ジョン王の性格と評判。失地王と呼ばれ。破門された理由とは。マグナカルタで有名に!

イギリスの王様にはほとんど、〜世とつきます。例えばヘンリー8世、エドワード1世、ジョージ4世という具合に。

しかしジョン王だけは、1世も2世もありません。ただのジョン王です。そしてジョン王以外誰も王位後継者にジョンと名前をつけることがありませんでした。

それほどまでに人気ない王様は性格に問題ありです。評判はどうだったのでしょう。

ジョン王には別名(あだ名です)失地王あるいは欠地王と呼ばれています。何故でしょうか?

さらに破門されました。中世では国の一大事です。

もう一つ有名な大事件があります。マグナカルタ。マグナカルタって一体何でしょう?

ジョン王の性格は?そして王としての評判はどうだった?

ジョン王は、1166年〜1216年を生きたイングランド王です。王に即位したのが1199年。王位についたのは33歳でした。

ジョン王は末っ子だっため、父親に甘やかされ結果として、自分の我を通した当然という人物に成長しました。

短絡的で軽率な性格でした。なんとしても王位につきたい欲求が強かったようです。父親に愛された自信があったのでしょうか。

それになんとなく兄リチャード1世との人気の差を、心の底では感じならがその兄に負けない、自分は兄よりも父親に愛されている・・・そんな自負があった様です。

末っ子で、ひたすら可愛がられていたらわがままにもなりますよね。もしかしたら甘やかしがジョン王本人をダメにしたかもしれません。今で言えば、甘やかしという名の虐待?甘やかされた結果、当然自ら努力をして何かを成し遂げようとしない、いやできない性格になってしまいました。

それにもかかわらず、自分は尊敬されるべきだ、俺は王の子だ。王になってからは俺は王だ、と人一倍主張しましたのでやっぱりあまり好かれていません。多分横暴もやらかしたのでしょう。

33歳になって王位について、本当なら分別ある年頃なのに、生来の甘やかされグセがしっかり身について、王者の威厳さが感じられない、ガッカリな王様になっていました。

ジョン王の兄リチャード1世の死亡後、リチャードとジョンの間の兄弟ジェフリー(この王子はもっと前に死亡)の息子アーサーを王位との声もあったのですが、アーサーはまだ12歳と幼く、リチャード1世自身ががジョンを次の王に、と指名していました。

ジョンが王位に就くことは決まっていましたが、フランス側はアーサーを王位にと望んでしました。子供の方がフランスの言いなりになりそうじゃないですか。

ジョンは自分の王位を脅かすかもしれないアーサーの存在を邪魔に思っていました。アーサーはジョン王に幽閉され、その後行方知らずとなりました。もしかしたらジョン王が暗殺を命じたのかもしれません。

ジョン王没後に、ある聖職者がジョン王の評判を書いた歴史書に「無能で、嘘つき、戦争では弱く、卑劣、さらに癇癪持ちの性格がある」と。いいとこナシです。

イングランドには何人か、暴君と呼ばれた王様がいました。リチャード3世やヘンリー8世がその暴君と言われた王たちでしたが、彼らにはなんらかの国のために行った政策、功績がありました。

しかし、このジョン王に至っては何ひとつありません。イングランド史上最低の王、という評判です。

ジョン王が、無能、無策だったためイングランドの大陸における所有地がことごとくフランスに奪われてしまいました。フランス側はもともとフランスのものだった土地を取り返した、という思いでしたが、当時のイングランド国民はさぞかし落胆したでしょう。

ジョン王の大失態ぶりから、今後イングランド王家の王位継承者になる王子にジョンと名付けることはありませんでした。次男、三男の名前ではありましたけどね。

ジョン王に関しては後世、ジョン王の汚名を晴らそうとする歴史愛好家、つまりジョン王ファンは現れていません。

同じシェイクスピアの悪役主人公リチャード3世は、今では支持者がいて本当はシェイクスピアに書かれたような悪人ではなかった・・・説が出ています、それでもジョン王を擁護する人はあまりいないですね。

イギリス人にも匙を投げられた王様・・・なのでしょうか?

