで、取り上げられ、悲しいことこの上です。
ある程度の名誉が、大奥の中で与えられてきた、ということだけがまだ救いになったのではないでしょうか?
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