ラフカディオハーン、片目の秘密?帰化の理由?身長は?名前の意味。小泉八雲の由来?怪談好き?妻は?生い立ち。死因?

NHK朝ドラ「ばけばけ」

2027年 10月、NHKで始まった新しい朝ドラ「ばけばけ」。主人公の夫になる、ラフカディオ・ハーンと妻の物語です。

最初は、どうも片目が不自由に見えますが、これは一体?

日本名は、小泉八雲ですが、なぜそんな名前がつけられたのか?

どうして怪談にハマったのか?

ここでは、ラフカディオ・ハーンの、日本好きの理由を解き明かしていきます。

ラフカディオ・ハーンの片目、どうなってるの?

朝ドラ「ばけばけ」に登場した、ラフカディオ・ハーンは、片目の色が少し変わって見えます。

これは、左右で瞳の色合いが違うのか、それとも?

ラフカディオ・ハーンは左目を失明!

ラフカディオ・ハーンは、16歳で左目を失明します。そこで、片目の失明と視聴者にわかるように番組では左目の色を変えました。

片目が、見えなかったのは事実です。

失明の理由は、イギリスの寄宿学校に在学中、遊びの途中に目にロープが当たったのです。

ラフカディオ・ハーンは、ひどい近眼も持っていました。

強度の近視の人は、網膜剥離という病気を引き起こしやすく、目を強打することで、危険性が高まります。

ラフカディ・ハーンの眼の病気についての診断書は残っていませんが、網膜剥離、あるいは水晶体損傷、ということが考えられます。

検査したところ、手術でも治らない、とされました。

ラフカディオ・ハーン本人は、「自分の左目が醜い」と思っており、目のことが、ハーンの性格に影を落とすのでした。

自分で目を気にしていた証拠に、肖像写真は全て、右側から撮られたものばかりです。

義眼を作らなかった、ラフカディオ・ハーン

ラフカディオ・ハーンはそんなに、目のことでどう見られるか気にするなら、義眼を入れて目立たなくする、という手もあった、と思うのですが、そうしませんでした。

ラフカディオ・ハーンは「嘘つき」が大嫌い、ということを、妻の小泉セツ は「思ひ出の記」のなかで書いています。

嘘つき、とはうわべだけを取り繕ったものも含みます。つまり、義眼もまた入れ歯も、ハーンに言わせれば「嘘つき」になるのです

だから、義眼を入れるのも嫌がりました。

嘘の目を入れるより、見かけが悪くても、素のままの方が良い、とラフカディオ・ハーンは思ったのでしょう。

でもコンプレックスに悩むなら、義眼で体裁を整えた方がスッキリするかと、思うのですが、こだわりがあったのでしょうか。

「ばけばけ」の中では、レフカダ・ヘブン(ラフカディオ・ハーン)役の トミー・バストゥさんは、片目を白くしています。

コンタクトレンズを使用しているものと、思われます。

ラフカディオ・ハーン、帰化はなぜ?

ラフカディオ・ハーンは帰化して日本に永住するのですが、

そもそもなぜ日本に来ることになったのでしょう?