ただし、ジョン王がいたから、「マグナカルタ」が成立し、何か一大事が起こると議会の召集が行われるようになりました。

ジョン王がいたから・・・というよりジョン王が横暴すぎたためなのですが。こんなに悪評だらけの王・・・他には思いつきません。

議会政治の黎明期を呼び起こしたきっかけとなった王、現代ではそういう良い意味で捉えてもいいかもしれません。

それならばジョン王も存在も意味がありますね。

ジョン王、失地王と呼ばれたわけ

ジョン王は、失地王または欠地王と呼ばれていました。なぜそう呼ばれたかはまず生まれを見て行くところから始めたいと思います。

父はプランタジネット朝の始祖ヘンリー2世、で母は中世の女傑アリエノール・ダキテーヌ。兄は国王でリチャード1世でした。ヘンリー2世、アリエノールの末子です。

夫婦は、子供達に土地(所領)を与えます。ところが末子に生まれた頃にはジョンに分け与える土地が残っていませんでした。子沢山というのも考えものです。

そこで欠地王、と愛称がつきました。英語ではJohn the Lackland。

英語からすると失地王と欠地王、どちらの訳もできますが、状況によりずいぶん変わってきます。

生まれた時に土地が無かったので欠地王、それに対して失地王というのは、土地を失う原因がジョン王自らの行動にあった場合の呼び名。

ジョンは末っ子ということで父親ヘンリー2世に溺愛されて育ちました。そして土地がないジョンを哀れんで、母親アリエノールがリチャードにやったフランス内アキテーヌを土地を王妃に無断で分け与えてしまいます。それが原因でヘンリーとアリエノールは不仲になりました。

王妃アリエノールはジョン王の兄であるリチャード1世を特に愛していましたので、これまた寵愛の息子の違いが夫婦喧嘩の原因になりますね。

欠地王と呼ばれていた同時はまだジョンを愛する父がまだ存命で、可愛い息子ジョンを、土地を持たないかわいそうな子という意味で呼んだ愛称でもありました。

でも、いつまでも「かわいそうな子」なんて可愛らしく呼ばれているほど、可愛い子ではなかったのですね。一言で言い切ってしまうと、おバカな息子。

欠地王から失地王に変わった時、それはジョン王が、王位を継いでから。次々とフランス側にあるイングランド領を、戦で失います。というよりフランスに取り返された、といったほうがいいです。

つまりイングランドが受け継いできた領土をジョン王の時代に失ってしまった、それで土地を失する原因となった王、失地王誕生です。

英語ではどちらもlacklandでも、日本語では失地と欠地の二つの訳語のおかげで、ジョン王に対する見方が深まります。日本語って、便利な言語ですね。

ジョン王、破門された理由は?破門されたらどうなるの?

12〜13世紀教皇権は強かった。「破門!」というのは教皇にとっての伝家の宝刀でした。ローマ教皇の逆鱗に触れて人が破門されます。

じゃあ一体ジョン王を何をやらかして、破門されることとなったのでしょう。

ジョン王はイングランド国内で最高に影響力を持つ司教、カンタベリー大司教の任命に際し、ローマ教皇が推薦する人物を拒否しました。

強硬派ヨーロッパすべての王国の司教任命権を自分が下すのは当然と思っていたわけですから、「反対された」と教皇はカンカンに怒ります。自分の権威が否定されているのですから。

そこで教皇から賜った言葉は「破門!」です。

破門とは、相手を「キリスト教からの追放、つまり信者で無くなること」を意味しました。そうなると日々の礼拝もできず、祭祀もできない、葬式もできないイコール神からの臨終の許しが得られない、そレほど深い意味を持ちます。

キリスト教中心に動いてきた、中世ヨーロッパではキリスト教を中心として動いていました。

その神との仲立ちをする役割にあるのが、ローマ教皇、すなわち「神の代理人」。もし教皇の意に逆らうことをしたら(あるいはご機嫌を損ねたら?)、たちまち破門を言い渡されます。

ジョン王は、イングランド国内で宗教活動が一切できなくなたことで、貴族、平民からくる不満に悩まされました。

さらに教皇からは、ジョン王がこんな生意気な態度を取るのなら、今後イングランドには一切助力しない、フランスとの諍いだってフランスの王に加担するぞ、と脅される始末。

では「破門」とは?破門されるとどうなるの?

