豊臣秀長は大和大納言となり、大和郡山城主に、と言う道を歩み始めます。
寺社の力が強かった大和になぜ武将が入ったのか。
筒井氏以前の大和の歴史、秀長による城と町の発展、当時の評判まで紹介します。
豊臣秀長の、人間性をここから読み取れるという、秀長にとっては大事な時期をたどります。
豊臣秀長、大和大納言になる!
豊臣秀長は1585年、大和大納言に任命されます。いえ正式には権大納言(ごんだいなごん)と言って、大納言の次の位です。
「権」とは一つしたの役職を指しています。
「大納言」、「権大納言」というのは、朝廷での役職の一つですが、1500年代において、武士が、「大納言」の地位につけることはまずありませんでした。
豊臣秀長は、武士ではありますが、実を言うと農民上がり。以前の時代なら全く考えられない昇進ぶりです。
大納言の地位は、律令制の制定で決められた時(701年)からずっと1000年以上続いている制度で、左大臣→右大臣→内大臣、に続く地位が大納言です。
もし現在の政府に当てはめるとすれば、国務大臣あたりになります。
しかし、律令制から見る、大納言の人数は二、三名と決められているから、戦国時代の大納言は現在の国務大臣よりもっと、権威のあるも地位ではないでしょうか。
秀長が「権」と言う次点の役しかもらえなかった理由は、大納言は定員制で、すでに定員に達していたから、「権」を与えたと言うのが有力な説です。
それに、「権」の位の人物の方が実質的に仕事に関わるようになっていたことがこの頃の習慣になっていました。
でも、豊臣秀長を「権」の位しか与えなかったのは、朝廷側に、豊臣を農民上がり、と低く見ていたのではないか?と私は疑っています。
豊臣秀次が大和大納言と言われるのは、朝廷から役職任命の時にもらった名前ではなく、大和を治める大納言、です。
権大納言であっても、「大納言」と言う方が言いやすさのせいか、「大和大納言」と言われているのでしょうね。
豊臣秀長、大和郡山へ!
豊臣秀長は、大和大納言となり、大和郡山の城主になり、1585年、大和郡山城に入城です。
同年(1585年)四国平定の(長宗我部元親との争い)戦功として、城が与えられました。
豊臣秀長は元々、紀伊、和泉を治めていたのですが、今回の手柄で、褒章として新たに大和が加わったのです。
大和郡山城を任されたのは、ただ戦の褒賞と言うだけではなく、四国攻めでの戦術の経験を買われた、と言うこともあります。
さらに豊臣秀吉は、自分の城の周りの守りを固いものにするという目的があり、それには信頼できる身内を使うのが一番、と考えていました。
この点が、織田信長とは違うところだと、私は考えています。
と言うのも、織田信長は、身内それも実の弟・織田信勝に裏切られています。
そんな信長を見てきた秀吉は、身内を信じられなくなりそう、と思うのですが、豊臣一門はがっちりスクラムを組んだような仲の良さ。
お互いに裏切ることなど、考えもしなかったのでしょう。
そう言うあたり、が豊臣秀吉が農民出身なために、一族で助け合わないとならないという考えを持っていたのだと、私は思いました。
2026年NHKの大河ドラマは「豊臣兄弟」ですが、このタイトルの裏には、豊臣兄弟の仲の良さを描く。
それと同時に、裏で織田兄弟(姉妹も含む)複雑さを、あぶりだす仕掛けになっていると私は感じました。
豊臣秀長が、大和城主になった理由?
それは秀吉は豊臣秀長からのバックアップを大いに期待していたからでした。
大和の地は、筒井氏が握りしめていることからわかるように、寺社の勢力が強く、豊臣秀吉も織田信長同様、寺社勢力を弱めることはできませんでした。
豊臣秀吉が、1585年、関白に任命されると同時に、国の再編を行い、これまでの統治者であった筒井定次を、伊賀国へと国替させます。
その後、豊臣秀長に大和国を与えました。
大和は大坂の裏手にはあたるほどの近く重要な地。
秀吉は自分のバックアップ拠点が必要だったので、それにはまず信頼できる、弟・豊臣秀長(この時はまだ、羽柴秀長)を配置するのが一番、と思い、秀長を大和に送り込んだのでした。
豊臣秀長、大和郡山での評判は?
