荒木だし、美人。名前の意味?最後は?処刑の理由?子供の行方?夫との関係?茶壺より低く見られた?

豊臣兄弟

織田信長に逆らった武将・荒木村重(あらきむらしげ)の妻・だし

非常に美しい人だったと伝えられています。

そんな美女がなぜ処刑され首を刎ねられた?戦国時代の一大悲劇です。

ここでは、その荒木だし、、処刑された理由を、突き詰めてみました。

荒木だし、美人と評判?

「荒木だしが美人」だった、と書かれているのは、『信長公記』、『立入左京亮入道隆佐記』の中に見ることができます。

そこに書かれていることのほとんどは、荒木村重の居城だった有岡城の落城についてです。

『信長公記』には、「たし(だし)と申はきこえ有る美人」(だしは美人でよく知られた女性)とあり、

『立入左京亮入道隆佐記』には「一段美人にて」、「いまやうきひ(今楊貴妃)と名つけもうし候」(今の時代に生きる楊貴妃)とあります。

楊貴妃は中国の唐時代の絶世の美女のことであり、「だし」はその女性を思わせるほど美しいという意味です。

荒木は織田にとって敵ですが、二つの文書にその美人ぶりが書かれているということは、本当に美人だったのだろう、と私は思っています。

だしの年齢のことは『信長公記』には21歳、『立入左京亮入道隆佐記』では24歳、と少し記述が違いますが、これだと夫・荒木村重から20歳近く若い妻、ですね。

頃絵は死亡した時の年齢です。まさに若い盛り、というのが涙を誘います。

肖像画が残っていないのは残念です。

荒木だし、名前の意味

「だし」、面白い名前ですが、実は荒木村重の妻の名前なのではないのです。

戦国時代の身分の高い女性は、名前を呼ぶときにあまり本名を使わないのが習慣でした。

「だし」とは「出丸」(だし)という説が、一番有力です。

「出丸」とは、城の本丸を守るため本丸の外に突き出て作られた、当のような出城のことです。

攻撃のための出城を「丸」と呼ぶのは、「真田丸」(さなだまる)が、有名で皆さんの記憶に新しいかと思います。

荒木村重の妻は、その「出丸」に住んでいたから、「だし」と呼ばれるのです。

例を挙げてみれば、豊臣秀吉の側室・茶々は淀御殿に住んでいたから「淀殿」と呼ばれていた話は、よく知られています。

だしも自分の住まいの名前で、呼ばれることは戦国時代なら珍しいことではありませんでした。

「だし」の本名は、知られていないのが実情ですが、言い伝えでは「ちよほ」、「梶」(かじ)と、調べた学者もいますが、その史料はあまり確かなものではありません。

荒木だしの最後は?

荒木だしは、夫・荒木村重が1人逃亡したため、織田信長の命令で、処刑され最後を迎えます。

処刑は、首を刎ねられるで、それだけでも残酷さを感じるのですが、さらに人目をひくイベント風な処刑現場がつくられたというのは非常にショッキングです。

有岡城に残された、荒木だし、そして荒木一族とその妻子たちは、美しい格好をさせられ、まず大八車に縛り付けられ、京都の街中を引き回しにされました。

引き回しの末、六条河原まで連れて来られて、そこで処刑されました。

その際、河原に引き出される時、帯をきちっと締め直し、小袖の襟を整え、髪を上げて首を差し出した、首を刎ねられた、ということが書かれています。

一族の人たちの中には、磔にされたうえで、銃殺、刺殺という形で処刑されたものもいました。

荒木一族の処刑の様子は『信長公記』にみられますし、尼崎の地域史料にも書かれています。

美女が華やかに着飾って、残酷に処刑される、ということは、織田信長による、裏切り者への見せしめ以外の何ものでもない、という証拠です。

「美しく着飾った」と意味は、より多くの大衆の興味を引きつけようとしてやってに違いない。

民衆から富裕層、そして武将たちまで、美しいためにより一層、信長の残忍さに震え上がったことと私は思います。

それと同時に、荒木だしが、美しければ美しいほど、その夫の荒木村重が卑怯に見えるような、心理効果を狙った、ということを私は付け加えておきましょう。

荒木だし、処刑の理由は?

