大河ドラマ「秀吉兄弟」に、大沢次郎左衛門(おおさわじろうざえもん)という武将が登場します。
実在の人物の可能性はかなり高いのですが、「豊臣兄弟」に見るように、人質をとる、出家が事実かどうかは、あいまいです。
巨漢で力持ち、という伝説や、軍記物に登場するの人物であることが、豊臣兄弟の活躍を目立たせ、いかにも戦国時代に彩りを加えるエピソードです。
そこで、大沢次郎左衛門という人物が、実在したか、その働きぶりはどうだったか、を徹底的に調べました。
大沢次郎左衛門、実在?
大沢次郎左衛門は、ほぼ実在といえます。
「ほぼ」というのは、、戦国時代当時史料では、大沢次郎左衛門を記したものが少ないからです。
大沢次郎左衛門について書かれたものは、江戸時代などの後の時代に書かれたものでみられています。
その主な史料は「寛永諸家系図伝」、「美濃雑事記」、「美濃国諸旧記」があります。
それらの史料には、『大沢』の名前とその系図が出ており、その内容が、ほとんど同じことから、大沢次郎左衛門は実在した、とされています。
史料の内容は
「大沢次郎左衛門は、斎藤家の家臣で、妻は斎藤道三(さいとうどうさん)の娘。のちには、豊臣秀吉・秀次に仕えた」
ということでした。
これくらいしか、記載がないので、のちの活躍ぶりは、軍記物語による脚色が多いのでしょうね。
大沢太郎左衛門、出家!?
武家には、敗北した時などに出家する、という覚悟を持ち合わせているのですが、斎藤次郎左衛門の場合、出家していない、という説が広く知られています。
大沢次郎左衛門、実は出家していなかった?
大沢太郎左衛門は、「豊臣兄弟」では出家していますが、史実には「出家した」という記述はありません。
大沢太郎左衛門の生涯を記しているのは、「寛永諸家系図伝」ですが、そこには
- 鵜沼城(うぬまじょう)の城主、織田信長に降伏を迫られ、従う。
- のちには、豊臣秀吉にも使えることになる。
- 晩年は、浪人になり、1688年、78歳で死亡。
ということが書かれており、「出家」した文字はどこにも見当たりません。
のちに豊臣秀吉に仕える、という史実があるなら、大沢次郎左衛門には出家している暇はなかったでしょう。
大沢次郎左衛門、出家話の出所は?
「豊臣兄弟」では、大沢次郎左衛門は出家の話で、終わったので、では「出家」の話はどこから来たのでしょうか?
「出家」が出てくるのは、「絵本太閤記」です。
それは江戸時代に書かれた豊臣秀吉に関する物語で、創作の内容が多いです。
その物語の意義は、
織田信長に立ち向かう、大沢次郎左衛門。織田信長と大沢次郎左衛門の間を取り持とうとする豊臣秀吉。
秀吉の作戦通り、降伏し、城を明け渡し、その責を感じて大沢次郎左衛門は出家する、という感動的な物語を作り上げるためだった、ということだと思います。
「豊臣兄弟」では、ちょっと太宰治の「走れメロス」的な感動と同時に、「人たらし秀吉」をイメージづけたエピソードと、私は思います。
大沢次郎左衛門、豊臣兄弟との人質交換は事実?
「豊臣兄弟」の感動話の回(2月15日放映)でしたが、鵜沼城開城の件に、秀吉が関わっていたかは不明なのです。
というのも、この時の豊臣秀吉(木下藤吉郎の時代)は、ほんの足軽で、そんな目下の人物の意見を、信長たちの大将クラスが、耳を貸すか?という疑問があります。
「信長公記」には、『宇留間城(鵜沼城のこと、信長の時代は宇留間と呼ばれていた)は信長の布陣に耐えられなくなり、降伏した』としか書かれていません。
鵜沼城の城主への交渉を藤吉郎がした、という話は、「太閤記」以降に登場するエピソードです。
「太閤記」から後の物語で、秀吉は大沢次郎左衛門を織田側に寝返らせるために、宇留間城に滞在した」という話も出てきます。
「太閤記」は、豊臣秀吉がいかに、人の心につけいり、味方につけることが上手な人物でと印象付けるための物語なので、脚色してあるかも知れません。
豊臣秀吉は、美濃攻め、宇留間城攻略の時にすでに、織田信長の下で支えていたので、宇留間城の作戦に、加わっていたことは十分にあることです。
大きな働きはした、とは想像できますが、本当に、大沢次郎左衛門を説得したか、という点には私は疑問あり、と思います。
| 「信長公記」
織田信長の側近、太田牛一が書いた織田信長の記録書で、信頼性が高い書物と評価されています。 内容は、1568年の織田信長が京都に上がった時から、1582年、本能寺の変までを記録している書物です。 |
大沢次郎左衛門、殺されそうになったのは事実?
「豊臣兄弟」で、織田信長が「大沢次郎左衛門を殺してしまえ!」と言っていますが、これも事実が疑われる話です。
この話は、「太閤記」が書かれて以来、伝わってきた話です。
「太閤記」は軍記物語で、特に秀吉の偉大さを盛った話なので、ここまで秀吉の心意気と作戦が実際にうまくいったかは分かりません。
しかし、織田信長という人物は、性格の激しいと伝えられている武将なので、あるいは、「殺してしまえ」と、本当に言ったという可能性は、捨てられません。
織田信長が「〜殺せ」と言わなかったとしても、大沢次郎左衛門を信じ切れておらず、秀吉が大沢を雇い入れた後、裏切りの可能性を感じ、追い出させたのでしょう。
大沢太郎左衛門、どうなった?
