安藤守就(あんどうもりなり)は織田信長の臣下ですが、その前は、斎藤家に仕えており、美濃三人衆としてその強さが知れ渡っていました。
織田家の家臣になって、娘は豊臣秀長の妻となると同時に、別の娘は。竹中半兵衛の妻でした。
織田家にとって有力な家臣である、と思えるのですが、織田信長からは嫌われていたところもあったようです。
有能そうな武将でも、戦国の過酷な時代を生き抜くのは大変でした。
ここでは、そんな勇猛な武将・安藤守就の人生の浮き沈みを、戦国時代の流れに沿って調べました。
安藤守就の娘は秀長の嫁?
「豊臣兄弟」では、安藤守就の娘の1人が、豊臣秀長の妻になります。
しかし史実には見つからない事項で、豊臣秀長の妻についての、「仮説の一つ」にすぎません。
「豊臣兄弟」での、豊臣秀長の妻の名は「慶」(ちか)です。
「豊臣兄弟」では、なぜ、このような設定となったのでしょう?
それは豊臣秀長が結婚したとされる、時代がカギとなってきます。
秀長の、活躍が史料に登場するのは1574年あたり。
それより10年ほど前の1565年には、秀長の兄・秀吉(藤吉郎)が美濃方面への侵攻が成功しつつある時期で、秀長の活躍も想像されます。
そうなると、豊臣秀長の妻は、ある程度の格式を持った家の娘であるのが相応しい、という織田信長、また兄の豊臣秀吉は考え始めるのは、当然でしょう。
秀長の妻に相応しいのは、新たに家臣団に加わったとはいえ、功績のあるを安藤守就の娘は、良いのではないか、という意見が上がってきます。
豊臣秀長の妻は、秀長の地位が上がってきたため、織田家の有力な家臣の娘が決められたのでは、とする説がありますが、その家臣の具体的な名前を示す文書は発見されていません。
「安藤守就の娘」説はありますが、そんなに有力な候補ではありません
「豊臣兄弟」では、豊臣秀長の妻を、安藤守就の娘、と持ってきたということは、豊臣秀長は織田家のため、安藤守就の娘と政略結婚しなければならない理由があった、
という設定が用意されているのでは、と私は思います。
安藤守就と豊臣秀長の関係は?
「豊臣兄弟」では、安藤守就と豊臣秀長は、舅と婿という関係です。
のちに、安藤守就は、織田信長から、家臣としての役職を解かれ追放されるのですが。
豊臣秀長の義理の父だったのなら、秀長も場合によっては罪に問われるほどの大事件と言えるですが?
秀長はそのまま、織田の家臣に残っているので、義理の父と息子はここで、意見の食い違いといった、確執が新たに生まれたのでは?と私は疑っていす。
竹中半兵衛が亡くなった後に、安藤守就を追い出したとしたら、豊臣秀長については、忖度してもらえなかったのでしょうか?
実際、1570年代後半〜1780年を見ていると、豊臣兄弟(秀吉・秀長)には、それほど活躍は目立っていません。
安藤守就の方が元々地位が高いため、豊臣兄弟を軽く見ていた、という「豊臣兄弟」の演出が、と私は期待しています。
安藤守就と竹中半兵衛との関係は?
安藤守就の娘の1人は、竹中半兵衛の妻でした。
この話は、「美濃国諸旧記」に見られるので事実であると言えます。
また、安藤守就・竹中半兵衛に、義理の親子関係あることを前提として作家の吉川英治は「新書太閤記」を書いています。
安藤守就は、豊臣秀長、竹中半兵衛の2人の舅というわけだったのです。
安藤守就が、稲葉山城乗っ取り計画に乗ったのは、竹中半兵衛が娘婿だったからです。
斎藤龍興に対する不満もあったことに加えて、娘婿の計画だから、乗ったのでしょう。
稲葉山城乗っ取り事件は、安藤守就と竹中半兵衛の絆を感じさせる出来事だと私は感じています。
安藤守就は、「美濃三人衆」の1人と呼ばれることだけあって、美濃の斎藤家では強いと呼ばれた人物です。
その安藤守就の娘と結婚した竹中半兵衛も、美濃にとっては、有能な人材です。
美濃にとって、重要な安藤守就を含む美濃三人衆と、竹中半兵衛という有能な部下がが織田信長のもとに行ってしまっては、美濃が織田信長の軍勢に負けるのは、当然ですね。
安藤守就、追放されたのはなぜ?
