2026年 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の主人公、豊臣秀長(とよとみにでなが)は、太閤 豊臣秀吉の弟です。
秀長は、早死にでしたので、その死因が現代でも語られています。
病死だったのか?暗殺の噂もあります。
ここでは、豊臣秀長の死因を、徹底推理してみました。
豊臣秀長の死はいつ?
豊臣秀長の死は、1951年(天正19年)2月15日(旧暦 1月22日)でした。
郡山城(奈良県)で亡くなりました。
享年は52歳、と言われていますが、49〜52歳と、いう説がありちょっと幅があります。
「多聞院日記」に書かれていた記録では、享年51歳と書かれていましたが、
秀長の病気平癒祈願が、1951年(天正18年)、秀長51歳、となっているので、その翌年に亡くなった秀長は、52歳ということになります。
その祈願書は、現在は、奈良国立博物館にあります。
なお、「多聞院日記」とは奈良の興福寺多聞院の僧侶が三代に渡って書かれた日記です。
内容は、寺院出来事、時代の流れなどの140年分の記録が残されています。。
豊臣秀長の死因
豊臣秀長は、病死と言われています。
では、一体何の病気だったのでしょう。
豊臣秀長、の病気は?
本当の病名は、現代でもまだわかっていません。
「豊臣兄弟」の時代考証を務める、黒田基樹(くろだもとき)さん、柴裕之(しばひろゆき)さんたち著作には、病気についての考証があります。
豊臣秀長はリンパ節炎を患っていた?
黒田基樹さんは「多聞院日記」の、「豊臣秀長には横根がある」という記述から、両足付け根にリンパ結節があったとにらんでいます。
そのため豊臣秀長は、乗馬できなかった、といいます。
豊臣秀長は、急性胃腸炎?
柴裕之さんが編集している「豊臣秀長」に、1587年、に秀長は、下痢や吐き気、腹痛の症状に苦しんでいた、と書いています。
この胃腸系の苦しみを和らげるために、豊臣秀長は、有馬温泉に湯治に行っていた、ということです。
ただし、有馬の温泉に入ることは、リンパの痛みなどの方には効くかもしれませんが、胃腸不振にはあまり効果があるとは思えませんが。
有馬温泉は、炭酸が出る温泉なので、飲用での治療を考えたのだと思います。
有馬温泉での湯治の頃が、ちょうど、秀吉の小田原攻めにあたっているので(1589年)、豊臣秀長は小田原攻めに参加できなかったのでしょう。
それに、戦国時代の食事情、戦場の衛生状態をを見れば、胃腸が悪くなるのも当然、という気もします。
豊臣秀長の死因、過労により免疫力低下?
ストレスからくる過労死、これも考えられる死因です。
あるいはストレスから免疫力が低下し、やがて癌に至る、これも十分に考えられます。
秀長はこれまでずっと、兄 秀吉の補佐役で仕事をしてきたものですから、かかるストレスは半端ないです。
疲労、そしてストレスはかなりなものだったでしょう。
胃腸に感じる不具合も、ストレス性のもの、といえば納得できます。
さらにストレスに追い打ちをかけたのが、見舞客。
病床にある間、徳川家康をはじめ多くの人がお見舞いに訪れました。
気配りの人、豊臣秀長はいちいち応対しました。
見舞い、どころか、見舞いにより一層ストレスがかかって、病状悪化、だったこともいえますね。
豊臣秀長の死因、結核説
また結核の可能性もあります。
過労が積もり積もって、結核になってしまったということです。
結核は、肺病とも言われ、昔の死に至る病、ナンバーワンと言われるほどの病気です。
住宅環境、必要な栄養摂取ができるか、戦時中の不摂生など、体調を崩す要因がたくさんありすぎた戦国時代、でh、結核に簡単にかかってしまうのですね。
現代医学が出現するまで、結核は誰でもかかる可能性があり、死亡率が極めて高い病気でした。
「肺の病」と明記した資料は見つかりませんが、戦国時代いや、第二次世界大戦以前までは、あまりにもポピュラーな病気だったので、明記されなかった可能性もあります。
豊臣秀長、暗殺説
豊臣秀長の、体調不良から死に至るまでの時間が短すぎたので、暗殺の疑いも出ています。
暗殺と言っても、刃物を持って暗闇で襲いかかったりすることではなく、ここでは毒物による殺害を意味しています。
豊臣秀長、暗殺説浮上。ヒ素中毒?
豊臣秀長は 1591年に病気で倒れ、その後死に到までの期間が短すぎました。
病に倒れたと言われるのが、1589年あたりです。
その原因が、胃腸の弱り方から、ヒ素系毒物の摂取によるのでは、という疑いがあります。
1589年正月に大坂城での新年祝賀以降、大坂城には行かず、その一年後の小田原攻めには病が悪化を理由に参加しませんでした。
やがて、甥の豊臣秀次が、病気平癒の祈願を立てます。
豊臣秀長の死について、「医学天正記」書かれた症状は、、胃腸の不調とした書かれておらず、ヒ素の疑いあり、とは書かれていませんから、当時からあった噂から探ってみます。
豊臣秀長暗殺の噂になった人々?
豊臣秀長が暗殺されたか、また犯人の目星は、とはっきりした確証を示すものは何もありません。
しかし、もし、秀長 暗殺の可能性がある人たちがいるとすれば…ということで容疑者をリストアップしました。
秀長殺害、石田三成?
