竹中半兵衛、結核が死因?病弱だった?他の病気では?三木攻めでどんな最期を?墓はどこに?

豊臣兄弟

豊臣秀吉の軍師ととなった、竹中半兵衛が「豊臣兄弟」に登場してきました。

登場後は織田信長、豊臣秀吉に貢献し、活躍しましたが、病気により、秀吉が天下人になる前になくなってしまいました。

その死因は、結核とも言われていますが、実際はどうだったのでしょう。

病床にありながらも、自分の死地を求めて戦を続ける中で、命を落としたシーンは感動的です。

ここでは、竹中半兵衛の死因について、徹底的に調べました。

竹中半兵衛は、結核が死因?

竹中半兵衛の死因は「胸の病」と言われています。まだ36歳で、秀吉が天下人になるのを見ずして死にました。

胸の病とは、現代では結核のことを指しますが、この病気については戦国時代当時、どう思われていたでしょう?

竹中半兵衛の死を書き記した書物は複数あります。しかしどの書物を見ても竹中半兵衛の病状についての記述はあっても、病名は書かれていません。

竹中半兵衛の死が書かれているのは、「黒田家譜」、「武功夜話」、「日本史」(ルイス・フロイス著)です。

「武功夜話」(別名「前野家文書」)には、三木城(兵庫県三木市)を包囲・攻撃の最中に死んだ、と書かれています。

竹中半兵衛が亡くなる前の、体調や症状を、後世の歴史専門家や、医者たちが分析したところ、結核に症状が当てはまるところから、「結核」と判断されました。

また、日本に関わらず、世界中で、近代に至るまでは、結核で命を落とす人が多かったということも、決め手の一つになっています。

結核という病気は、「結核菌」が体内に入り込むことが原因ですが、体力の弱い者がかかりやすいです。

竹中半兵衛も、身体つきが、華奢、ということから、かかりやすい人だったのではないか、と私は見ています。

まさに、美人薄明のイメージにピッタリ合う、ということもあり、結核説は「豊臣兄弟」の視聴者の心にも響くのでは?と私は思います。

竹中半兵衛は病弱?

竹中半兵衛は病弱だった、という記録はありますが、それがみられるのは江戸時代以降の軍記と呼ばれる読み物の中です。

それらによると、

  • 病弱で戦闘状態の中に長くいるのは無理
  • 前線に立たずに、後方で、作戦を立てている

ということですが、竹中半兵衛が、どのような病気であるかまで書かれていません。

江戸時代の軍記物は、大衆受けをねらった物語に仕上げられていますが、病気がちは本当だったかもしれない、と思わせるところでもあります。

竹中半兵衛もいつから病弱だったのかは、記録がありません。

ただ、若い頃から、竹中半兵衛は、「太閤記」や「武功夜話」に見るように、細く、色白という表現があるため、

美男 → 細身・色白 → 病弱、という図式が出来上がってしまっていたのではないかと私は考えます。

病弱な部分にスポットを当てるために、NHKの「豊臣兄弟」では、竹中半兵衛役を身体が弱いと見える設定にしています。

竹中半兵衛の、他の病気説は?

竹中半兵衛が、結核以外の病気の可能性はあります。

どんな病気かというと、「癌」も死因として有力な候補に上がってきます。

竹中半兵衛は、いろいろな戦場に言っているため、疲労気味だったことが考えられます。

疲労から、結核にかかることはもちろんのことですが、他の病気も広い混んでしまうのではないでしょうか?

過度の疲労から、癌を引き起こすことは実際にあります。

竹中半兵衛は、1579年、三木城の合戦の最中に急速に体調が悪化しました。

病をおしての戦争に参戦、も悪化の理由の一つですが、竹仲半兵衛の36歳という若さを考えると、

もし癌であったとしたら、若さゆえに、その進行は早いです。

肺癌であれば、これは当時の記録を見ただけでは、結核と区別がつきにくいです。

また疲労から肝臓が弱っていたとしたら、肝臓癌の疑いも出てきます。

戦国時代の世にとっては、結核も、癌も等しく人命を奪う怖い病気であったことだと私は思います。

竹中半兵衛の最期は?