安藤守就は、1580年、織田信長から、裏切っている、と見られて追放されました。
裏切りは噂で、しかもかなり前の事件。
信長が、安藤守就のことがあまり好きでなかったのかもしれません。
安藤守就、信長の不安解消のため追放?
織田信長は、安藤守就を完全に信じ切っていたわけではなかったことが、その背景にあります。
安藤守就が織田信長を、怒らせた直接の理由は、守就の息子・安藤尚就(あんどうひさなり)が、武田勝頼(たけだかつより)に味方している、という噂が信長の耳に入ったからでした。
その話は、「当代記」に載せられています。
しかし、安藤尚就の裏切り事件はあくまでも噂で、武田勝頼側についた、という確かな情報はありません。
戦国時代は、武将は、自分の一族が存続できるためなら、主人を変えることは日常茶飯事でした。
ですから武将の雇用主の方も、いつ部下に裏切られるか油断できない状態なので、疑心暗鬼にもなります。
特に織田信長は、猜疑心が強い武将だったので、相手が裏切ってる、という疑いが少しでもあれば、その相手には追放という処罰を下します。
不安材料を、徹底的に自分の周りから排除する意味で、織田信長は、1580年に安藤守就親子を追放してしまうのでした。
しかも、安藤尚就が武田信玄に味方した噂は、1573年(天正元年)のことで、追放される1580年よりかなり前のことになります。
「今さらなんで?追放?」と、見てて私は思えてきますが、織田信長が、安藤久就の中に、増長してくる態度を見つけたのかもしれませんね。
安藤守就の追放は、竹中半兵衛の死後?
もう一つ、注目したいことは、竹中半兵衛の死です。半兵衛の死は1579年です。
安藤守就親子追放の1年前。竹中半兵衛の死に関係がある、という見方ができます。
1579年まで、安藤守就を織田信長の家臣にしておいたのは、竹中半兵衛への忖度だったのではないかと、私には考えられるのです。
織田信長は、竹中半兵衛を大事にしていましたので。
その、竹中半兵衛が1579年に亡くなったのだから、いつ裏切るともわからない安藤守就を追放してしまおう、と織田信長は考えた、
とすれば、タイミング的にピッタリ合います。
この説もあり、と私は思います。
安藤守就の最後の様子は?
織田信長から追放された安藤守就でしたが、復活戦をかけて再登場してきたのが、織田信長が本能寺で暗殺された後のことです。
安藤守就、自分の土地をとりもどしたい!
安藤守就は、信長に奪われた自分の領地・城を取り戻そうと、立ち上がります。
取り戻すために、豊臣秀吉の勢力につくのではなく、織田信長がいなくなったことで、世の中を信長以前の状態に戻すことを、目的としたのでした。
そこで、織田信長を討ち取った明智光秀の方に味方していました。
そんな安藤守就の心の動きは、現代では、yahooニュースにある歴史研究家たちが解説しています。(渡邊大門氏など)
「美濃国諸家系譜」、「稲葉家譜」、「濃陽諸士伝記」など、安藤守就の最後を書いた書物によると、安藤守就は、信長の死を『「天命」と思った』、とあります。
安藤守就、稲葉一鉄に敗れる!
しかし、復活は叶いませんでした。
元の、安藤守就の盟友たち『美濃三人衆』の1人、稲葉一鉄にさえぎらレました。
稲葉一鉄は、これから世の中が変わる、感じ取り、秀吉に味方していました。
安藤守就は、稲葉一鉄に追い詰められ、自害して人生を終えました。
安藤守就は織田信長の家臣になった?