出家しなかった大沢次郎左衛門は、鵜沼城を明け渡した後、実際はどうなったでしょう?
木下藤吉郎に仕えます。藤吉郎の心意気に、大沢次郎左衛門は惚れ込んだのでしょうか?
しかし、大沢次郎左衛門の経歴、や体格の良さから、織田信長は、大沢次郎左衛門を警戒します。もしかしたら信長を裏切るのではないか、と。
そこで、木下藤吉郎は、織田信長には「そんなことはない」と言い、大沢次郎左衛門をいったん美濃に戻しました。
そこからの、ことが記録が切れていますが、秀吉は、大沢次郎左衛門を一時的に解雇したことになるようです。
次に大沢次郎左衛門が登場するのは、織田信長が本能寺で亡くなった後。ここで本格的に豊臣秀吉の家臣になります。
ついで、次の関白、秀吉の甥の豊臣秀次にも仕えます。
ついには、東軍について、関ヶ原の戦いにも参加し、最終的には徳川家康の臣下となります。
大沢太郎左衛門は巨漢?
大沢次郎左衛門は、非常に大きな人物だったということが「本朝武功正伝」とあります。
その書物によると、身長は高く現代の大きさでいうと220cmあり、力は34人力、と書かれています。
「本朝武功正伝」は、軍記物語なので、誇張が入っているとは思いますが、大沢次郎左衛門は他の人に威圧感を与えた、というのですから、ある程度の大男だったのではと推測します。
戦国時代の人、というと、そんなに大きくなかったのでは?と思われるかも知れませんが、戦国時代でも実際に背の高い人が、何人もいます。
代表格が、織田信長・お市兄妹、浅井長政(お市の最初の夫)などが長身でした。
武将達の身長についてはこちらをご参照ください。
「豊臣兄弟」では石つぶてが得意、という設定ですが、これは「豊臣兄弟」でしかみられない話です。
大男であった、相手に威圧感を与える、刀、槍など武器を持たなくても強そうな人物に見える、ところから、より大きく見せるため、「石つぶてが得意」としたのではないでしょうか。
大沢次郎左衛門の死因は?
織田信長に殺されるかと、視聴者をヒヤヒヤさせたが助かった大沢次郎左衛門の最後、死因はどうだったのでしょうか。
「寛永諸家系図伝」には、76歳で亡くなった、とあります。
鵜沼城開城事件の後、木下藤吉郎につかえ、一度離れ、また秀吉となった藤吉郎のところにもどり家臣となり、その後は豊臣秀次の元で仕えていました。
豊臣秀次は、その暴君ぶりが秀吉の反感をかったために、自害させられ、大沢次郎左衛門も当然失職。
そして放浪の旅に出ます。
最後は、相模国(現代の神奈川県)小田原の萬松院(ばんしょういん)で隠居生活を送り、そこで生涯を終えました。墓もそこにあります。
その墓は、かつては、徳川家康の長男・松平信康の首塚ではと言われていたのですが、調査した結果、大沢次郎左衛門の墓、という説が有力です。
大沢次郎左衛門の妻
「豊臣兄弟」では、大沢次郎左衛門の妻の役は、映美くららさんにキャスティングされていますが、映美くららさんは2026年「べらぼう」にも「大崎」という役で出演していました。
「べらぼう」では、悪役でしたが、今度は、心が豊かで、夫を大切にする大沢次郎左衛門の妻という、真逆の役をやられていたのは、面白いことでした。
SNSでは、「スピード転生」、「毒饅頭を食べて転生して良い人になった」とか書かれています。
大沢次郎左衛門の妻の名は「篠」(しの)。
斎藤道三の娘ですが、斎藤道三の娘というと、真っ先に思いつくのが、織田信長の妻になった、濃姫(のうひめ)、またの名前を帰蝶、あるいは帰蝶。
ですが、濃姫と篠の母親が同一かどうかは、伝えられていません。
斎藤道三には、側室が複数いたので、その中の誰か、であるかも知れません。
篠については、これまでドラマで登場することが少なかったせいか、もう1人の斎藤道三の娘、濃姫ほど、はっきりした物の言い方をする女性ではないように見えます。
そこから、濃姫とは、性格の違う女性に思えますし、また「豊臣兄弟」を見ると織田信長とその家臣があまり、篠を重く見るところがありません。
それに、大沢次郎左衛門の主人であるはずの、斉藤龍興が「妻を人質によこせ」と言ってくることから、篠の母親の身分はあまり高くない、ということではないかと、私は考えます。
「豊臣兄弟」の中では、篠は病弱のように描かれているので、視聴者は早々に亡くなって退場するのではないかと、考えられますが、早死にした、という記録はありません。
まとめ
大沢次郎左衛門は、ほぼ実在である、と言えます。
しかし、その活動については未だ謎のままです。
大沢次郎左衛門は、人質の事件を経験して、豊臣秀吉に心惹かれるところを感じたからこそ、豊臣秀吉の家臣になったのです。
その後は、秀吉の甥・秀次の死により、自分の居場所を失い放浪すると言った、まさに秀吉に左右される一生となりました。
それでも最後は徳川幕府のもとに身を寄せることができたのだから、ある程度世渡り上手と言えないこともないと、思いまし。

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