2025年9月28日からNHKで始まるドラマ、「ばけばけ」ちょっと怪談ぽく見えますが、怪談話のドラマではありません。
主人公は小泉セツをモデルにした、松野トキ。
モデルがいるのか、どんな人か、何をする人でしょうか?
外国人と結婚しすのですが、当時は反対されたはずでし。
これから、半年間、ドラマが続くのですが、松野トキの人生、生き方、調べてみました。
松野トキ、モデルは誰?
モデルは、小泉セツ、という女性です。
のちに、アイルランド人作家、ラフカディオ・ハーンと結婚します。
セツ、という名前ですが、セツさん本人は、節子 という名前の方が気に入っていた、と言います。
島根県松江市での話です。
ドラマの中に、よくしじみ汁が出てきますが、松江ある宍道湖(しんじこ)の名産で、宍道湖を印象付けるために、ドラマの中では、よく食べられているのでしょう。
ドラマの制作側では、ドラマ内で、家族の絆を現る表現の一つとして、宍道湖産のしじみ汁を使っている、とありました。
高石あかり さんがキャスティングされています。
松野トキ(小泉セツ)、生い立ちは?
1868年 出雲松江藩に生まれた、士族生まれの女性です。
士族、というと江戸時代は武士の身分、出雲松江藩の家臣、小泉家です。
松野トキ、維新後の武家の家に生まれて
松野トキ こと 小泉セツは、6人兄弟の次女に生まれ、生後七日で、小泉家の親戚 稲垣家に養子に出されました。
生まれた年、1868年というと、年号は慶応、とはいっていますが、1967年に徳川家から、朝廷への大政奉還がありました。
明治維新以降は、士族の家は、地位を失い、武士の給料に当たる家禄もなくなり、生活に困るようになります。
なにしろ、6人兄妹というのなら、生活のために、養子に出すことも仕方のない状況だったのでしょう。
「ばけばけ」の中では、「小泉」が「松野」に置き換えられたのではなく、養子先「稲垣」の苗字が松野となっています。
では、セツの生まれた姓はというと、「雨清水」(うしみず)と言います。
生後七日で養子に出されたのなら、トキは生家のことなんか全く覚えていないでしょう。
ドラマの中でも、生家の方に行っても、トキは特に生まれた家、という捉え方はしてないようでした。
子供の頃から、本を読むのが好きで、物語も大好きで、勉強も得意で成績は良かったのですが、家が貧しくなってしまったので、進学は実現しませんでした。
松野トキ、養子先での扱いは?
小泉サキ こと 松野トキの生まれた家 小泉家は松江藩の中でも比較的地位の高い家柄でした。
養子先の稲垣家の方が、格式が低かったのです。
ですから、稲垣家では、トキのことを、大切にし「お嬢」と呼んでいました。
「お嬢の、望もことは叶えてやりたい」、と祖父 稲垣万右衛門(いながきまんえもん、「ばけばけ」では松野勘右衛門、まつのかんえもん)などは、言っていました。
お嬢様 のことですが、「お嬢」というと今では、ヤクザの家のような気がしますが、元々は丁寧な言い方だったのです。
しかしどんなに可愛がってやりたくても、松野家も家計が苦しい家でした。
松野トキ、一度結婚する?
松野トキのモデルである、小泉セツは、レフカダ・ヘブンことラフカディオ・ハーンと結婚する前に一度結婚しています。
しかし、婿は、稲垣家と合わずに、離婚となります。
松野トキ(小泉セツ)の結婚
養子に行った稲垣家で、娘 セツ(ドラマではトキ)に彼らと同じ士族の、前田為二(まえだためじ)を婿に迎えました。
ドラマ「ばけばけ」の中では、山根銀次郎(やまねぎんじろう)という名前で登場します。
小泉セツ(松野トキ)、18歳の頃です。
家名存続のために、血縁者の娘を養女に迎え婿をとる、という形式は、旧家でよくあることです。
1890年に、正式に離婚となりますが、そのとき、小泉セツは22歳で、なんと、夫が家を飛び出してから離婚まで、3年もかかっています。
松野トキ(小泉セツ)、離婚の理由
小泉セツと、夫の 前田為二は決して仲が悪かったのではありません。
稲垣の家と前田為二とうまく行かなかったからです。
稲垣の家の方が、態度が大きかったのが原因で、嫁いびりならぬ、婿いびりでした。
稲垣は上級武士、対する前田は足軽の出身だったので、婿を下に見ていたのでしょう。
明治時代に入ったのに、まだまだ支配者階級の武士であったことを、引きずっていた稲垣家です。
たまりかねて、婿は家を飛び出し東京まで逃げ、セツは為二に戻るよう説得に行くますが、それでもダメでした。
明治になってもまだ、身分の意識を変えることができなかった、旧士族の悲劇だと思います。
夫が逃げて、セツが夫を連れ戻しに行くものの帰ってこなかった、というエピソードは「ばけばけ」にも現れますので、乞うご期待!
