ヘンリー5世は、シェイクスピア劇では稀代の英雄です。ヘンリー5世の活躍で、百年戦争では優位に立ったのですから
「ヘンリー4世」時代での放蕩ぶりを、全て捨て去り名王へ。
でも、ヘンリー5世は本当に名君だったのでしょうか?
歴史ではどのように語られているか、そして死因は?興味があります。
またヘンリー5世の家系図、現代のイギリス王室とどう繋がってくるのでしょうか?
「ヘンリー4世」時代に、のちのヘンリー5世の悪友フォルスタッフ。フォルスタッフにはモデルがいました。
父との確執などあったのでしょうか?弟もいると言います、弟との関係も円満なものだったんでしょうか?
アジンコートなどの戦いを経て結んだトロワ条約。条約の一つの項目はフランス王人の結婚でした。が他にも条約の取り決めがあります。
条約の結果迎えた王妃はフランス王女キャサリン。王妃とは仲睦まじかったのでしょうか?
ヘンリー5世を描いたドラマ「キング」があります。シェイクスピア作品とは一味違うと、言われています。その違い、見てみましょう。
ヘンリー5世の死因
そんなヘンリー5世の死因は、赤痢でした。中世という時代赤痢で命を落とす人は大勢いました。
赤痢は、悪い食べ物や水の摂取から起こる病気です。戦争での兵糧、水の確保が大切です。中世では現代とは違い満足な衛生環境は悪いです。
ヘンリー5世は、フランス遠征中に赤痢にかかり、それが死因となりました。摂取した飲料水に原因がありました。戦時中には将軍とはいえ、水を取る事は必要不可欠でした。
名君、と言われた王が赤痢で苦しむ姿は想像したくないですが、病魔の死神は人を選ばないと言います。これがヘンリー5世に課せられた運命だったのですね。
命日は8月31日。フランス方面だと8月末はかなり涼しくなっている季節ですが、それでも夏の暑さの中だと、まだまだ悪い病原菌の影響が考えられる時期です。
まだ34歳とはいえ、赤痢で体力の消耗は著しかったでしょう。おそらく、まだ生まれたばかりの王子のことを考えると、この世への執念が残るような死に方だったと思います。
遺骸は、ロンドンに持ち帰られました。
ヘンリー5世の墓は、ウェストミンスター寺院内にありますが、その上に教会のアーチのような天井作らせ、僧侶に礼拝をあげるように頼んだところも、あの世での王位に対し野心を持っていたのかもしれませんね。
その棺のすぐそばに、王妃キャサリンの墓所も設けられています。
ヘンリー5世、歴史から見て。
ヘンリー5世を一番有名にしたのはフランス遠征でのアジンコートの大勝利です。もちろんこれは歴史的にも証明されています。
しかしイギリス軍の数がフランス軍に比べて圧倒的に少なかった。何しろイギリス軍7000人、フランス軍20000人ですから。
演説で人びとの心を鷲掴みはいいですが、精神面だけでは限界があります。
ヘンリー5世のとった作戦が物を言いました。
敵軍の数を把握し。長い杭をたくさん用意させて、敵の騎馬隊が近づいたところで、杭を地面にうちこむ。自然と敵の馬は通りづらくなります。その動きが鈍ったところを矢で攻撃という算段です。
アジンコートの狭い地形もイギリス軍に味方となりました。両側が森に囲まれていましたので。その結果フランス軍は右往左往し無秩序状態となりました。
と、地形を利用した戦略を用いたヘンリー5世は、名将といえましょう。
このときイギリスは食料などを乗せた車両も当然持参してきていました。
情勢を好転せたイギリス軍は多くのフランス兵を捕虜にしました。その中には貴族など身分階級も大勢いました。通常の中世の戦争なら、捕虜から多くの身代金を取ってフランスに帰すところなのですが、人数が多すぎて、イギリス軍の軍事物資が奪われる恐れが出てきました。
その恐れを払拭するために、ヘンリー5世は捕虜を皆殺しにしました。これには敵からはもちろんのこと、味方からも批判が出ました。この殺害をヘンリー5世が躊躇わずに行ったことが、ヘンリー5世の持つ冷酷性をよく表しています。
