蔦屋重三郎、こと蔦重は 1791年、処罰を受けました。蔦重 41歳。
よほど、松平定信に嫌われたのでしょうか?
蔦重は処罰にあった後、よほどショックだったのか、そんなに長くは生きていられませんでした。
ここでは、蔦重の処罰について、理由は目的はもちろんのこと、それがfでにどんな影響をあたえたか、死因にまで関係あるのか、について調べました。
蔦重、処罰の理由は?
世の中の動きが、蔦重の望まない方向に進み始めても、自分の理想とする、娯楽の世界を続けていこうとしたところが、幕府の怒りに触れてしまった、これが原因です。
蔦重の罪とは?
処罰されるにあたって、まず蔦重の罪状が必要不可欠です。
それは、出版規制の法を犯した、ということです。
幕府が、快楽を求めすぎて、風俗的に悪いう本を出してはいけない、と通告したのに、わざと出版した、ということ、これが第一のおきて破りです。
さらにはそれらの洒落本を「教則読本」の袋に入れて売った、ということです。
そうすると、詐欺罪、という罪状が追加されます。
罪が重くなるのも当然です。
蔦重、幕府に反感を持つ
蔦重は、田沼意次(たぬまおきつぐ)の政策や目的をが自分の理想に合う、と感じて行動していたため、新しい時代からは目をつけられることになります。
田沼意次が失脚後は、田沼意次が推進していた、金銭の重要視、娯楽を奨励という世の中の風潮から、180度転換してしまいました。
幕府は、娯楽にうつつを抜かさないで、しっかり働いて、税金を納めよ、というものでした。
その時の蔦重の気持ちは、「べらぼう」の中で、こう語っています。
『楽しみごともしないで、働き続ける。それは人間は、働いて稼いだ金は全て幕府に吸い上げられてしまうだけだ。そんな生活がいいのか?』
という内容のことです。
幕府の、やり方に反対し、「仕掛け文庫」、「錦の裏」、「娼妓絹麗」などの洒落本を、山東京伝(さんとうきょうでん)と出版しました。
幕府と真っ向対立したのですね。
「仕掛け文庫」、「錦の裏」、など、内容が、幕府を怒らせた?
蔦重は、娯楽本で世の中を明るく変えていこう、という自分の意思を貫き通しました。
本を出した、蔦重そして山東京伝が、どうして処罰されるに至ったかは、出版したものがどのようなものであったでしょうか?
風紀上よろしくない、というのが、幕府の見方です。
その本の内容を述べておきましょう。
仕掛け文庫
この本は、岡場所と呼ばれる深川の遊女の生活を描いた、山東京伝の洒落本です。
深川は、幕府公認の遊郭 吉原とは違い、吉原とは対抗するように作られた遊郭場所でした。
これだけでも、幕府に逆らっている、ことを意味します。
幕府の検閲を逃れるため、深川とは書かないで、鎌倉を舞台としていますが、描かれている内容は、深川の風俗であるからバレバレですね。
男女の恋物語を詳しく描いているところがあります。
だから、幕府から目をつけられるのは当然、むしろ、幕府を煽っている、としか思えません。
「錦の裏」と「娼妓絹篩」
これらもまた、山東京伝の洒落本で、遊女たちの昼間の生活や、内情を描き出しています。
「錦の裏」は、挿絵も山東京伝の手によるもので山東京伝の力が入った作品のようです。
普段は客たちが知ることのない、遊女の生活ぶりを描いているものですから、かなり色っぽい内容も描かれていました。
風紀を乱す、と言って、絶版を命じらますね。
蔦重たちの処罰、本当は見せしめ?
蔦重への刑は、見せしめの意味もありました。
では誰に対する見せしめか?
それは娯楽を商売(エンタメ業ですね)として、お金を稼いでいる人たち、これから、エンタメで商売しようとしている人達への見せしめです。
松平定信たちをはじめとする、当時の行政者たちは、汗水垂らして働く仕事しか、仕事と見ていない傾向がありました。
つまり、農業、手工業者たちのような仕事を指していました。
この見せしめは、うまくいきました。
蔦重への刑罰、弾圧により、あれだけ人気があった、狂歌や、面白い読み物を書いた出版物は、衰退していきました。
やはり、お上(幕府)による処罰は誰もが恐れた、というのです。
蔦重、処罰の内容は?