日本への知識、そして憧れ、これらがハーンを日本へ向かわせたのです。

ラフカディオ・ハーン、ニューオリンズで、万博で日本を知る

ラフカディオ・ハーンの著書「神々の国の首都」には日本へ来た理由が書かれています。

アメリカ合衆国のニューオリンズにいた時に、万博で日本のことを知り、ひかれて日本に来ました。

アメリカにいたのは、20歳代の頃からジャーナリストの仕事を始め、アメリカの出版社の通信員として働いていました。

その会社の派遣員として日本に取材に行ったことがきっかけです。

日本に関する記事を書いてくれ、ということだったのですが、その契約は、破棄されてしまったのです。

原因は、ハーンの記事に挿絵をつけてくれる画家と、出版社の3者が原稿料のことで、揉めてハーンは会社を辞めてしまったのです。

だからと言って、日本への興味が失せたわけではありませんでした。

ラフカディオ・ハーン、日本への憧れ

ラフカディオ・ハーンは、仕事を失いましたが、日本への興味から、もっと日本のことを知りたくて、勉強を続けようと思いました。

そのためには、先立つもの(金銭)がないことには何もできません。

そこで、ニューオリンズで知り合いになった、日本人 日本の文部省の役人、服部一三(はっとりいちぞう)の紹介で、島根県松江市の高校の英語教師として仕事を始めます。

この時期の日本政府は、一生懸命に西洋諸国に経済・文明に追いつこうして、多くの外国人を雇いました。

学校のネイティブによる英語教育も同様、奨励されおり、お雇い外国人には、高額な給料が支払われていました。

ラフカディオ・ハーンは、憧れていた日本への道と、給料の両方を手に入れて、希望に燃えて日本に来た、ことが想像できます。

ラフカディオ・ハーン、帰化の理由

小泉セツ という日本人と結婚したから、日本人になったのですが、そこに至るにはラフカディオ・ハーンにはどのような考えがあったのでしょうか?

田部隆次が書いた、「小泉八雲」の中に、次のようなことが書かれています。

国際結婚をした時、自分の両親のことが頭に浮かびました。

父は、母と結婚したものの、離婚したのですが、その時、正式な結婚の書類がなかったため、この結婚がなかったかのように扱われてしまったこと。

父は、ラフカディオの母と結婚する前に、一度結婚しており、その女性との間にできた子供の方に、大叔母の財産の相続権が渡ってしまったこと。

ラフカディオ・ハーンも父と同じように、過去に一度結婚していたから、ハーンがイギリス国籍のままでいると、もしハーンに何かあった時、財産がセツに渡らないことを恐れていました。

そこで、イギリスの国籍のままではダメだ、と悟り、日本の籍を取り、日本人 小泉八雲 となったのでした。

これは、明治時代に生きた人としては、非常に思い切った決断です。

日本では、西洋人が理解されていなくて、西洋人と日本人の結婚は、まだまだお互いが難しい時代でした。

ラフカディオ・ハーンの身長は低い?

ラフカディオ・ハーンは身長が低かったのでは?と言われています。

それは、作家の丸谷才一(まるやさいいち 1925〜2012)のエッセイ「人形たちのBWH」の中で、有名人の身長をはじめとする身体のサイズを調べ上げて書いています。

それによるとラフカディオ・ハーンの身長は156cm、と書かれています。

ラフカディオ・ハーンの父の出身地であるアイルランド人の男性の平均身長は 177cmほど。

高い方ではありますが、ヨーロッパ系で見れば、非常に高い方ではなりません。

母の祖国である、ギリシャ人の身長もアイルランド人とそれほど変わりありません。

母方というと、女性の身長ですが、女性平均身長は165cmほどで、アイルランド人女性と変わりありません。

ですから、らラフカディオ・ハーンの身長が低いのはDNAのせいではありません。

身長は海外にいるときは引け目に感じていましたが、日本に来ると、日本の人たちと視線が同じ位置に来るので、喜んでいた、ということでした。

ラフカディオ・ハーンが日本に帰化しようと思った裏には、身長の事情が隠されていたのかもしれませんよ。

ラフカディオ・ハーンの名前がレフカダ・ヘブンと?

朝ドラ「ばけばけ」では、ラフカディオ・ハーンの名前が「レフカダ・ヘブン」になっていますね。

これは、ドラマの創作である、と思われます。

代々の朝ドラでモデルがいた場合、その名前に似たネーミングになっているので、今回もその例にならったのでしょう。

ラフカディオがレフカダになったのは?

ラフカディオがレフカダとなったのは、ハーンの生まれた土地が、ギリシャのレフカダ島であることから、その名前をとったのでしょう。

さらに、ラフカディオ・ハーンのギリシャ語表記での読み方が パトリキオス・レフカジィオス・へルン というところから、

ミドルネームのレフカジィオス(レフカダ島の、という意味)を使ったと見られます。

ハーンが「ヘブン」になったのは?

ヘブン、という姓の方は、ハーンの発音と、のちにラフカディオ・ハーンが意訳的日本語「へルンさん言葉」の2種類。

へルンという名前は、ハーンのギリシャ語での読み方でもありましたし、また英語 Hearnの発音が「へルン」と聞こえた、というところコアラ来ています。

そして、ラフカディオ・ハーンの生まれたレフカダ島の自然が、天国(ヘブン)のように美しいところから、創作した、と思われます。

「へルンさん言葉」、については、こちらに書いてありますので、ご覧ください。

ラフカディオ・ハーンが小泉八雲になった理由?