この頃、竹中半兵衛の病状は相当悪くなっていたのみ関わらず、静養先の京都から戦場に駆けつけてきた、とあります。

伝説では、三木城にきた竹中半兵衛は顔色も悪く、それを見た秀吉たちは、非常に心配しました。

しかし、竹中半兵衛は「陣中で死ぬのは、本望だ」ということを言って、不敵にニヤリと笑う、

という状況が、司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」に書かれています。

最期は「戦で死ぬのは…」の名ゼリフを言ってからの数日後,陣が敷かれていた近くの民家で迎えました。

病状が悪化したのです。

「武功夜話」、「太閤記」などに、こうした竹中半兵衛の最期は書かれていますが、創作のイメージはあります。

しかし、ここに竹中半兵衛の存在感そのものが凝縮している、と私は感じました。

「太閤記」に書かれているエピソードでは、竹中半兵衛は、最後に豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉)は天下を取る、と予言して亡くなります。

死の時そばにいた、豊臣秀吉は、竹中半兵衛の遺骸に泣いて取りすがった、という伝説ですが、非常に感動的な、シーンではありますが、出来過ぎではないと私は思います。

後世には秀吉の偉業を取り上げる話がたくさんありますが、真実を書いているかどうかは不明です。

竹中半兵衛、三木城攻め

竹中半兵衛の命を奪った、三木攻め、それは一体どのような、ものだったのでしょうか?

竹中半兵衛は三木城(兵庫県三木市)を攻めている最中に、命を落としました。

三木城というと、1578年から、三木城城主別所長治(べっしょながはる)が織田信長に逆らったために、織田信長が秀吉に攻撃を指示した城です。

羽柴秀吉は、城を落とす作戦を立てたるよう、竹中半兵衛に命じました。

この時の竹中半兵衛は、すでに病気にかかって、体調も相当に悪くなっていたようです。

別所長治は、1年10ヶ月に及び、籠城していました。

それに対して、竹中半兵衛は、城を後世「三木の干し殺し」と呼ばれるエグい作戦を立てました。

それが兵糧攻め。つまり、城への食物などの補給を徹底的に断つ、でした。

現代の戦争では、非人道的と呼ばれ、責められますが、戦国時代では、勝つことが必須でした。

戦国時代は、戦争を少しでも、相手より優位に立つには手段を選ばない、ということもありました。

この場合、竹中半兵衛の病状を考えると、半兵衛は、自分が生きているうちに、自軍(羽柴秀吉)に勝利させたい、とはやる気持ちがあったのでは、と私は推測しています。

これは、竹中半兵衛の生涯を賭けた戦い、と私は思っています。

竹中半兵衛の墓は?

兵庫県三木市・平山観光ぶどう園のなかにあります。

もう一つあって、三木市平井山東南野山麓で、そこは、竹中半兵衛が詰めていた、本営の近く、と言われています。

「観光ぶどう園」というから、観光客も訪れることができそうです。

竹中半兵衛の墓には、もう一つあって、志染町安福田(こちらも三木市)の栄運寺の裏山です。

墓所へ向かう山道に「竹中半兵衛の墓」と書かれた案内板があります。

こちらには、墓跡の裏に「天正七年六月十三日」というなくなった日付と戒名が書かれています。

戦国時代の武将には「墓」がいくつも存在しますが、本当の墓は一つで、あとは供養塔なのですが、どれが本物の墓かわからなくなっていることがあります。

竹中半兵衛の場合は、「ぶどう園」にあるものが、最初からあったお墓のようです。

まとめ

竹中半兵衛の死因は一般的には「結核」と知られていましたが、詳しく調べてみると、戦国時代には、まだ「結核」という言葉がありませんでした。

一言「胸の病」で片付けられています。

ということは結核以外の可能性も十分考えられる余地があります。

病気が伝えられているものは、すべて、「軍記物」のような物語性の強いものです。

真実がミステリアスなため、より伝説性が高まるのでしょう。

それだからこそ、竹中半兵衛は、その死も含めて、英雄性をその人生から感じられるのだと、私は思いました。

 

 

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