平賀源内生存説!なぜ?相良凧現る!墓が複数?生存を書いたものは?死因、投獄の理由。

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺

2026NHK大河ドラマ「べらぼう」のいよいよ終盤に差し掛かりましたが、ここで平賀源内が生きていたと?いう疑いが。浮上しました。

なぜそのような、噂が出るのか?きっかけは相良凧でした。

ここでは、平賀源内の、、死因、投獄を振り返りつつ、生存説、から、本当に生きていたのかを、検証してみます。

平賀源内 生存説 なぜ?

では、一体 蔦重をはじめとしたグループは平賀源内の生存を疑い、今でも平賀源内生存説が残っているのでしょうか?

平賀源内生存論の根拠は?

  • 言い伝えが数多くあるということ。
  • 平賀源内が実際に死んだところを見た人がいない。

死んだところを見ていないということは、田沼意次が平賀源内を仮死状態にし、死んだことにして、牢から助け出したから、という考えが、生存説に結びつきました。

しかし言い伝えについては、証明できるものが、現時点では見つかっていません。

平賀源内、各地に残る伝説

遠州讃岐蝦夷地にまでも、平賀源内はやってきた、という言い伝えが残っています。

しかし、それらは江戸時代のせい、記録の手段も確立されていないため、文書化されていません。

そこの地域に住む人たち、旅人の噂、また詐欺まがいで、平賀源内を名乗る人がいても、IDなどのない時代、確かめようがありません。

静岡県牧之原市では、「平賀源内がいた」という場所や、「源内邸跡」「源内薬研」(げんないやげん)として、地元に人に知られた場所もあります。

「〜薬研』というのだから、医薬を扱う仕事をしていたのでしょう。

平賀源内の出身地 讃岐にも、平賀源内は、牢屋を出て高松まで戻ってきている、最後は志度で隠居生活を送った、と書かれた古文書が高松郷土資料館に残されています。

平賀源内の隠居所、と呼ばれる名所旧跡もいくつかあり、それが見る人に混乱を与えているようです。

平賀源内、蝦夷地(えぞち)に向かう?

平賀源内の知的好奇心の強さからきた伝説です。

生前から、蝦夷地について平賀源内は興味を持っていました。

また蝦夷地は江戸時代では、知る人が少なく魅力的に見えましたが、行くのも困難な場所、しかも広大な地のため、行くことができたとしても、そこから先は、行方を辿るのが難しいです。

平賀源内は、蝦夷地(北海道)に向かい、アイヌ民族と出会い、アイヌの使う薬草の研究、鉱物探究をしていた、というのです。

平賀源内の、生前の研究を見ると、いかにも…という気がて、信じている人も多いですが、実証するものは何一つありません。

 

これらの説は、平賀源内が、牢から脱出していなければ、成立しない話ですので、そもそも、牢で平賀源内は本当に死んだのか?が証明できないとダメですね。

平賀源内、相良凧が生存の謎を握る?

相良凧は、静岡県牧之原市 相良に伝わる、伝統の凧で、考案したのが、平賀源内というのが通説です。

「べらぼう」の中では、重田禎一(しげたさだかず)、のちの十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が、おかめ顔の相良凧を担いで、持ってきたところから、平賀源内生存説が起こります。

禎一は、源内が作ったとみられる、相良凧を見つけた、つまり平賀源内は生きてどこかにいる、とそう推測してやってきました。

相良という地名も重要でした。それは相良は、平賀源内を高く買っていた、かつての老中 田沼意次(たぬまおきつぐ)の領地だったからです。

しかし、相良凧があったからといって、それがすぐに平賀源内は生きている、に結びつく、ということが不思議でもあります。

平賀源内が死んだ時、その死を直接見た者は、ほとんどいなくて、関係者たち(蔦重たち)は本当に死んだか、確信を持っていなかったのですから。

平賀源内 考案の凧が出た、うところで、生存を考えた蔦重たちは、そんなに突飛なものではなかったようです。

相良凧が出て、蔦重はその真相を探り始めます。

ここから、「べらぼう」は一気にミステリータッチになります。

 

相良凧とは、4本の竹を骨として組み合わせ、2本の糸をつけた凧です。

しかし、尾をつけない凧です。

操作の仕方は、上空にあげて、それから手元の糸を操作し。凧を上下左右自由に宙返りさせながら動かす、楽しい凧です。

 

平賀源内、墓の謎

平賀源内の墓、が複数あります。本当は墓って1人につき1つなのですが…墓が多すぎるのも、平賀源内が生き延びた、伝説に拍車をかけています。

東京都台東区橋場2丁目

かつては総泉寺という寺にありましたが、今では寺は板橋区に移りましたが、お墓だけは残っています。

香川県さぬき市志度 自性院

平賀源内の出身地にある平賀家の菩提寺で、獄死した後、遺族が建てた、ということです。遺体は台東区の総泉寺の方ですが、墓として故郷にのこ押されています。

相良(静岡県 牧之原市)

牧之原市の日蓮系寺院「浄心寺」で昭和34年に見つかった墓で「一實院宗日明日」という法号が読めますが、平賀源内、とはありません。

この墓に葬られた人物は「湯澤宗兵衛」という話もありますが、湯澤宗兵衛は讃岐出身で、それが平賀源内の故郷でもあるので、実は平賀源内の偽名?では、とみられています。

山形県の庄内

明治時代の国文学者 水谷不倒 が「平賀源内は江戸脱出後庄内で過ごした」ということから、平賀源内の墓では、というものがあります。

しかし、検証が難しいために確証は取れていません。

平賀源内、生存説の文献は?