豊臣秀長は、大和郡山で、嫌われもしましたし、人気もありました。
それは、元々大和に住っていた人たちから見ると、自分たちの権威が奪われたなら、嫌いだし、
反対に、自分たちの利益に働いてくれたと言う理由なら気に入る、と言うわけでした。
豊臣秀長が嫌われた?
豊臣秀長は、大和での活動の目的の一つは、神社仏閣の権限を削ぐ、と言うものだったから、当然仏教界や神社関係からは嫌われました。
寺には僧兵も多かったので、まず秀長は僧侶たちの武装解除を命じました。
寺院側にとっては、自分たちの特権を、豊臣秀長に奪われたような気分だったのでしょうね。
また豊臣秀次は、自分の城(大和郡山城)の建設の際、必要な城壁の石垣用の大きな石材を、寺院から大ぶりの石を持ち去っただけでなく。
仏塔、墓石、地蔵なども石材をして寺院から没収しました。
今でもお城の石垣に、お地蔵さんを嵌め込んだ、「逆さ地蔵」と言うものを見ることができます。
だから、当時の大和の人々からは、乱暴な、手段を選ばない、殿様、と見られていたようです。
そんな豊臣秀長の行動は、今日の私たちから見ても、罰当たり、に見えます。よく呪いが掛からなかったものだと、考えてしまいます。
豊臣秀長の人気なところ?
豊臣秀長は、寺社関係、豪族たちからは煙たがられましたが、町民たちからの人気はありました。
なにしろ町人たちの利益を守ってくれたからです。
豊臣秀長は、大和郡山市の町人(商家、職人)には、保護を与えています。
ある染物屋に対しては、独占的製作を認める特許状が出されており、それを示す朱印状が残されています。
他にも、豊臣秀長が町人に特権や、自治を許す文書が、秀長の菩提寺・春岳院にある「御朱印箱」残っているのを見ることができます。
豊臣秀長は大和郡山城の城下町「堺町」、「奈良町」、「今井町」は商人たちを呼び寄せて商業都市を作ったことが、「郡山惣町分日記」に書かれています。
町の名前は、それぞれの町民たちの出身地を表しています。
豊臣秀長、織田信長の影響が?
豊臣秀長は、かつての主君・織田信長(おだのぶなが)の影響を受けている、と思われるところは「箱本一三町」(はこもとじゅうさんまち)です。
これは、織田信長の「楽市楽座」をならったものです。
城下の13の街を、特権を与え商業地域とし、そこの町人に自治権を与え、税を無税にし、商業の発達を進めました。
豊臣秀長は、商業を活発にすることで、経済が潤い、金銭的に豊かになることで、軍事力を増強することができる、と考えていました。
経済から軍事への発想は、織田信長の政策であり、豊臣秀長は常に信長のやり方を見ていたわけですね。
秀長と大和郡山城のあゆみは?
豊臣秀長が、大和郡山の城主となったことで、兄・秀吉の天下取りがより近いものになってきたのです。
ではそれはなぜでしょう?
豊臣秀長、郡山城を大規模に整備!