ラフカディオ・ハーンが日本の帰化するために、名前を日本名に変えました。

「小泉」というのは、結婚した相手、「セツ」さんの姓から。

では「八雲」は?

これは、日本の古典「古事記」にある歌から取ったものです。

日本神話の スサノオノミコト が クシナダヒメを妻に迎える時に詠んだ歌

「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

(意味:雲が幾重にも重なる出雲の地に、妻を住まわせるために幾重にも重なる垣(八重垣)を作ろう!)

妻を迎えて自分が住まいを作って、妻を住まわせ、守ろう という意思を詠んだ歌です。

まさに妻を迎えようとする男性にはぴったりな歌。

それに、八雲は、出雲国の枕詞としても使われる言葉で、この運命の土地、出雲をよく表しています。

出雲は日本神話の故郷だから、日本の神話をリスペクトするラフカディオ・ハーンには、まさにうってつけの、歌です。

でも、名前を決めたのは、実は本人ではなく、セツの祖父だった、と言われています。

祖父というのは、実の祖父ではなく、養子先の祖父 稲垣万右衛門(ドラマでは、松野勘右衛門 小日向文世 演じる)です。

ラフカディオ・ハーンが怪談に興味を持ったわけ?

乳母との出会いが、ラフカディー・ハーンの心に幻想世界への憧れを引き出しました。

幼い頃に、母と別れた、ラフカディオ・ハーンは父方の大叔母のもとで、乳母をつけてもらいました。

その乳母が、ラフカディオ・ハーンに、古い物語をたくさんしてくれました。

場所がアイルランド、アイルランドの民話、ファンタジーの宝庫です。

乳母は、アイルランドの土着色の強い地方の出身だったので、ケルと民話の語りは、お手のものでした。

アイルランドは古くはケルトと呼ばれた地域で、ケルト民話には、ちょっと怖い話もたくさんあります。

ラフカディオ・ハーンは繊細な子供だったのでしょう、よく大叔母の邸宅で妖精や幽霊を見た、と言っていました。

中には、顔のない幽霊…それがのちの「のっぺらぼう」につながっていったのでしょうか?

ラフカディオ・ハーンは、アイルランドのケルト文化と日本文化に似たような部分を見出したのでしょう。

日本では、古来より、さまざまなものに、自然の中、何でも精霊が宿る、と考えられていました。

ケルト文化でもそう考えられています。

思えば、日本や八百万の神(やおよろずのかみ)を信ずる、多神教、ケルトの宗教ドルイド教も多神教です。

二つの文化が、ラフカディオ・ハーンの手によって、融合し新しい物語を生み出したのだと思います。

ラフカディオ・ハーンの妻

ラフカディオ・ハーンの妻は、日本人の小泉セツ、ではありますが、実はセツとは2度目の結婚で、その前には、アメリカ人と結婚していました。

ラフカディオ・ハーンの最初の妻は?

最初に結婚した妻は、アリシア・フォリーと言いました。

その妻とは、1874年、オハイオ州シンシナティで、下宿屋で料理人をしていた女性でした。

アリシア・フォリーは白人と黒人の混血女性でしたが、当時のアメリカ合衆国は、黒人と白人は異種人同士とされ、結婚は認められていませんでした。

ラフカディオ・ハーンはそんなことは全く気にせず、結婚を続けようと思っていましたが、2人の結婚は州の法律では違法とされてしまいました。

そして、勤めていた新聞社「シンシナティ・インクワイラー」を解雇されます。

アリシアとは結局、離婚という道をとりますが、ここで一つわかったことがあります。

ラフカディオ・ハーンは人種を気にする人ではなかったことです。

だからこそ、2番目の妻は、東洋人であっても自分の心に従い、愛し結婚したのでした。

ドラマ「ばけばけ」の中には、マーサという、混血の女性が、自分語りをするときに、出てくることになっていますが、その女性が、マーサ・フォリーのモデルでしょう。

ラフカディオ・ハーンとセツ

日本で、ラフカディオ・ハーンの妻のセツとは、1891年に結婚しました。

ラフカディオ・ハーンが島根県松江市に、英語教員としてきたのは1890年だから、出会って、一年で結婚した、ということです。

1891年 41歳で、外国人として初めて出雲大社に拝殿が許されています。

つまり、その時出雲大社で、セツさんと祝言をあげたのだ、ということが考えられます。

セツはその時、25歳前後だった、と言いますので、歳の差婚ですね。

セツと出会ったのは、英語教師として、松江に赴任中、下宿先の旅館で、身の回りの手伝いとしてです。

妻の、小泉セツについては、こちらに記事がありますので、お読みください。

婿養子になった、ということは、日本人になって自分の故国を捨てた、ということになりますし、子供も生まれたことから、仲睦まじい夫婦だったことを意味します。

ラフカディオ・ハーンの生い立ちは?