処罰された年は、1791年です。
罰の名前は、「身の上半減」(みのうえはんげん)。
これは、罪人本人の財産の半分を没収する、という意味です。
その話も今では、本当でないかもしれないという説が出ています。
実は半分ではなく、「身上に応じた重過料」で、蔦重のこれからの営業に差し支えあるほどではなかった、という研究も最近にはあります。
倉本初夫という、20世紀後半の経営評論家は、刑法を研究して、財産の半分の罰金ではなかったと言っています。
また、財産の半分が罰金だった、ということを記した当時の記録はありません。
「財産半分の罰金」説が広まったのは、1911年ジャーナリスト 宮武外骨の著書「筆禍史」以降、という説もあります。
蔦重の処罰の目的は?
幕府の取り決めに従わない蔦重たちを、罰するのが主な目的です。
それ以上に、大衆娯楽を作り出す人たちに思い知らせる、見せしめの意味が強いです。
この頃は、蔦重の本屋、そして版元としての商売の景気は上昇中でした。
幕府が、質素倹約、娯楽禁止、と呼びかけているにもかかわらず、蔦重は山東京伝と組んで、新しい洒落本を出して、幕府に挑戦してくる。
このまま蔦重の行動を好きにさせておいては、幕府の権威が下がる、と幕府は考えていたのでしょう。
蔦重、処罰の後は?
幕府の、蔦重、山東京伝への処罰が効力を発揮しました。
江戸の街から、狂歌の流行を影を潜め、蔦重の出版業の方もさっぱりとなってしまいました。
しかしそんなことで気落ちする、蔦重ではありません。
喜多川歌麿の「大首絵」と呼ばれる訳者絵に目をつけて、精力的に売り出しました。
しかし、蔦重が気合を入れたほどには、「大首絵」は売れず、むしろ役者の特徴が強調されすぎて、嫌だ、という意見が多かったのです。
しかし、後世、私たちが喜多川歌麿、というとすぐに「大首絵」と連想するところまで人気が出ているのは、やはり、蔦重の審美眼はすごいな、間違いないものでしたね。
でも、蔦重の生存中には、「大首絵」が認められなかったのだから、それが蔦重の意気を削ぎました。
蔦重、長谷川平蔵に捕まる筋書き?
「べらぼう」の中では、長谷川平蔵は蔦重とは、よく一緒にいる場面が見られます。
だから、蔦重が、風紀を乱した罪でとらえられる時は、のちの鬼平こと長谷川平蔵(はせがわへいぞう)がやってくるのかな、と想像していますが…
そのような記録はありません。
もちろん、吉原を大々的に売り出そうとした蔦重と、吉原で遊ぶ長谷川平蔵なら、顔見知りであった可能性もあります。
そこを利用したのが、「べらぼう」でしょう。
だからと言って、寛政の改革の理念に逆らった、蔦重を、処罰のために捕まえにきた役人が、長谷川平蔵だった、ことにはなりません。
そうだったら、面白いという感覚からドラマにされるのでしょう。
蔦重 vs. 松平定信の噂はほんと?
「べらぼう」ではお互い、対立心があるようです。
では本当に、お互いは嫌い合う、間柄だったのでしょうか?
嫌い合う、とまではいかないまでも、お互いが相手を、自分の主張を妨げる者としての認識していたと、思われます。
蔦重は、松平定信(まつだいらさだのぶ)の政治方針を堅苦しい、と思っていたし、そもそも人が生産性を上げるには、息抜きになるような娯楽が必要と、考えていました。
一方の松平定信は、ひたすら脇目も降らずに勉学と労働に励み、遊びごとにうつつを抜かさないで、成果を上げることに専念するタイプです。
蔦重の成功は、田沼意次の政策が後押しする形となっています。
実際には蔦重と田沼意次の交流はありませんが、蔦重にとっては「田沼様、様」の心境でした。
田沼意次を政敵とみなす、松平定信には到底受け入れられません。
松平定信は、田沼意次のやり方を全て取り去りたかったので、蔦重がいつまでも娯楽を重んじていたのに、我慢がならなかったのです。
蔦重の処罰は、その死因に関係ある?
蔦重は、処罰したのち、そんなに長く生きてはいませんでした。
蔦重の亡くなったとしは1797年、処罰された年は1791年なので、処罰後まだ6年しか経っていません。
すると、罰金を山ほど取られたのがよほどショックだったのか、と考えたくなりますが、罰金刑はそれほど影響していません。
蔦重を弱らせたのは、人気の低迷?