過去にはそしてシェイクスピアにはイギリスを栄光に導いた王、と言われていますが、現在では好戦的で支配欲の野望を持つ面もあるのです。
イギリスの国力を上げたい時には必要な王の手段ではありました。そして第2次世界の時も、人気のある歴史的人物でした。
しかし時代とともに、こうした英雄たちの評価は変わってくるものです。残忍な行動と現代こそは思えても、まだ弱肉強食のような時代では断固とした措置を取らなければならない時もあるのでしょう。
ここから伝わってくるのはヘンリー5世は野心的な王だった・・・ということです。
戦争の結果、締結したトロワ条約では、アキテーヌ、ノルマンディー、アンジューをイギリスの領土にすると主張します。
フランスの王位をいずれはイギリス王が兼ねる。
といったところ、フランスの王位を虎視眈々たんと狙っていますね。
野心的で好戦的な王だったからこそ、当時は名王だったのでしょう。現代ならば戦争付きで辟易とする王、と言われてるのかもしれません。
ヘンリー5世の家系図
ヘンリー5世は、生まれから見ると王位につく可能性が少ない王でした。
家系図的に見て、ヘンリー5世が幼少期には彼の従兄弟リチャード2世が王位についていました。しかもリチャード2世は後継者として指名した人物もいて、ヘンリー4世、5世とは全く関係ない状況でした。ヘンリー親子はランカスター家という
それに幼かったヘンリー5世(ヘンリー王子)は宮廷に伺候してリチャード2世には可愛がられていたと言います。
しかしヘンリー5世の祖父(ジョン・オブ・ゴーント)とリチャード2世との間いに諍いが起き、祖父の死んだのちも続いていました。
その結果、ジョン・オブ・ゴーンとの息子ヘンリー4世がリチャード2世を廃位に追い込み王位につきます。そうすることで家系図の構造はヘンリー5世に受け継がれていくことになりました。これがランカスター朝です。
ヘンリー5世にしてみれば、子供の頃は将来は王位につくなど全く想像のつかないことだったのでした。
しかしヘンリー5世は即位後、自分の父が王位簒奪者だったことを気に病み、リチャード2世の遺体をウェストミンスター寺院に埋葬し直しています。
そして髪も極めて短くきり、贖罪の気持ちを示しています。肖像画を見るとものすごく短いおかっぱ頭みたいです。贖罪の意味なな全部剃って仕舞えばいいと思うのですが、西洋ではこの頃、坊さんでも完全に剃ってしまって人はいませんでした。(禿げた人は別ですが)
英語が、イギリスの公用語になったのはヘンリー5世の時代からでした。公文書はこの時代のものから英語になっていましたから。
王妃キャサリンとの間に男子がいました。ヘンリー6世です。が父親が死んだ時ヘンリー王子(ヘンリー6世)は生後2ヶ月で、イギリス王位に就く羽目になりました。
さらに、同年10月、母方の祖父シャルル6世が亡くなりましたので、トロワ条約によりフランス王位までも継承しました。
母、キャサリンはその後再婚して生まれた子供が将来プランタジネット朝を開く、と理解するのに時間がかかりそうな、家系図が描かれることとなりました。
ヘンリー4、5、6世と3代続いた後は、イギリスの家系図にこのランカスター朝の家系を見出すことはもはやできません。もちろん現在の英国王室にこの血は続いていません。
ヘンリー5世、父との対立そして弟との関係は
ヘンリー5世は王子時代から、父親ヘンリー4世を助けて、各地の反乱制圧に努めていました。
その中でだんだんと父が健康を害していくようになると、ヘンリー王子に政治的決断が任される時も出てくるようになりました。
ヘンリー5世は叔父の助力を必要とし、父の代理を務めるなどしていましたが、この叔父は父とあまり仲が良くありませんでした。そして、需要な会議にヘンリー4世と叔父を外すということもありました。