一言で言ってしまうと、荒木だしは、織田信長を裏切った夫・荒木村重のとばっちりを受けて処刑された、ということです。

荒木村重が織田信長の命令に逆らったことで、信長に城を攻められ、籠城をした挙句、1人(みじかな側近だけ連れて)城を脱出してしまった。

織田信長は、荒木村重に何度も、自分の城と息子の城を明け渡すよう命令したが、従わなかったため、村重の妻・だし、荒木の一族を処刑することに決めた、という次第です。

荒木だしの処刑に至るまでの、夫・荒木村重の動向を最初に追って見ましょう。

荒木だしの夫、織田信長を怒らせた!

では夫は何をやって織田信長を怒らせたかというと、織田信長の敵の石山本願寺と内通した、という噂が信長の耳に入ったからです。

織田信長は、自分(信長)を安心さるために、荒木村重に「荒木村重の母を(信長の元に)人質に出して、本人(荒木村重)は、安土城に、弁明に来るように」と、命令したのですが、

荒木村重は、それを聞かずに、自分の居城・有岡城に籠城してしまったのです。

怒った織田信長は、有岡城を包囲させます。

荒木村重は毛利家に援軍を頼んだのですが、援軍は来なく、荒木村重は孤立無縁です。

荒木だしの夫、1人で逃亡?

孤立状態になった、荒木村重(荒木だしの夫)は、少人数の家臣のみを連れて、城を夜に脱出し、息子のいた、尼崎城にまで逃げていきます。

織田信長は、荒木村重の脱出を知って、荒木に尼崎城ともう一つの荒木家が所有していた花隈城(はなくまじょう)を、明け渡せば、有岡城の妻子を助ける、と言ったのですが。

またまた、荒木村重は拒否。

そこで織田信長は、有岡城の、荒木だしと荒木家の一族を処刑、と決めたのでした。

荒木だしの、子供の行方?

荒木だしには、夫・荒木村重との間に子供がいました。

その子供を残して、荒木だしは死んだのですから、子供のことはすごく気がかりだったはずです。

荒木だし、息子を逃す

荒木だしが作った辞世の句の一つに、

「残しおくそのみどり子の心こそ 思ひやられてかなしかりけり」

(意味:残された幼子の心のことを考えれば考えるほど、悲しくなる)

と、読む人の涙を誘う句があります。

この子供の行方については、有岡城から、荒木だしたちが連れ出される時(処刑のために)、荒木だしが乳母に抱かせて城からこっそり逃した、とされています。

この息子は、荒木村重の末子であり、城にいた他の兄弟は(側室の子供達を含む)すべて、織田信長の命令で処刑されたり、戦死しています。

この息子については、「岩佐家譜」に残されています、「岩佐」とは、息子をついて逃げてくれた乳母の家系と見られています。

息子は、有岡城から出たのち、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)という、絵師となり、江戸時代初期に活躍しました。

乳母が息子を連れて城を出た時点で、織田信長の方は、どことなく気がついていたのではないか、と私は考えています。

さすがに、これほどの血生臭いイベントを、演出してしまった織田信長は、ちょっとやりすぎた、と感じたのかもしれません。

荒木だしの息子の将来は?

息子がなぜ命を奪われなかったのかという理由ははっきりしませんが城を出たあと、

織田信長の弟・織田信雄(おだのぶかつ)仕えていたことで大目に見られたのでは?と私は思っています。

その後は、武士の身分を捨てて、絵を学び、絵師となったことで、織田信長や秀吉たちに、親の仇を取る意思なし、と見られたのではないか、と思えます。

とはいえ、岩佐又兵衛は、幼い頃に母が処刑されたこと、これは又兵衛の、心にまた作風に大きく影響を与えていました。

だから、岩佐又兵衛は、『怨念の絵師』と呼ばれています。

そんな岩佐又兵衛の性格を表すような絵は、又兵衛が書いた「常盤御前」(源義経の母)の最期のの絵で、常盤御前が殺される瞬間を鮮明に描いているのです。

この絵が、常盤御前の姿と荒木だしの最後を重ね合わせた、絵と見ることができるからです。

岩佐又兵衛は織田信長に逆らった武士の息子、ということで徳川時代にはこの経歴が役に立ったのではないかと、私は思うところがあります。

というのも、徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁に行く時、嫁入り道具の一つとして、『初音の調度』と呼ばれる道具一式があり、

調度のデザインをまかされたという、名誉を受けたことです。

荒木だし、夫(荒木村重)との関係は?