じゃあ、身代半減の刑は、どのくらい蔦重を苦しめたのでしょうか?
あんまり、身代半減については、気にしてない様子だったということを、山東京伝が
「(蔦重)は肝の据わった男で、幕府のお咎め(おとがめ)をさほど気にしていないようだった」ということを言っていました。
蔦重を病気へと走らせたのはやはり、気弱な心だと思います。
それは、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の新しい企画「大首絵」の失敗です。
「これだ!」と蔦重が決めて、賭けた喜多川歌麿の新作品「大首絵」が受けなかった、ところにあるのでは、と考えられます。
気弱な心は、病につながります。
蔦重、脚気が死因に!
それより、寛政の改革そのものが、蔦重の死につながってきます。
その病気は、脚気(かっけ)。
脚気は今では、それほど多くはありませんが、ビタミンB1不足で起こ流病気です。
白米ばかり食べるのが原因です。
では脚気になると、どうして死に至るかというと、ビタミンB1が不足すると、手や足に力がなくなり、痺れを感じるようになります。
やがて動悸や息切れがして、食欲不振に陥り、倦怠感が全身に及び、最後は、心不全に陥り、死に至るのです。
当時は、原因がわからず、伝染病のように考えられており、江戸を離れると治るとか、迷信まであったほどです。
脚気と江戸時代
江戸時代の庶民にとって、白米は贅沢品だから、江戸の人々は、麦や玄米のご飯を食べていたのでは?というイメージがありますが、実は違います。
米を作る技術は、室町時代以降、発展を遂げ、米の生産量が上がり、江戸時代には戦乱がなくなって、米の供給量が安定するようになりました。
徳川の八代将軍吉宗の時代になると、享保の改革が始まり、米の生産に力が入れられ、精米技術も上がり、武士階級から農民階級まで、白米を食べることができるようになりました。
江戸時代の、火事の多さも白米を食べることを後押ししました。
火災対策として、1日のうちの火を使う時間を短くする。
1日に必要なご飯をまとめて炊く。一日中置いておくとなると、玄米や雑穀米は傷みやすい。
そのために保存に適したものとして、白米を炊いて、食べることが勧められました。
しかし、おかずの方は、乏しいままでした。
きれいに精米されない米の方が、ヌカの成分が残っていて、ビタミンB1が摂取できるのですが、精米されると、ヌカも取れてしまうので、B1がどうしても欠乏してしまいます。
よって、江戸では、脚気を起こす人が増えており、脚気は「江戸わずらい」と呼ばれていました。
蔦重はそんな、江戸の栄養状態を受けてしまったのですね。
蔦重の栄養状態は?
蔦重なら、耕書堂での商売がうまくいって、お金持ちになったから、食生活も裕福になったのに、必要な栄養が取れなかった?と思うのですが、実際はどうだったでしょう?
世の中が質素倹約を、呼びかけるようになって胃からは、蔦重の栄養状態は悪くなってきていました。
これまでは、蔦重は裕福になって美味しいものを食べていましたし、作家たちの接待で、ご馳走を食べる機会が多い生活を送っていました。
しかし、寛政の改革以降、食べ物も贅沢が禁止されるようにr、接待の宴会も禁止され、蔦重の食生活も粗末になってきていました。
白米だけは、米を奨励する政策でたくさん食べることはできましたが、食べ合わせのおかずまでは、考えが回らなかったものと思われます。
分量はたくさんあっても、必要栄養素が不足していたのですね。
脚気を防ぐには、糠漬けと一緒にご飯を食べると良い、と言われるのよになったのは、江戸時代でももっと後期で、蔦重よりだいぶ後の時代でした。
糠漬けの、ヌカに含まれるビタミンB1が良かったのでした。
まとめ
「べらぼう」で迎える、蔦重の大きな局面が処罰でした。
新しい老中、松平定信の政策に合わなかったのです。
というのか、むしろ蔦重の方が挑戦的でした。
時代に逆らったものの、結局は、寛政の改革で推奨された白米で、蔦重は脚気となって命を落としてしまうのです。
fでが起死回生をかけて、売り出した、喜多川歌麿の「大首絵」は当たりませんでしたが、未来への大きな望みとなりました。
蔦重、存在・名前が後世に残るきっかけとなりました。
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