ヘンリー5世と父親の政策が異なっていたこともあります。
特に違っていた点は対外政策、フランスとの関係でした。
当時のフランスの王(シャルル6世)は精神の病に罹り政治上の執務が不可能になっていました。そのため国の主導権を取ろうとする二つの派閥ができていました。それをアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼んでしました。1400年代はフランスの統治は安定していませんでした。そこをイギリスにつけ込まれたのですね。
父親の方は元からイギリスが所有していた、アキテーヌ地方の保守することに固執して、ブルゴーニュ派にもアルマニャック派にも、少しずつの協力をしてどちらにも良い顔をしていました。
対する、ヘンリー5世の方はフランス全土に向けての野望を持ち、ブルゴーニュ派のみを重要視していました。
一挙に押していきたいヘンリー5世、なあなあで済ましておきたい父親。まさに親子対立の構図です。
シェイクスピアの「ヘンリー4世」時代に見られた、ヘンリー王子の放蕩はまさに父王への対立から生まれた創作だったのではないでしょうか。
ヘンリー5世には弟が3人いました。順にトマス、ジョン、ハンフリーという名です。
すぐ下の弟クラレンス公トマスは父ヘンリー4世とはうまくいっていました。叔父を大事な会議の評議員からはずし、トマスを代わりに入れました。
それが原因で、ヘンリー5世とトマスとの関係は一時険悪なものになりました。のちには和解しました。それ以降この4人の兄弟は比較的仲が良かったようです。
3人の弟は兄王の力となりました。そしてヘンリー5世の死後、息子のヘンリー6世の摂政になり、国を支えました。
兄弟が血で血を洗うような争いを繰り広げる中世においては、かなり仲が良かった4兄弟と言えますね。
「ヘンリー5世」の登場人物、フォルスタッフにはモデルがいた
「ヘンリー5世」のそれも「ヘンリー4世」の芝居から登場している人気の登場人物というとフォルスタッフです。
「ヘンリー5世」の芝居では、その名前だけしか登場しませんが、16世紀では「ヘンリー5世に」フォルスタッフが登場しない、と観客はがっかりしたそうです。
フォルスタッフは創作の登場人物と言われていますが、実はモデルがいたのです。
その名は、サー・ジョン・オールドカースル。(現代のアメリカ英語風の発音だとオールドキャッスルとなります)なお、フォルスタッフの名前はサー・ジョン・フォルスタッフ・・・名前だけだと全然似ていませんけどね。
出会いはヘンリー5世がまだ王太子時代のこと。ヘンリー王子の軍に従軍していたと見られます。
ウェールズ反乱の平定でヘンリー5世の信頼を得るようになりました。そして王子と友情も育むほどの仲になりました。
シェイクスピア劇の中で見られるような、馬鹿騒ぎ相手の友達ではなく、もっと真摯な戦友といった友人関係でした。
それにはヘンリー5世より30歳以上も歳が上だったので、ヘンリー5世にとってはむしろ師のような存在だったのかもしれません。
シェイクスピア劇の中でもフォルスタッフは、自分がハル王子(ヘンリー5世のこと)に俗世のことを手取り足取り教えた、と豪語する場面がありました。この俗世のこととはもちろん、飲む、打つ、買うの遊びのことすが。
実際のオールドカースルに対し、ヘンリー5世は多大な信頼をよせ、あるときは1軍隊の司令官を任せたほどでした。
しかし、オールドカースルの故郷ヘレフォードシャーでは異端派が広まり、オールドカースル自身も異端に染まっていきます。
中世キリスト教なら異端は当然許されるはずもなく、異端を信仰した人々は告発され、捉えられ、処罰されました。
即位したヘンリー5世は、オールドカースルが告発されたとき、なんとか友人のオールドカースルを救おうと、断罪できないでいました。