荒木だしの夫・荒木村重は、妻を大事に思っていたのでしょうか?

置いて1人で有岡城から逃げていった、と考えると、もしかしたらあんまり妻を愛していなかったのかな?と考えてしまいます。

荒木だし、は夫との間に2人の子供を持った、ということで、お互い愛情はあった、と見ることはできます。

荒木だし、夫の愛情はあった?

荒木だしの、辞世の句の一つから、妻から夫を慕う心情がわかります。

荒木だしは、「霜がれに 残りて我は 八重むぐら 難波の浦の 底のみくずに」

(意味:残された私は霜枯れした八重葎のようです。私はこのまま難波(大阪)の海に沈み海の藻屑となってしまうでしょう)

対する、荒木村重の返歌は、「思ひきや あまのかけ橋 ふみならし 難波の花も 夢ならんとは」

(意味:天の架け橋を踏み鳴らすつもりで、難波(大阪)で頑張ったのだけれども、それ夢で終わってしまった)

「難波」で同じ言葉を使って、お互いに関連性を持たせている歌ですが、ここに夫から妻に対する、愛情が際立っている、とはいえないのですが。

村重は本当に妻・荒木だしをどの程度愛していたのか、というのが私には見えてきません。

妻・荒木だしの方は、自分を枯れた植物と表現することで、夫がいなくなって、すっかり生きる目的を失ってしまった本人、ということが見て取れます。

夫の方からは、妻の死を嘆くような心が痛むほどの返歌には、見えない、と私は思いました。

戦国時代の愛情表現?

夫から妻への愛情がよく見えない、というのは戦国時代の状況から、自分の気持ちを大きく表さない、ということだけだったのかもしれません。

戦国時代、処刑直前の妻の元に返歌を届けるのは、現実的でありません。

辞世の句というものは、死の間際に作る和歌ですが、実際はもっと以前に作っています。

武士もその家族も、万が一を考えて、心が乱れないうちに良い和歌を作っておくのです。

荒木だしの辞世の句は、有岡城が落城する前、12月あたりに読まれたのでは、とされています。

夫の荒木村重は、その句を見てからだから、荒木だしの死後に作ったのでしょうね。

荒木村重が妻・荒木だしの句に返歌を作ったということは、妻に対し愛情はあったのですね。

その愛情というもの、そんなに強い愛ではなかったのかも?と現代人の私たちには思えます。

それとも、妻に対する愛情を、誰もがわかるような言葉で表現するのは、武士としてふさわしくない、と荒木村重は思っていたのでしょうか。

荒木だしは、茶壺より愛されていなかった?

荒木村重は、有岡城を脱出した際、妻・だしではなく、有名な茶壺を持ち出そうとしていました。

茶壺の方が、妻・だしより価値があると考えたからでしょうか?

あるいは、ここで有岡城の大将である自分が逃れた方が、後々、戦力を集めて織田信長に攻撃をしかける方が得策と考えたからでしょうか?

それには、茶壺が必要だったのかもしれない、という考えが私の頭をよぎります。

というのは、戦国時代、茶道具は高級品であり、大名たちは茶道具集めをしていました。

実際、松永久秀(まつながひさひで)が所有していな「土蜘蛛の茶釜」は、織田信長も欲しがり、争いの原因にもなりました。

荒木だしが、夫と一緒に逃げることができなかった、茶壺を持ち出そうとしていた、という事実は、夫は戦いに勝つための戦略だったのでしょうが、

妻・だしにとっては見捨てられた、という絶望感だったのでは、と私には思われます。

それとも、戦国時代の女性は、このような見捨てられる事態を覚悟していたのでしょうか?

まとめ

荒木だしは戦国武将・荒木村重の妻で、「今の楊貴妃」と称された美女でした。

夫・村重が織田信長に逆らい、有岡城から単独脱出したため、だしは一族とともに捕らえられ、京都市中を引き回されたのち六条河原で処刑されたのは、信長の裏切りに対する見せしめでした。

処刑前にだしは我が子を乳母と密かに逃がし、辞世の句から子に対する、深い愛情が感じられます。

その子は後に絵師・岩佐又兵衛として活躍した。

村重は逃亡の際、妻より茶壺を優先したとされ、その薄情さがみられますが、

だしの辞世の句に返歌を送っており、そこからは強い愛情ではありませんが、確かに妻を愛していた、という証が読み取れます。

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