石田三成は、豊臣秀吉の「腰巾着」つまりイエスマン。
だから、秀吉の意見と対立する存在を排除しようとしたのでは?という考え方もできます。
豊臣秀長は、三成は秀吉に忖度しすぎている・・・と考えていました。
秀長は石田三成に意見したこともあったでしょう。
豊臣秀長の方は石田三成よりも20歳も年長だし、秀長は石田三成の結婚での仲人を務めたので、石田三成にとっては秀長は逆らえない存在です。
それに三成は、豊臣秀長が秀吉の天下になくてはならない人、と思っていました。
ですから、石田三成が豊臣秀長暗殺に関しては、シロです。
石田三成、秀長の死を利用?
殺害犯の疑いは晴れても、石田三成は豊臣秀長の死を利用したのは確かです。
石田三成は、豊臣秀長 殺害の犯人の疑いを、千利休(せんのりきゅう)に向けました。
秀長がいなくなったことに三成は、豊臣政権に危機感を抱きました、豊臣家臣をまとめ上げる人物がいなくなったと。
今度は自分が豊臣家臣団のまとめ役になろうとしました。
となると、石田三成は秀吉からの信頼が厚い、千利休が邪魔になってきます。
秀長の死を暗殺として、罪を千利休に被せ切腹に追い込んだ、という見方もできます。
実際は、千利休は、豊臣秀吉に謀反心を持った、とされて、処罰されたのですが。
豊臣秀長殺害、千利休 説?
その千利休が、秀長を暗殺したのでしょうか?
豊臣秀長が死んだすぐ後に、千利休は切腹を言い渡されのは、秀長を暗殺したからでは?という疑惑がありました。
しかし千利休の処罰の理由は、大徳寺の山門に、千利休の等身大の像をおいて、下を通る秀吉の頭に足を向けた。
千利休の娘を、秀吉の側室に差し出すように命令したけれど従わなかった・・・・などが理由として挙げられます。
豊臣秀長は、千利休の茶室で茶を楽しむことがよくあり、お茶に毒を仕込むのは、千利休なら簡単、と見られたのです。
千利休も秀長と同様、秀吉に意見できる人物だったため、もし秀長がいなくなれば、秀吉を動かせるおは自分だけになると千利休が企んだ?と、見られています。
しかし、これこそ、全く証拠がなく、ただの噂でしかありませんね。
徳川家康が関与?
暗殺犯の疑惑は、徳川家康にまでかかってきます。
でも家康に、もし秀長を暗殺した疑いがかかった段階で、すでに家康にとってのリスクが多いので、実現はしないでしょう。
家康自体は、まだ政権を取れる見込みが立っていない状態で、あえて豊臣秀長を殺害しても、殺人を自分が疑われるばかりで、危険です
ところが、秀長の死の2日後、家康は千利休と茶会を開いています。
のちに、家康は千利休に切腹の処罰が下されると聞いて、利休やその妻子の助命嘆願、家督相続を、各方面に働きかけていました。
千利休は、自分は秀吉から、現在あまりよく思われていない、と知っていたので、絶対秀吉と対立すると思っていたので、家族や後のことを家康に託したものと思われます。
ここからは、もしかしたら、家康は千利休を使って、秀長暗殺をほのめかしたのかもしれない。
家康は、この辺りから、豊臣家の権威を落とそうと考えていたのでしょうか。
豊臣秀長の暗殺犯は秀吉?
まさか?と思いますが、兄である豊臣秀吉の暗殺犯疑惑があります。
それは秀吉は身内を大切にする人物だったから、それは考えられない、という反論もありますが。
秀吉なら、暗殺を考えるかも?と思わせた事件が、甥の 豊臣秀次を切腹に追い込んだ事件があるからです。
身内でもここまでやるんだ、と秀吉の恐ろしさを思い知らせた事件です。
秀吉は弟 秀長の人気に嫉妬したのでは?と、いうのが秀長殺害の疑いをかけられる理由です。
秀吉の方が天下人であるのに、穏和な性格の秀長には人気がありました。
また秀吉とは、意見が合わずに対立することもありました。
豊臣秀吉は、嫌がる妹を離婚させてまで、家康のところに嫁にやったり、人質が足りなければ、自分の母親まで人質にする始末でした。
豊臣秀長は兄の、行動は人の道を外れていると、意見しました。
秀吉は弟 秀長の反対意見をうるさがったので、天下人の秀吉なら、弟の暗殺の可能性アリかも、の説が浮上します。
ところが、家臣をまとめ上げ、トラブルの解消に努めていた、秀長がいなくなると困るのは秀吉だから、やはり秀吉犯人説には無理があります。
豊臣秀長、生きていたら?
豊臣秀長、暗殺の噂が上がるのは、「もし豊臣秀長が長生きしたら、豊臣政権は長生きしただろう」という推測があったからです。
- 朝鮮出兵を止めることができた。あるいは被害を少なくすることができた。
- 徳川家康との和平
ということが挙げられます。
秀吉の朝鮮出兵については、無謀な海外遠征で、日本国の国土広げようと思った、秀吉の暴走に皆が手を焼いていた事件で、豊臣秀長なら、止められたかもしれない、との予想です。
徳川家康との間は、豊臣秀長は、良いネゴシエーター(仲介者)の役目を果たすことで、後の関ヶ原の戦いを、回避できたかもしれない。
ですが、これらはすべて「〜たら、〜れば」です。
このような予想も、ドラマ「豊臣兄弟」ではどのように描かれてくるのか、と想像がつきません・
まとめ
豊臣秀長は、太閤 秀吉の弟で、兄を献身的に支えた人物ゆえに、その死が悔やまれ、長年にわたり、その死因が探究されています。
本人が体調不良を感じてから、死に至るまでの期間が短いので、過労死以外にも、暗殺の疑いが出てくるのです。
確かに周りには、犯人らしい人が何人もいます。
しかし決定的な、証拠もないまま、今日に至っています。
2026年大河ドラマ「豊臣兄弟」では、どんな説が飛び出すでしょうか?

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