オールドカースルに改宗を勧めすもるものの、すべて拒否されました。そしてオールドカースルは、自分の宗教によって運命に従う覚悟をとると言いました。
ついに1417年、処刑されました。異端者の処刑は火刑でした。
オールドカースルのヘンリー5世との友情・・・という話がいつの間にかオールドカースルはヘンリー5世の飲み仲間、という話が一人歩きしはじめたようでした。
それに目をつけたのシェイクスピア。シェイクスピア独特の創作力で、人気者の登場人物ができあがったのでした。
「ヘンリー4世」を書き上げたばかりの頃は、その名も”オールドカースル”とそのままつけていました。が残っていたオールドカースルの身内からクレームが来たので、”フォルスタッフ”という名前に変えたそうです。
フォルスタッフとはモデルの人物とは全く違う、登場人物。話を聞いてもこれがモデル・・・とはとても思えません。しかも遊び仲間での悪友なんて・・・想像もつきません。
しかも劇の中で王となったヘンリー5世は、フォルスタッフが会いに来た時、自分はこのようなものは知らぬ、と言い切って見捨ててしまいます。
その後フォルスタッフは失意のもとに死亡するのですが、死ぬシーンは出てこなくて、他の登場人物が「死んでしまった・・」と、いわばナレ死の感じの退場でした。見ている方も寂しさを感じます。
ヘンリー5世は、このシーン、すごく冷酷な表情で宣告のようにいいます。この芝居を見る私たちは、この冷酷さの陰に何か思いがあるのか?と考えながら見るのです。そこに結論はありません。これは自分たちが、答えを探さなければならないシーンなのだ、と思えるのです。
ヘンリー5世とトロワ条約
シェイクスピアの芝居ではによるとアジンコートの戦いの後、早々にイギリスとフランスの間で条約が結ばれたような場面設定ですが、実は1420年5月と戦いから4年半後のことです。
ヘンリー5世の結婚も取り決めがあったから、その一連の流れで芝居に書くのが都合良かったのでしょう。
会談場所はフランス側、トロワ、パ南東約100キロに位置する町、で行われました。
アジンコートの戦いで大勝利したヘンリー5世は強気に出られたのだと思います。イギリス側に非常に有利な講和条約となりました。
アジンコートの戦い後、イギリスはフランスに一気に攻勢をかけます。ノルマンディ、ルーアンと次々平定して、パリに迫る勢いでした。
ここで後にシャルル7世となる王太子の抵抗にあいますが、結局イギリス側が有利になったところで、結ばれた講和条約がトロワ条約です。
会談場所はフランス側、トロワ、パリ南東約100キロに位置する町、をとってトロワ条約です。
条約では
フランス王太子は王位継承権を失う。
フランス王国そのものを持参金とする、王女キャサリンとヘンリー5世との結婚。
ヘンリー5世とキャサリンとの間に生まれた男子を次のフランス国王とする。
以上3つを骨子としてトロワ条約が結ばれました。
フランス王国そのものは現国王、シャルル6世没後ですが、手始めにアキテーヌ、ノルマンディー、アンジューをイギリスの領土とする。
アキテーヌを欲しがったのは、12世紀にイギリスに嫁いできた王妃の持参金だったことに加えて、ヘンリー5世はワインが好きだったらしい・・・という噂も。
ヘンリー5世の王妃キャサリン
ヘンリー5世は30歳位まで独身でしたが、縁談はもちろんありました。
ブルゴーニュ公の姫君との婚姻という話もありましたが、フランス王位にターゲットを定めていたヘンリー5世はフランス王女を希望していました。
そして王妃になったキャサリン・オブ・ヴァロワはリチャード2世の王妃だったイザベラ・オブ・ヴァロワの妹です。
ですからフランスは本当はキャサリンをイギリス王に嫁に行かせるのを渋っていました。
