滝沢瑣吉(曲亭馬琴)、山東京伝・蔦重との出会い。「べらぼう」キャスト?性格は?作風は?妻 お百。

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺

「べらぼう」時代の、大作家、曲亭馬琴が登場します。

山東京伝、蔦重と関係を作り上げ、有名になっていきます。

「べらぼう」ではどんな役者がキャスティングされるのでしょう。

あまり性格は良くない人に見えますが、作品の人気は現代でも衰え知らずです。

ここでは、滝沢馬琴の魅力の秘密を調べてみました。

滝沢瑣吉、山東京伝に出会って

若い頃は、フラフラと放蕩生活を送っていた、滝沢瑣吉(たきざわさきち)でしたが、

若い時に、山東京伝の本を読み、目からウロコが落ちたような感動を覚えました。

滝沢瑣吉は、当時は24歳で浪人の身の上でしたが、山東京伝のもとに弟子入りを頼みました。

樽酒を持って頼みに行った、ということです。

山東京伝は、滝沢瑣吉に、才能があるとみて、1790年、に弟子入りを許し、滝沢馬琴は文学の修行に励みます。

1791年、滝沢瑣吉は黄表紙本を書いてデビューを果たします。

その時のペンネームは、京伝門人大栄山人(きょうじんもんでんもんじんだいえいさんじん)でした。

この頃に、滝沢瑣吉は、武士の身分を捨てて、完全に町人なった、と言われています。

同年 山東京伝は、手鎖の刑を受け、戯作を書くのをやめていました。

すると、滝沢瑣吉が、山東京伝の代作をするようになりました。これってゴーストライター?

物書きとしての才能は、この頃から始まったようです。

滝沢瑣吉、蔦重との出会いが、出世への道?

山東京伝の元で、文章を書いていた噂が、蔦屋重三郎に伝わってきたのでしょう。

今度は蔦屋重三郎に、は腕を見込まれ、1792年には、蔦屋重三郎の店「耕書堂」で、使用人として雇われました。

滝沢瑣吉、使用人の仕事が嫌い?

滝沢馬琴は、作家として名を売りたかったはずなのですが、本屋の店員として雇われた気持ち、と言うのはどんなものだったのでしょう?

元々武士の生まれだった、滝沢瑣吉は人に使われる環境が嫌で、使用人としての働きは、イマイチでした。

本屋勤めとは滝沢瑣吉にとって、たくさんの本を目にする機会があって、自分の目が肥えて、創作活動に向けて良い刺激を得るだけの、場所でした。

「耕書堂」で、滝沢瑣吉は使用人として働きながら(実際はほとんど仕事ほどにしない)、戯作のことだけは、真剣に学びました。

そんな真面目に仕事をしようとしない、滝沢瑣吉を蔦重は持て余していたのではないでしょうか。

そんな、滝沢瑣吉を、蔦重はよく店に置いておいたな、と思いますが、瑣吉の文章を書く才能に気がついていたのでしょう。

1796年には、滝沢瑣吉は、耕書堂から「高尾千字文」(たかおせんじもん)という本を出しました。

なお、「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)も、「耕書堂」で勤めていたから、この店は作家になるための登竜門だったみたいです。

滝沢瑣吉から、曲亭馬琴へ

滝沢瑣吉がいつ、曲亭馬琴に名前を変えたのか、正確な記録はありませんが、

執筆活動を始めたあたりから、「曲亭馬琴」をペンネームとして使い始めるようになったのでは?と言われています。

曲亭馬琴は、本を書いて、原稿料をもらう制度「潤筆」(じゅんひつ)という制度を、山東京伝と確立しました。

原稿料というものをもらい、筆一本で食べていこうとした、プロの物書きの誕生です。

1807年〜1811年にかけて出版された「椿説弓張月」では、もう曲亭馬琴を名乗っていたようです。

曲亭馬琴は、蔦重の死後に…

年代的にみて、曲亭馬琴の名前を使い始めたのは、おそらくfでの晩年、あるいは、蔦重の死後だったことが、考えられます。

曲亭馬琴の代表作 「南総里見八犬伝」は、蔦重の亡き後、28年間にもわたって仕上げた作品でした。

書き始めたは1814年から、蔦重は1797年没 なので、その書き始めの頃にすでに蔦重はいなかったのですね。

蔦重がその完成を見たら、どうなっていたでしょうね。

蔦重のいた時代には、このような冒険小説というジャンルはまだ生まれていなかったのですから、新しい時代の始まり、にfではワクワクしたことでしょう。

滝沢瑣吉、「べらぼう」でのキャストは?