松野トキ(小泉セツ)、は出戻り娘?
稲垣家では、小泉セツの夫を、失踪として役所に届け、その上で、セツを実家の籍に戻しました。
あくまでも書類の上では、小泉セツが夫に逃げられた女性、と思わせないための配慮でした。
この辺りのエピソードから、小泉セツは多い兄弟のうちの厄介者、ではなく、稲垣の家、小泉の家両方から大事に思われていた、ということが窺われます。
それでも、出戻り、ということはどうしても周りからはわかってしまいますね。
幕末〜明治という移り行く、二つの時代の間で、生活の糧を求めながらも、武家の誇りを捨てきれない、彼らの思いが、現れている一場面だと思います。
松野トキ と レフカダ・ヘブンとの出会いは?
松野トキ こと 小泉セツは、いよいよ、2番目の夫となる レフカダ・ヘブンに出会うのですが。
レフカダ・ヘブンのモデルは 作家 ラフカディオ・ハーンです。
レフカダ・ヘブンは、島根県立尋常小学校で英語教師をしていました。
ヘブンは、富田旅館というところに下宿します。「ばけばけ」では「花田旅館」という名前です。
旅館の女将が、外人先生(ヘブン先生)の身の回りの世話をする女中を探すところに、松野トキがきた、という話です。
当時の日本では、婦女子が、男性の身の回りの世話をするなんてとんでもない、という風潮で、しかも外国人、となるとますます世間からは白い目で見られそうです。
ハーン(ヘブン)先生の、世話係もなかなか見つからなかったのですが、松野トキの家の家計が苦しいこと、異人先生が務める学校から提示された給金がたくさんだった、
ということで、小泉セツ’(松野トキ)は、旅館で、住み込みの女中を引き受けることになりました。
明治時代だと、悪い噂が立つ恐れのある仕事を引き受けてしまうなんて、決断力を持つ女性が小泉セツ(松野トキ)なのです、さすが朝ドラの主人公!
松野トキは、ドラマの主人公だから、思い切った行動を取るのはわかるのです。
が、モデルだった、小泉セツも、このように型破りな行動に出るのは、新しいものを求める新しい時代の人だったのでしょうね。
明治時代と英語教育
ここで一つ、明治時代と英語教育について触れておきましょう。 江戸時代末期、日本はペリー来航によって、鎖国から開国へと踏み切ります。 開国により、海外との意思疎通に英語が必要なってきます。 江戸時代は日本で勉強されていた外国語は、オランダ語でしたが、今や、アメリカ・イギリストの付き合いが主流になっていました。。 福沢諭吉も英語教育の必要性を述べ、明治政府は国の仕組みを西洋風にしようと、本格的に英語の導入を目指していました。 ラフカディオ・ハーンは明治23年に、島根に赴任します。 |
松野トキ(小泉セツ)の性格は?
松野トキのモデルとなった、小泉セツの性格を、松野トキにも当てはめて見ましょう。
「ばけばけ」では、セツの性格が、写されていると思います。
セツの性格を見ていると、非常に人に尽くす性格に見えます。
松野トキ(小泉セツ)の少女時代
小泉セツは、子供の頃からお話好きの少女で、それは大人になっても変わりませんでした。
稲垣家で小泉セツの養母になった人は、出雲大社の神官の家系でしたので、子供の頃から、セツは出雲の神の話を、何度も耳にしていました。
ちょっとオカルトめいた話もあったのだと思います。
小泉セツはちょっと夢見がちな、少女時代を送ったのではないでしょうか?
お話好きは、勉強好きにもつながります。成績の良い子供でした。
松野トキ(小泉セツ)、親孝行?