大和郡山城は、近代都市の基礎となった、と歴史学、都市史・建築史、豊臣時代の政治史の研究から近年では、言われてます。
と言うのも、戦国時代までの城とは、集落のような中に、支配者の居城及び攻撃基点として立てられています。
戦国時代以前の城は、「山城」と言われる山に建てる城でした。こうした城は、守りやすく攻めにくい、と言う特徴がありました。浅井長政の小谷城が山城のいい例です。
それに対し、豊臣兄弟が目指したのは「城郭都市」と言って、城と城下町が一体化して要塞の役目を果たし、城の周りには堀が張り巡らせました。
城下町には、商人、職人たちが住まい、都市機能を作り出しています。
豊臣秀吉がまず、「大坂城下町」を作りついで、弟の秀長も「郡山城下町」を建てた、と仁木宏(大阪公立大学大学院教授)が、研究発表しています。
「豊臣兄弟」が城作りにまで影響している、これは「豊臣兄弟」と言うより、むしろ「城郭兄弟」?と言っていいかも、と私には思えます。
豊臣秀長、郡山城を立派にしたのは何のため?
1番の目的は、秀長の兄・秀吉の天下統一の足がかりを作るためでした。
それは豊臣秀長に、壮大な計画があったからです。
計画については、「多聞院日記」(奈良の興福寺の僧が書き残した日記)、「大和郡山日記」、
そして大和郡山の秀長の菩提寺・春岳院に伝わる春岳院文書からの「郡山惣町分日記」(こおりやまそうちょうぶにっき)に書かれています。
以上の史料から
- 大和郡山を、守りの基点とし、100万石を所持する一台拠点にする。
- 奈良の寺社勢力が台頭を防ぎ、郡山の方を、奈良・大和地方の政治の中心とする。
- 天下人・豊臣秀吉の弟である、豊臣秀長は日本のNo.2であることを示す。
豊臣秀長は、秀吉が日本の主導権を確実なものにするためには、大きな軍事拠点が必要と考えていました。
それには、大和郡山が、大坂からの距離を見てもちょうどよく、100万石を手にしたので、大きな軍事要塞を作るには、良い時期と豊臣秀長は見た、のです。
大和郡山は、奈良がすぐ近く、奈良には興福寺など勢力の大きい寺院がありました。
また、大和は豪族が多く、有力豪族同士の覇権争いも多い土地ですから、大きな城を建て、軍事力の拠点を作ることで、反対勢力を抑えるつもりがありました。
大和郡山は、秀吉の拠点・大阪城から近い、そこにまた天守閣や、威厳ある石垣を備えた大きな城を構えることで、豊臣の力を世間に見せつける。
そして、天下統一を狙う、というのが、豊臣秀長の筋書きとここで私たちは知ることになります。
豊臣秀長が入る前の、大和は?
大和は、元は寺社が強い町でした。
大和は、奈良県です。奈良は興福寺や春日大社といった、日本有数の寺社を抱える地方です。
この二つの寺、神社はとても強い勢力をもとていました。
土地も多く所有し、寺社の特権もしっかり利用して、門前の商工業をはじめとする経済を独占していました。
大和国の武士は、興福寺などの強大が寺院の「衆徒」たちが武装するところから始まり一大勢力となりました。
そこから有力な豪族が生まれ、絶えず勢力争いをしていました。
織田信長の時代に活躍した、筒井順慶(つついじゅんけい)はその1人です。
秀長が、大和国に入る前の、統治者は、筒井順慶の甥(順慶の養子になる)筒井定次(つついさだつぐ)でした。
豊臣秀長が、赴任してきたのは、このように大きな勢力が対立し合う、カオスを思わせる土地でした。
さあ、秀長の手腕はどのようなものなのか、「豊臣兄弟」の見どころになりますね。
まとめ
豊臣秀長は1585年、大和大納言となり、大和郡山城主に。
寺社の力が強かった大和を治めるため、秀吉が信頼できる弟を送り込んだのです。
寺院からは石垣用の石を没収して嫌われましたが、町人には特権を与え商業を発展させ、人気がありました。
商業に関しては、織田信長を見習った、と思われるところがあります。
城下町を整備し、大和郡山を100万石の拠点として発展させた秀長の手腕は、まさに「豊臣兄弟」ならぬ、「城郭兄弟」と呼びたくなるものでした。
コメント