生まれた時は、ギリシャで両親も揃い、明るい土地で過ごしたのですが、やがて、アイルランドに移り、寒い暗い土地で、少年期、思春期を過ごします。

それが、ラフカディオ・ハーンの性格、などに影響を与えました。

ラフカディオ・ハーンの生まれはどこ?

ラフカディオ・ハーンが生まれたのは、ギリシャのレフカダ島です。1850年の生まれ。

レフカダ島は、場所はギリシャのイオニア海にある島ですが、英国領ですので、ラフカディオ・ハーンの国籍はイギリスとなります。

しかし、現在では、レフカダ島を含む、イオニア諸島はギリシャ王国に属しています。

のちに、アイルランド、そしてアメリカに渡ります。

ラフカディオ・ハーンの父は、イギリス人チャールズ、母はイオニア諸島の出身(ギリシャ人)ローザ。

父は、イギリスからレフカダ島に赴任してきていた軍医です。

ラフカディオ・ハーン、アイルランドで生活?

ラフカディー・ハーン 2歳の時、父は西インドに転属となり、妻と子供を自分の故郷アイルランドにに住まわせ、単身赴任しました。

そこには、父の親類がいたのですが、母 ローザにはその土地が合わなくてギリシャに帰り、そのまま、両親は離婚となりました。

それがラフカディオ・ハーンのが4歳の頃です。

そのまま、母とは別れたままとなります。

アイルランドでは、父方の大叔母の邸宅に住むこととなりました。

父はアイルランド系だったのです。

しかし、父はギリシャ人母と正式に書類を出した、結婚をしていなかったので、ラフカディオ・ハーンは、大叔母の遺産を継ぐ権利がありませんでした。

母はアイルランドでの生活が合わず、子供を置いて、国に帰ってしまったので、ラフカディオ・ハーンは辛い少年時代だったと思います。

だからこそ、その時に聞きなじんだ、ケルトの古い民話、フェアリーストーリーが、ハーンの心の拠り所になったのでしょう。

それが、ラフカディオ・ハーンの性格を育てたのでしょうね。

ラフカディオ・ハーンの死因は?

心不全だった、と言われています。

1904年(明治37年)、心臓発作で、倒れてそのまま亡くなります。54歳、でした。

直接の死因は、狭心症です。

ラフカディオ・ハーンの晩年は、執筆活動が忙しく、かなり身体に無理がかかっていました。

その多忙ぶりは、のちに妻の セツ が「思ひ出の記」の中に書き記していました。

晩年のラフカディオ・ハーンは晩年、執筆活動とともに、東京帝国大学(今の東京大学)で講師として活躍していました。

多分、昼は、東大の講師、夜が執筆活動だったのではないでしょうか?

片目しか使えないため、残った目に負担がかかり、疲労感も人一倍だったのではないでしょうか?

照明はは、1887年には東京で電気の供給が始まっているから、おそらくラフカディオ・ハーンは使っていたことと思います。

ですが、現在の蛍光灯やLEDのような、明るさはまだ登場していなかったので、やはり、夜間の作業は目に負担がかかったのではないでしょうか?

目からの疲労が、心筋梗塞につながった、と思われます。

まとめ

ラフカディオ・ハーンが日本に帰化したのは、ハーンの少年時代から、運命付けられていたような気がします。

幼少時代に耳にした、アイルランドの古い伝承、ケルトの物語、それらがラフカディオ・ハーンの幼い頃の、夢の原動力でした。

少年時代に、出会った、不意の事故で左目の視力を失ったり、身長が低かったり、といった身体的特徴もまた、日本への帰化を進めることになったのでしょう。

アメリカで、日本に興味を持ち始めたのがきっかけで、来日、やがて日本に帰化します。

これらの一連の出来事は決して偶然ではなかった、と「ばけばけ」を見ると、わかります。

「ばけばけ」の物語は、自分に誰よりもぴったりの、生涯のパートナーとはどんなものかが、わかるドラマです。

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