平賀源内の生存説は、「べらぼう」での全くの創作ではないということです。

明治時代以降には、研究が行われ、証言を集めたものが出版されました。

しかし、どちらも言い伝えをまとめたものですので、この文献からだけでは、平賀源内の生存を確定することはできません。

東条琴台(とうじょうきんだい)

江戸時代後期〜明治時代初期の儒学者。

登場近代が編纂した「先哲叢談 続編」には、平賀源内が、駿河(静岡県)で医者として働いていたことw描いています。

しかし、これは、人々の噂を書き留めたものなので、その医者が平賀源内とは言い切れないです。

水谷不倒(みずたにふとう)

水谷は明治時代の国文学者、著書「偉人史叢 第6巻 平賀源内」の中で、平賀源内は、

「(田沼意次は)、麻薬で仮死状態を作り上げ、牢死と見せかけて、牢より出し、遠州相良に連れて行くという脱出計画を練り上げた」

とあります。

田沼意次が失脚した後は、平賀源内は、庄内に移った、という流れも書いてあります。

しかしこちらの説も、この内容を裏付ける史料が記されておらず、単なる物語に終わっています。

平賀源内の死因?

仮に、平賀源内が牢から逃げて生き延びた、という説が正しいとしても、その前に、一度は、死んだ形となって、牢から抜け出しています。

死因は、破傷風、と言われています。他にも、自死、餓死という原因が語られています。

1779年、享年52歳でした。

投獄されたのは、自分人を殺めてしまったこと、それに対する後悔し、自分を責めたことで、自死に及んだ、あるいは、自ら食事を取らない餓死を選んだ、という説もあります。

江戸時代のことなので、牢屋の衛生状態は悪く、役人による拷問まがいの取り調べもあったから、衰弱死、病死、餓死、ひどい場合は自死があったとしても不思議ではありません。

不思議ではない、と言っても、獄死させてしまった役人の方も、やりすぎ、または管理不行き届きなどを責められそうなので、黙っておきたかったのでしょう。

そこで平賀源内の死因を、うやむやに済ましてしまった結果が、死因をはっきりと申告しなかった。

平賀源内の投獄とは?

史実での投獄の理由は、大工と口論して、カッとなって相手を殺してしまったこと、殺人罪です。

カッとなったのは、口論しただけではなく、この頃の平賀源内は、事業に失敗し金銭的に苦労もしていたので、おそらくむしゃくしゃして?の犯行だったのでしょう。

それも、「人を殺してしまった」と自ら名乗り出たのですから、本人はかなり後悔していたのでしょう。

「べらぼう」では、平賀源内投獄の史実を、徳川家基(次期将軍)の死とそれに関する陰謀計画が影にある、という物語にしました。

徳川家基が、狩りで、亡くなり、その時使っていた、皮の手袋に毒が塗られていたかも、という疑惑から始まった事件です。

田沼意次が毒を塗った手袋を贈った犯人と疑われ、その真相解明に平賀源内を使いました。

平賀源内は真相を突き止めたのですが、真実の探究を妨害したいものが、源内の逮捕、それに続く獄死という形に持っていき、真実の露見を免れた、という次第です。

「べらぼう」の物語、終盤になって、ドラマがまた推理もの風になり、「べらぼう」に最後の緊張感を持たせています。

投獄平賀源内、ドラマで生存?

ここで、平賀源内が登場した、過去の二つのドラマを取り上げてみます。

こちらの場合からも、平賀源内の生存、そしてもう一つは、平賀源内の偉業が扱われています。

平賀源内、「大奥」の場合

人々の記憶に新しいのは、2023年 NHKドラマ10 「大奥」で、鈴木杏が演じた 平賀源内でしょう。よしながふみ 原作の漫画「大奥」のドラマ化です。

この平賀源内は、確かに牢獄で病死し、それを看取る友人(黒木)がいました。

この時、平賀源内は、日本中に流行する、男子のみにかかる赤面疱瘡の治療法をを研究中でした。

その治療法の手掛かりを探して、黒木の息子が平賀源内の痕跡を見つけます。

それが、平賀源内 考案の竹とんぼで、竹とんぼを見つけた村から、赤面疱瘡の予防、種痘に当たるもワクチン作成を確立させるのでした。

竹とんぼを見つけた村は、マタギのすむ村、というので、東北に近いあたりでしょう。

竹とんぼと、東北の村が、平賀源内の伝説へのオマージュとしたのだと思います。

この設定は、平賀源内の墓がでた(?)と噂される、庄内(山形県)あたりも含んでいます。

平賀源内、「びいどろで候」の場合

1990年のNHKドラマ「びいどろで候〜長崎屋夢日記」では、平賀源内 仕事の時代を扱ったドラマです。

このドラマは、1771年にNHKで放映されたドラマ「天下御免」(平賀源内が主役)の後日談を、パラレルワールド風に作り上げた、パロディ風ドラマです。

このドラマの中で、平賀源内はひっそりと生きており、妻と娘を持って、妻が営業する宿屋の2階隠し部屋で、生活している、という設定です。

このドラマは、史実の斜め上をいくドラマですが、「平賀源内は生きている」を取り入れたドラマです。

平賀源内 役は 「天下御免」と同じ、山口崇さんでした。

山口崇さんは、2025年4月に永眠されました。

「べらぼう」で平賀源内が獄死した回の放映日は、2025年4月20(日)でした、全く関係はないのですが、なんとなく感慨深い思いがありました。

まとめ

平賀源内は、獄死したのではなく、他の土地で生き延びていた!そんな伝説はたくさんあります。

「べらぼう」では相良凧の出現から始まります。

果ては蝦夷地まで行った、というのだから、相当スケールの大きな人物だったことが伺えます。

ここでは、平賀源内の投獄の理由、そして死へ至った真実をもう一度思い出し、再び平賀源内の生存説の意味を考えてみました。

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