破門された国王を持つ国は国内での宗教活動がきなくなります。毎日の礼拝、日曜の礼拝、懺悔の告白、そういった行事が禁止されます。

現代人にとって、宗教活動ができないなんてどうでもいいことですが、中世人にとっては地獄に放り込まれるぐらいにショッキングな出来事です。

神様の前で結婚式をあげることもできないのですから。神の祝福を受けられない結婚は結婚として認められない世の中でした。この期間に結婚を試みれば、すべて不義の関係になってしまいます。

もっとも、子供の誕生と、人生最後の遺体に聖油を塗る儀式、それを秘蹟というのですが、だけは破門であっても許されました。日本の村八分の風習とちょっと似ていますね。人間の誕生と死は免れないものだからなのでしょうね。

「村八分」と聞くとなんとなく現代の日本人にも理解できる感情ですね。

この時代のローマ教皇は、インノケンティウス3世です。この教皇に破門された国王が数名います。

結局ジョン王は、教皇に謝罪します。謝罪の方法として、イングランド全土を教皇に一旦献上。そして、新たに教皇より土地を賜る形となって、ジョン王に返されるという顛末でした。

それ以降はかってローマ教皇インノケンティウス3世はジョン王を擁護します。

しかしいくら、教皇権が強い、王の行動全て認める、という中世でも、イギリス国民にとっては釈然としません。

私ならば、王様ってだらしない・・・と幻滅したくなるような事件だと思いますが。

ジョン王が英国中から嫌われることたがあっても、その後は教皇はジョン王の味方になりました。教皇様も以外と義理がたい人物だったのですね。

ジョン王、マグナカルタを突きつけられる

マグナカルタ・・・世界史の教科書で聞き覚えのある用語ですね。では「マグナカルタ」ってなんだっけ・・・?なんですね。

「大憲章」と日本語では訳しますが、それだけではピンときません。

ジョン王が横暴すぎたために、貴族、聖職者が団結して提出した法案です。つまり、王様の権利をある程度制限し、貴族や教会、都市の権利を守らせる法律を王様に認めされた文書なのです。

その背景は度重なる戦争に起因しています。

12世紀、十字軍をはじめとしてヨーロッパでは国同士の抗争が頻繁に起こりました。イングランドとフランスも仲が悪い。世界的に見て隣り合う国というものは仲が悪いものです。

それ以外にも十字軍派遣もありました。

戦争にはとにかくお金がかかる。お金がかかるから税を徴収する。ジョン王は在位16年の間に10回以上フランスに出兵してます。ジョン王以前の国王に比べてかなり多いです。

とにかく軍資金が欲しかったジョン王は従来の国王が行っていたように、国王特権を発揮して課税した、しかも以前の国王時代よりも回数が多いため、臣下の不満を呼び、結束してジョン王に反発してきたのです。

ジョン王側は力で押さえつけようとしたのですが、ジョン王側が劣勢になってついに折れることとなり、反対派が持ち出してきた「マグナカルタ」を承認せざる終えませんでした。1215年のことでした。

「マグナカルタ」は、戦争などで課税が必要な場合は必ず、聖職者、貴族、騎士階級、市民階級の代表者を招集した議会での承認を必要とする、そんな内容でした。

もちろん議会での承認の前に、貴族、聖職者、都市それぞれの権利を守る法でもありました。

この時代、イングランド宮廷ではまだフランス語が公用語でした。しかし徐々に英語を話す貴族た出てきはしましたが、王様の取り巻きはフランス語を話す者が多かったでした。

そこでフランス語を話す貴族と英語を話す貴族との間で対立がありました。マグナカルタはその衝突の一例でした。

マグナカルタは国王の特権を一部制御した法の制定です。これまでの王権に対する新たな展開です。そこで、近代国家の発展に向かう重要な通過点となりました。

と言っても、ジョン王はこれを認めはしたものの、また反発。そして内戦が続くのですが・・・

ここで再び教皇インノケンティウス3世の登場です。教皇はマグナカルタは無効だ、こう宣言します。ジョン王破門の仲直りで、教皇がジョン王の味方になる、と言った通りの約束をここで果たしました。