安藤守就は、「豊臣兄弟」が始まったときは、斎藤家(斉藤龍興)の臣下で、美濃三人衆と言われていました。
安藤守就、斎藤家の家臣から…
安藤守就は、斎藤道三(さいとうどうさん)が反乱を起こし、美濃の主となった時から、斎藤家の家臣という経歴をスタートさせました。
織田信長との関わりは、濃姫(斎藤道三の娘)が織田信長の正室になったことから始まりました。(1554年あたり)
織田信長が、尾張の統一を手がけていたときで、信長から斎藤道三に援助を頼みに来た時に、安藤守就を、那古野城に派遣したのでした。
しかし、その後、斎藤道三とその息子・斎藤義龍(さいとうよしたつ)との間に、親子の確執が争いになった時には、安藤守就は、息子の義龍の方に味方し、
そのまま、義龍の息子・龍興にそのまま仕えていく流れになりました。
安藤守就、織田信長の元へ
安藤守就が、織田信長のところに加わったのは、1567年、信長の美濃への侵攻の時からです。
これは安藤守就が織田信長に寝返った、ということですが、そうなった理由は、美濃の斎藤家、それも当時の当主・斉藤龍興の力不足だった、というのが理由と私は思っています。
安藤守就は、斉藤龍興がえこひいきの激しい領主だったため、義興への信頼が揺らぎ始めました。
斉藤龍興も、安藤守就たちを煙たがるようになり、同時に、同じく斎藤家の家臣・竹中半兵衛のことも嫌うようになりました。
そこで、安藤守就たちと、竹中半兵衛は計画を立て、「稲葉山城乗っ取り」事件を起こします。
「稲葉山城乗っ取り事件」に関しては、こちらに書いてあります。
斎藤龍興追い落とし作戦も、結局は城を、斉藤龍興に返却します。
しかし、斉藤龍興と安藤守就の間の、溝は埋まらないままでした。
織田信長が美濃に攻め入ったのは、その後のことです。
安藤久就、織田信長のもとでの活躍
稲葉山城乗っ取り事件事件の後、1568年以降、安藤守就は、織田信長の元でいくつもの戦に参加します。
1568年、織田信長が京都に登る(上洛)時に、同行し、伊勢大河内城攻め、1570年には姉川の戦い、1571年比叡山攻め、織田信長の天下布武への道に貢献しました。
また、1571年に、安藤守就は長島の戦いで、かなりひどく負傷しましたが、それが織田信長に、武力が高い評価を受け、織田家の重臣の1人とまで、言われるようになりました。
安藤守就の北方城、戦死の地に?
北方城(きたがたじょう)は、安藤守就が、美濃の斎藤氏についていた時からの守就の先祖からの居城でした。
場所は岐阜県本巣郡北方町にありました。
1490年代に、安藤守就の先祖、伊賀太郎右衛門光就(いがたろうえもんみつなり)の頃に築城されました。
1490年代というと、室町時代中期で、ちょうど応仁の乱(おうにんのらん)の頃にあたります。
光就から数えて4代目が、伊賀太郎守就で、この時から安藤氏を名乗ります。
斎藤龍興の時代にも北方城を任され、さらに安藤守就が織田信長に従うようになっても、そのまま北方城の主でした。
しかし、安藤守就が、織田信長から追放されると、北方城も没収され、同じく美濃三人衆の1人だった、稲葉一鉄に与えられます。
本能寺の変で、織田信長の討死したのち、安藤守就は北方城を取り戻そうとして、この城のすぐ近くまで迫りますが、ここで稲葉一鉄と争い、自害で終わります。
自分が目指す城にまであと一歩とせまりながら、城に入流ことはかないませんでした。
その後、北方城は廃城となり、江戸時代には後地に陣屋が築かれ、現在では、史跡になってます。
まとめ
安藤守就のような、強そうで、しかも娘婿に、豊臣秀長・竹半兵衛のような有能な人材を身内に持っても、なお、織田信長に気に入られなかった例とはあるものなのですね。
でも考えてみると、安藤守就は、力任せの古いタイプの武将だったのでしょう。
だから、新しいやり方を取り入れようとする、織田信長の方針とは合わなかったのかもしれません。
その、相容れないものが、悲劇を生んだ実例なのではないでしょうか?

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