2025年9月中頃に新たなキャストが、発表され、その中に、滝沢瑣吉が、津田健次郎さん、と発表されました。

津田健次郎さんは、俳優だけでなく声優も務めており、つい最近はNHKの朝ドラ「あんぱん」にも出演されていました。

大河ドラマは、初めての出演です。

津田健次郎さんは、

「大河ドラマに初めて出演させて頂く事になり、とても光栄です。瑣吉という個性の強い役を演じさせて頂く事に、江戸の偉人達と交わって物語を紡いでいく事にワクワクしております。先ずは瑣吉を、掘り下げ、広げ、魅力的な人物に立ち上げられるように頭と体を回転させていこうと思います。王道を大切にしながら、脇にも逸れ、行ったり来たり七転八倒しながら『べらぼう』の世界を楽しみたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します」

と、意気込みを述べておられます。

「べらぼう」では、滝沢瑣吉を雇い入れた蔦重が 瑣吉には才能があるか他人と競わせて見ようと、勝川春朗 こと、のちの葛飾北斎と、一緒に作品を作らせます。

「べらぼう」では、津田健次郎さんだけでなく、声優で名を挙げている方も2、3名出演しています。

井上芳雄さんの十返舎一九、島本須美さんの「たか」役があります。たか は耕書堂の女中です。

制作側は、声優を「べらぼう」で使う理由は、「江戸の言葉を江戸人らしく、しかも聞きよく話せる人を人選」した結果だ、といっています。

そう考えると、声優というのはまさにうってつけですね。

曲亭馬琴の性格は?

曲亭馬琴は、頑固、変わり者といった、あまり明るさを感じさせない性格が挙げられています。

その性格は、曲亭馬琴 本人が晩年に書いた「馬琴書簡集」の中に、書き写された手紙の文章には激しい性格、他人との間の摩擦もあった、ことが書かれています。

他にも「馬琴日記」などがあり、やはり、滝沢馬琴の内面を書き表しています。

曲亭馬琴の性格は、頑固?

今日、一般的に知られている滝沢馬琴の性格は、頑固者、偏屈で嫌われ者、です。

滝沢馬琴と同年代の文化人たちからは、「性格は癖が強く、交友関係は少ない。近寄りにくい偏屈もの」と言われています。

曲亭馬琴の性格、後世の小説から見ると?

その性格は、曲亭馬琴の息子の妻 路(みち)のことを書いた小説、西条奈加 作の「曲亭の家」に書かれています。

その内容によると、義理の父 馬琴は厳格な人で自分中心の考え方で、それに相手が合わせないと、激しく怒る。

男尊女卑が激しい、使用人たちも長くは続かないほどの怒りっぽさ、とありました。

江戸時代を考えてみれば、男尊女卑の家庭とは珍しくないようですが、それでも 路が我慢できなかった家だった、ということが想像されます。

滝沢瑣吉の性格、山東京伝から見ると?

山東京伝 本人ではなく、京伝の弟 山東京山(山東京山)からは、「恩知らず」と言われるほどです。

山東京伝の方は、おっとりとしている性格からそれほどにも思っていない様子でした。

滝沢馬琴は、自分なりの作品論を持っており、かつての師匠 山東京伝に議論を仕掛ける場面もありましたが、それを、山東京山は面白く思っていません。

山東京伝は、滝沢馬琴を自分の家に置いてやり、のちに、馬琴の家が洪水で流されてしまった時に、家に置いてやったり、とよくしてやってのに、偉そうにしている。

その様子を見て、山東京山は、滝沢馬琴を厚かましいヤツ、と思っていたに違いありません。

それにしても、滝沢馬琴は、山東京伝や、蔦重といった世間に影響力のある人たちと関わり合いになれた、ということが幸運でした。

曲亭馬琴、気難しくなった原因は?

滝沢馬琴が、怒りっぽい性格になったのは、その生まれのせいもあると思われます。

滝沢瑣吉、武家の家に生まれて

滝沢瑣吉は、下級武士の生まれで、しかも五男でした。上の2人は幼くして死んでいたため、三男のような位置にいました。

名前は、倉蔵(くらぞう)

父は松平家に仕えていましたが、下級武士であるため、禄高(武士の給料のようなもの)も低いものでした。

ちょっと「べらぼう」にすでに出ている、小田新之助のような身の上でしょうか。

幼い頃は勉学好きでしたが、その時からカッとなりやすい性格だったことが伝えられています。

父は滝沢馬琴が9歳ごろの時に亡くなり、家督を継ぎ、主君の松平家の孫の相手役となりますが、長続きしません。

その孫は身体が丈夫でない上に横暴なところが、瑣吉には我慢できなかったのです。

滝沢瑣吉、家を出る

我慢できなくなった、滝沢馬琴はついに、家を飛び出し、兄の力で、なんとか、別の武家の家に使えることになったのですが。

またしても飛び出し、今度こそ自由を手にします。

ある時は、俳人となり、ある時は医術を学んだり、と全く自由に振る舞っていました。

自由そうに見えていましたが、のちの研究家たちの調査によると、滝沢馬琴は武家に生まれたというプライドから、一つところに落ち着くことができなかった、というのです。

滝沢馬琴は元々、短気な性格をもちあわせていたのですが、その育ち方により一層、苛立ちやすい性格が育っていった、のです。

曲的馬琴の作風は?

滝沢馬琴といえば、誰もが頭に浮かべる作品は「南総里見八犬伝」で、その作品は現代でも人気がありますが、全体的に、滝沢馬琴の作風はどのようなものだったでしょうか?