今度はイングランド諸侯がフランス王に助力を仰ぎ、結局内乱は続行します。内乱はジョン王が1216年亡くなるまで続きました。

ラテン語ですが「マグナ」とは英語のマグニフィセント「非常に素晴らしい」の語源になった言葉ですし、「カルタ」はカードのこと。お正月に遊ぶカルタもここからきています。そこから推察するに、非常に大切な文書、そういう意味になるでしょうか。

マグナカルタ内容の実現はジョン王の息子がヘンリー3世以降に持ち越されます。

ジョン王の時代と歴史

ジョン王が生きた時代の歴史的背景を見て見ましょうか。

ちょうど第3回十字軍派遣がその時代背景にあります。

第3回十字軍にジョン王の兄リチャード1世が参加していました。

兄のリチャード1世はジョン王とは違い、いまでも人気のあるイングランド王の一人ですが、実を言うと戦に明け暮れて、イングランドに落ち着いていた時期は在位中そんなに長くはありません。

そしてそさほど善政を行った実績もありません。がなぜか人気があり獅子心王という別名で知られています。

リチャード1世が十字軍遠征で国を留守にしていたときに、ジョン王が執政として国の統治を任されていました。その時を描いたお話がロビン・フッドです。そこでもジョン王は大して能力もないのに、統治欲丸出しで出演しますがね。

リチャード1世も問題の多い王で、結局はフランスで死亡します。1199年にジョンが王位を次ぎました。もう一人の王位後継者出会ったかもしれない、アーサー王子暗殺の疑いあります。

ジョン王は1200年に、フランス貴族の娘、イザベラ・オブ・アングレームと結婚しました。実はジョン王は前妻を離婚しての再婚です。

イザベラは美しい女性だった様です。そればかりではなくアングレーム伯爵の領地目当てでもありました。

ですがイザベラ・オブ・アングレームには婚約者がいました。これではまるで略奪婚です。婚約者(フランスの方です)はフランス王に訴え、同じフランス人がコケにされたとして、戦争になります。

しかもフランス王はジョン王の甥のアーサーを支持していたからこれを戦争のもう一つの理由とします。しかしてアーサー行方不明、そして行方不明か死亡になるのですが真実はわかりません。

1200年初めころ、ジョン王はイザベラと結婚したのですが、ジョン王は30歳をすぎており、イザベラはまだ10代、ということで幼い姫をたぶらかした、などとも言われています。

前妻とジョン王との間に子供はいなかったから、後継者欲しさ、そしてフランス領土への欲望からの結婚では?という疑いが強いですね。もちろん美人であるに越したことはありませんけどね。

また前妻はイザベラ・オブ・グロスターというグロスター領に相続の権利を持つ女性だったので、ジョン王の土地欲しさの魂胆が見えてきます。

こんなところからも小狡い王と言われているのです。

ジョン王は1216年、マグナカルタの結末を見ないまま、1216年赤痢に罹って亡くなりました。

イザベラ・オブ・アングレームは1220年にフランスにもどり再婚します。相手はかつての自分の婚約者の息子ラ・マルシェ伯ユーグ10世(父親は9世紀)。でもユーグ10世の方がイザベラの年に近い!

まあ、土地問題、相続問題で折り合いがつけば、年の差に関係なく結婚する・・・当時の王族、貴族階級の結婚観だだったのでしょうか?

それにしても、これほどお世辞にも良いところがあるとは言えない、そのくせ悪人にもなりきれない王・・・珍しいです。そのくせしっかり歴史上の有名人になってしまっていますね。

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