というのもイザベラの夫だったリチャード2世は王位を追われて惨めな死に方をし、王妃のイザベラはそれでイギリスを追われる羽目になったのですから。
しかもその首謀者がヘンリー5世の父親、ヘンリー4世でしたから、フランスとしては可愛い娘をいじめ殺されるのではと懸念したのではないかと思います。
ということはリチャード2世の時代からヘンリー5世まで、そんなに時が経っていなかったということなのですね。
13年しか経っていないのですから・・・話の流れ具合ではすでに20年以上は経っている感覚なのですけれど。
トロワ条約の取り決めとはいえ、結婚してからは、お互い仲が良くすぐに後継者も生まれます。
しかし、幸せはここまで・・・・子供が生まれた翌年に再びフランスの戦場に赴いたヘンリー5世は急死します。
ヘンリー5世が亡くなった時、キャサリン王妃はまだ20歳そこそこ。女性としてはこれからではありませんか・・・・
キャサリンは赤子で王位に就いたヘンリー6世を補佐します。ですが補佐は一時的なもので、その後は実権は取らずに隠遁生活を送ります。
ですが、イギリスの不幸はここから始まります。
いくら摂政がついても、幼い王であるということは外国からはどうしても下に見られます。たちまちフランスに反撃されます。
フランス人たちは、条約の取り決めと言っても、ほんの赤子に国を支配されるのは我慢ならなかったのです。
100年戦争にケリがついても、今度はイギリス国内から騒音が生まれます。イギリスの王位継承問題です。ついにこれが薔薇戦争に発展していきました。
周囲は王太后キャサリンに男性が近づくことを警戒していました。王位継承について複雑な関係が生まれるのを恐れてです。
しかし・・・・・秘書官とやはり、恋に落ちて秘密裏に結婚します。いくら中世人の寿命が今日より短いと言っても、20歳での未亡人は若すぎます。当然恋もします。
そして子供が生まれるのですが、その子供が将来のイギリスに大きく影響します。
そんなキャサリンも36歳で一生を終えます。
キャサリンのお墓はウェストミンスター寺院にあり、夫ヘンリー5世の向かいに棺が安置されています。
ヘンリー5世のドラマ「キング」とは
ヘンリー5世の映画はこれまでもいくつかありました。古くはローレンス・オリビエのもの。ケネス・ブラナーの映画も有名です。
最近ではシェイクピアの薔薇戦争一連を描いた「ホロウクラウン」というシリーズ映画もあります。しかしどれもシェイクスピアの芝居で描いた映画です。
ところがこの「キング」は一味違います。「ヘンリー4世」1部、2部、「ヘンリー5世」をベースに、ヘンリー5世の生涯を描きいた長編ドラマです。
シェイクスピア劇との驚くべきところの違いは、フォルスタッフの扱いなのです。
むしろ、モデルに近いような役どころになっています。
ヘンリー5世に請われて参謀となり、国王を戦場で助ける。そしてヘンリー5世を導いていく役割を果たしています。
またシェイクスピアの場合、めちゃくちゃ喋る人物だったのが、このドラマではむしろ寡黙な人物となっています。
大酒飲みのところは同じらしい。
ヘンリー5世の父親が病床にあるときも、早くいくほうが良いとアドバイスくれたのもフォルスタッフでした。
ヘンリー5世本人にしても、シェイクスピア劇では、イギリスの稀に見る輝ける時代を作った王、というイメージで描かれているのですが、「キング」の中ではむしろ戦争の中で冷たい心を持ちつつある王の心の中を描き出しているようなドラマです。
フランスとの戦争に勝利してもこのヘンリー5世は笑顔を見せない・・・王という人の頂点に立った地位にいる人物が、もっとも孤独な人である・・・そのような思いを視聴者に抱かせます。
新たな解釈のシェイクスピアの登場です。今後このような作品が増えていくかもしれません。
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