書く物語の特徴としては、正義が悪に打ち勝つ、勧善懲悪が主題です。

悪が滅びるまでには、さまざまな伏線を用意し、物語に盛り上がり、メリハリをつけます。

滝沢馬琴は、文章力がある作家のため、文章そのものを読ませる物語本を得意としていました。

特にその特徴が現れているのが、有名な「南総里見八犬伝」です。

滝沢馬琴が「南総里見〜」を書き始めた頃は、もっと娯楽性の高い、黄表紙本風に物語が書かれていましたが、書くほどに物語に深みが出てきました。

登場人物一人一人にドラマがあるところなどは、非常に緻密な創作といえますね。

登場人物たちは、物語の中で、旅を進めその途中ごとに、問題点を解決していくので、読んでいく方も、区切りがついて、飽きずに読むことができます。

現在の人気漫画「ドラゴンボール」にも似ているところが見られますね。

「南総里見八犬伝」の成立や、特徴などについては、こちらの記事に詳しく書きました。

当時の他の作家たちと違うところは、自分で挿絵を描くことはせずに、絵師に任せていました。

しかし、描かないというのではなく、構図は自分で決めて絵を描く人に指示をしていました。

現代の漫画家の絵コンテみたいなものでしょうか?

滝沢馬琴は、最初は、読みやすい 黄表紙本を書いていましたが、登場人物・背景を文章で描き出していける、物語本に、移っていきました。

曲亭馬琴の妻

滝沢馬琴の妻は、「お百」(おひゃく)、歴史上や、馬琴ファンには悪妻と思われています。

1793年に結婚しました。

「馬琴の嫁」と言う『郡ようこ』の小説がりますが、曲亭馬琴の長男の嫁、「路」(みち)を指しています。

1793年なら、馬琴の名前はまだ微妙で、滝沢瑣吉から曲亭馬琴への過渡期です。

滝沢馬琴の妻、家つき娘「お百」

一方、妻 お百が、滝沢馬琴と結婚したのは、打算的な意味がありました。

お百は、出戻りであったし、自分の生家 履き物屋には店を継いでくれる、男性が必要、

相手は家もどうなるかわからない武士だし、作家としても売れないし、ちょうどいい、と思ったのでしょう。

でも、お百さんの希望とは違い、ついには、滝沢馬琴は、作家になってしまいました。

なってしまったものは仕方ない、と言うことで、お百は、夫 滝沢馬琴を支えます。

曲亭馬琴の小説が売れ始めるのは、この頃、32歳をすぎた頃からです。

ようやく自分の筆の力で食べていくことができるようになりました。

それでも、原稿料はまだまだ低い。

夫 曲亭馬琴は、規則正しくスケジュールを決めて作品を描く人物だったので、お百は夫のライフスタイルに合わせて、コツコツと家事をしていました。

それは、妻というより、お手伝いさんのような生活ぶりでした。

子供も生まれていますから、決してお手伝いさんの生活ではなかった、と思いますが。

内助の功、と言えば、美談ですが、そうやってずっと尽くしてきた、ことに不満を感じなかったのでしょうか?

滝沢馬琴の妻 お百にライバルが?

やはり、鬱屈した気持ちは出てきました。その相手が息子の嫁です。

息子の嫁 路(みち)は、曲亭馬琴が、視力を失った時、馬琴の小説を口述筆記で書いたのです。

口述筆記する時、滝沢馬琴と路の間が親密に見えすぎて、お百は嫉妬した、と言うことが、「群ようこ」の小説に書かれています。

しかも、路さんの方が美人で有名だったのです。

お百は、滝沢馬琴とお路が、一緒にいることに怒りを覚えます。

路については、また、馬琴が失明した時のことも、こちらの記事で触れていますので、合わせてご覧ください。

曲亭馬琴の妻 お百 悪妻のレッテル!

そして、夫に向かって「私を取るか、嫁を取るか?」

「もし嫁を取るなら、私は家を飛び出ます」、「井戸に飛び込んで死にます」とわめき散らしました。

このエピソードがのちに伝えられて、お百は、悪妻と言う評判が立っているのです。

そうは言ったものの、お百は、家を飛び出しも、井戸に身を投げもしないで、このままの状態での生活を続け、78歳まで生きました。

それならなぜ、悪妻と呼ばれるかといえば、夫の口述筆記をした、嫁の 路に関してですね。

路 と滝沢馬琴の仲を誤解して、嫉妬して、夫を罵倒する、嫁をいびる、などの行為からでしょう。

お百は、癇癪持ちとして知られていたから、その点でも「悪妻」と見られてしまいました。

まとめ

滝沢瑣吉こと、曲亭馬琴は、性格が良い人間とは言い難いです。

それでも作品がこれほど有名になったのは、作品の面白さだけでなく、蔦重・山東京伝との出会いがあったからではないでしょうか。

また曲亭馬琴も、蔦重と同じように、新しいものに取り組んだ、というところに人気の秘密があったように思えます。

そんな滝沢馬琴により魅力を加えるものといえば、「べらぼう」でのキャスティングでしょう。

画面での、津田健次郎さんの演技がどうなってくるか、とても楽しみです。

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