養父 稲垣金十郎(ドラマでは、松野司之介)の家は事業を立てていたのですが、失敗し、借金を抱え込みます。
小泉セツは小学校4年生でしたが、金銭上の問題で、学校に通うことができなくなり、家事をして家を助けます。
家事以外にも、裁縫、はたおりで仕事をして、少しではありますが、お金を稼いで家計のたしにしていました。
小泉セツは離婚後、実家の父 小泉湊(こいずみみなと、「ばけばけ」の雨清水傳)の営む、はたおりの会社で働いていました。
しかし、こちらの会社も倒産する有様です。
仕方なく、小泉セツは、英語教師 ラフカディオ・ハーンことドラマのレフカダ・ヘブンのもとで働くのですが。
ここで初めて、小泉セツは、宿屋で働き始めるのです。
周りから、「異人のもとに…」なんて、白い目で見られても頑張り続ける、という親孝行な面を見せています。
松野トキ(小泉セツ)の「ヘルン言葉」
松野ときは、レフカダ・ヘブンとは共通の言葉「ヘルン言葉」を使ってコミュニケーションしていました。
「ヘルン」とは、ハーン(Hearn)という発音が「ヘルン」と聞こえたからでしょう。
松野トキは英語を話せなかったし、レフカダ・ヘブンさんも日本語が得意ではありませんでしたから。
現代の私たちが知っていることは、レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)が日本の怪談話に興味を持ち、松野トキ(小泉セツ)から、話してもらったのを、書き留めた、とあります。
では、どうやったかというと、2人の間には、「ヘルン言葉」(または「ヘルンさん言葉」)と呼ばれた、お互いにしか通じない、独特な日本語ベースの言葉で、お互い話を通じさせていました。
どんな言葉かというと、レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)は耳で聞いた日本語を、その文法を無視して、英語の言葉をそのまま日本語にした、というものでした。
例えば、小泉セツ(松野トキ)が、ラフカディオ・ハーン(レフカダ・ヘブン)への手紙に
「パパサマ アナタ シンセツ ママニ マイニチ カワイノ テガミ ヤリマス」
とありますが、こういう意味です。
「パパ様 アナタは親切にも、ママにも可愛い手紙をくださいます」と。
パパ様は、ハーンのこと、ママとは、セツのことです。
英語の単語だけを直訳して、並べたような言葉ですね。でも直訳よりも、もう少し日本語の文法に配慮していますね。
こういう日本語の使い方をすれば、英語の文章が早く読めるようになる、と思いました。
松野トキ(小泉セツ)の結婚
1896年 松野トキ(小泉セツ)は28歳、ついにレフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)と結婚します。
ここで素晴らしいのは、夫 レフカダ・ヘブン(ラフかディオ・ハーン)は日本に帰化したことです。
ラフカディオ・ハーンは小泉八雲(こいずみやくも)という日本名になりましたが、「ばけばけ」ではまだ明かされていません。
松野トキ、こと小泉セツは、出会った時から、レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)に惹かれた、と言われています。
レフカダ・ヘブンにとって、日本は全く知らない土地で、自分が頼りとする人はいない、言葉も堪能とは言えない。
そんな中で、一生懸命自分の世話をしてくれて、言葉がわからないながらも一生懸命、話をしてくれた、松野トキは非常にヘブンにとって、心の拠り所となる人物でした。
そんな2人の様子は、なるべくして惹かれあって愛を育んだ関係、といえます。
結婚するのも、当然の結果だった、と思います。
松野トキ、夫 レフカダ・ヘブンと死別
松野トキ(小泉セツ) と夫 レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)は最後は、東京 西大久保に住まいを構えることとなりました。
西大久保に住むようになった2年後、1904年 ヘブンは、胸の痛みを覚え、それが原因で死に至りました。
その症状を考えると、狭心症でしょう。
ヘブン 54歳 松野トキ 36歳でした。
小泉セツの著書の中では、八雲(ハーン)は苦しんだ様子がなく、まるで微笑んでいるように亡くなった というようなことが書いてありました。
その著書は、ハーンの没後10年ほどして、小泉セツは、夫との想い出を「思ひ出の記」として書き、出版されています。
西大久保の家には、松野トキ(小泉セツ)だけでなく、松野(小泉)の親戚も一緒に住んでいたため、ヘブン(ハーン)は、その一族も支えるつもりで、金銭を蓄えていました。
そんなことも、松野トキの支えとなったようです。
松野トキ(小泉セツ)の死因?
動脈硬化からの脳溢血、と言われています。
当時の診療記録などありませんので、断言はできませんが、命日 1932年2月18日の前から、たびたび頭痛に悩まされていることが、わかっています。
60歳を過ぎる頃から、時々倒れており、それが動脈硬化だったようです。
最後は、西大久保の自宅で、親友そして、孫たちが介護され、彼らに囲まれた穏やかな死を迎えました。
64歳でした。
苦しまず、大切な人たちに見守られての理想的な死、だったと思えます。
小泉セツもラフカディオ・ハーンも第2次世界大戦の前に亡くなっているので、お互いの国が争いあう、という不幸な時代を見なかったのが幸せ、といえます。
墓地は、雑司ヶ谷霊園で、夫 レフカダヘブン(ラフかディ・ハーン)と共に眠っています。
松野トキ(小泉セツ)とレフカダ・ヘブン(ハーン)の子供は?
2人の間の子供は合計 4人です。男3人と女1人。
次男の巌(いわお)だけが、母 セツが養子に行った先の稲垣姓を名乗っており、あとの3人は小泉姓です。
4人の子供たちの誰1人として、父の跡をつぐ小説家にはなりませんでしたが、長男 一雄(かずお)が、少しだけ文章を書いています。
まとめ
松野トキ(小泉セツ) と レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)の物語は美しい恋愛物語でもあります。
松野トキのモデル 小泉セツは近代化ば進みつつある日本で、画期的な生き方をした、といえます。
英語もよく通じなかった時代に、そして日本語もよく理解されなかった時代に、なんとか自分たちの力だけで、お互いの意思そつうを行った、2人の努力はどれほどであったでしょうか。
苦労を苦労とも思われないのが、朝ドラの面白さですが、今度は、どのような生き生きとした主人公たちの姿が見られるか、楽しみです。
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