平賀源内は、2025年「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」に、登場します。
同時代の人物だったのですね。
平賀源内も、蔦屋重三郎も当時の誰もが思い付かなかった、ことをやってのけます。
何をやったのか?
老中 田沼意次という、幕府の改革に燃える人に出会ったのも幸いでした。
平賀源内の才能ぶりを、調べてみました。
平賀源内は蔦屋重三郎とどんな関係?
平賀源内(ひらがげんない)は蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、または蔦重)と接点があったのでしょうか?
大河ドラマ「べらぼう」の中では、平賀源内(この時、見知らぬ人という設定)から急に現れる、という流れでした。
実際でも、付き合いがありました、これは吉原で出された出版物の中から、わかってきます。
蔦屋重三郎が、平賀源内を起用したのでした。
それは、私たちが知っている、発明家 平賀源内としてではなく、ライターとしての平賀源内の起用です。
平賀源内は、1780年に52歳で、牢獄で死亡しますが、その時の蔦屋重三郎はまだ30歳ほどで、駆け出しの身の上でした。
1774年、蔦屋重三郎は、地本問屋 鱗形屋(うろこがたや)のもとに雇われており、「細見嗚呼御江戸」(さいけんああおえど)という吉原細見の出版に関わっていました。
吉原細見(よしはらさいけん)というのは、吉原の遊女一覧表、を載せた吉原案内(ガイドブック)でした。
この「細見嗚呼御江戸」の序文を書いたのが、平賀源内だったのです。
どんな序文だったか、というと
「女衒、女を見るに法あり。一に目、二に鼻筋、三に口…」で始まっています。
これは遊女になる女性を見つける時の、目をつけるべき箇所を述べて、
次に「四に生え際、肌は固まった脂のように白くなめらかで、歯は瓢(ひょうたん)の種のように綺麗に並び…」
「どんなに見かけの悪い女でも、引け四つの時刻にあまっている女は一人もいない。そんな器の広いのがお江戸なのだ」と締めくくっています。
この文章は、読者から絶大な人気がありました。
人を惹きつける、文章力があったから、だと思います。
この女性に対する表現は、遊女だけでなく、美女全てに通用する条件だとは思いますが、お客がつく、のはやはり遊女ならではの表現ですね。
しかし、ひょうたんの種を調べてみると、白く綺麗なものには見えません。私たちが見られるのは、植えるために、乾燥させた種しか見たことがないからでしょう。
ひょうたんの中身から直接取り出した種なら、みずみずしい白色なのでしょう。
歯が美しいのは、どの時代でも美人の条件ですね。
平賀源内は「べらぼう」でどんな活躍を見せる?
平賀源内は「べらぼう」に初回から登場しています。
初回は、1773年という設定です。
どこからこの年代が出てきたかというと、ドラマ内で大火(明和の大火)があり、その年代は1771〜72年あたりです。
ドラマの舞台は、明和の大火から、一年半後の、設定がされています。
そこで、平賀源内は、名前が明かされていない人物としての登場です。
1773年というと、平賀源内は45歳、晩年が近くなってきています。
平賀源内は、蔦重から勧められて宣伝を書くようになります。
すでに、のちに平賀源内の名を有名にした、発明のほとんどや、エレキテルは存在していましたが、蔦重は知らない様子でした。
でも名前だけは知っていたのかも?
平賀源内と田沼意次、どんな関係?
平賀源内はさまざまな発想を持つ人物です。
その発想ぶりに、老中 田沼意次は、惚れ込んでいる、というのが「べらぼう」での設定です。
平賀源内の活躍ぶりは、田沼意次があってこそ、そういう関係でした。
平賀源内、田沼意次に重宝された?
実際、田沼意次は、幕府の財政を安定させる構想の一環に、平賀源内を加えていました。
田沼意次は国の発展のためにこれから必要なのは、蘭学を取り入れ、それと一緒に、西洋からの輸入品を入れ、商業経済の発展を目指すことでした。
そのためには、平賀源内という人物は非常に、田沼意次にとって役にたつ人物だったわけです。
平賀源内は、田沼意次にさまざまな発明品を献上しています。
例えば、耐火性のある石綿(アスベスト)、鉱山の開発などをして、幕府にも貢献していました。
これまでの常識を超えた能力を持った二人の出会い、ドラマチックですね。
「べらぼう」でも、二人のタッグが見られそうです。
平賀源内と田沼意次、どこで出会った?
これについては言い伝えがあります。
それは、田沼意次が、町人だった女性を側室にしたいと思ったのですが、身分ちがいで難しい、ということが、始まりでした。
身分違いの結婚(?)を、うまく取り持ったのが平賀源内だった、というのです。
平賀源内は、その女性を医者の養女にして、身分を上げたことで、田沼意次の側室として釣り合うようになったのでした。
医者、ということは、武家ではないので、まだまだ田沼意次のような家にとっては、女性の身分は不足していたかと思いますが、完全な町娘よりは格が上、ということなのでしょう。
私の全く憶測ではありますが、
池波正太郎の小説「剣客商売」に出てくる、主人公の息子が、田沼意次の妾腹の娘と結婚しますが、その女性が、平賀源内が世話をした「身分違い」の女性、という気がするのですが。
平賀源内と親しかった医者とは?
千賀道有(せんがみちあり)が挙げられます。
のちの「解体新書」のことを考えると、杉田玄白(すぎたげんぱく)と言いたいのですが、平賀源内のまず第一の知り合いの医者、といえば千賀道有、の名が上げられます。
千賀道有こそが平賀源内を田沼意次に引き合わせたのではないか、と思われるところがあります。
1955年に作られた「台東区史」、そしてフィクションではありますが、平岩弓枝(ひらいわゆみえ)が、田沼意次のことを書いた小説「魚の棲む城」の中から伺えます。
特に「台東区史」では、平賀源内と千賀道有が親友同士、ということが触れられています。
平賀源内が、千賀道有と知り合いなのも、どこか他の人からの紹介だった、ということですが、平賀源内は、非常に運がいい人なのでしょう。
千賀道有が、田沼意次を岡場所(遊女宿)に連れ出していた、田沼意次の愛妾が千賀道有の幼女であった、というところから、
平賀源内が、田沼意次のために、養女の立場を斡旋したのが、平賀源内であったのでは、ということを、私は憶測しています。
千賀道有との友情から、のちに平賀源内が死んだ時の謎が生じるのですが、それはまた別の記事で書かせていただきます。
平賀源内、何をした人?
科学的なところから、文学的なところまで、なんでもやってのけた人、と言うことができます。
平賀源内は、本草学者(薬草学者)、蘭学者、地質学者(鉱石、鉱山に詳しい)医者、戯作者(げさくしゃ、物書きのこと)、俳人、蘭画家、発明家、
と、肩書きは、10ほども上がってきます。
科学にも、文学でも有名になった、平賀源内は、江戸時代中期の天才なのです。
一番わかりやすいのは、エレキテルを作った人、という言われ方ですが、実際はそうではありません。
はっきりと、何をした、といえないところが、平賀源内のスケールの大きな人間像を見せている、と思うのです。
平賀源内はコピーライター?
平賀源内の一面はコピーライターで、日本で初めてのコピーライターと言われています。
どうしてでしょう?
それは、文章の構成が上手だったからです。
商品の紹介を、自分の欠点をまずあらわにするところから、そして、商品を使うと効果があるか、などを織り交ぜながら、人々の興味を惹きつける手法を取りました。
この宣伝方法は現代でも、使われています。
平賀源内、コピーライターの仕事を受けた理由
初めて書いた、コピーの仕事は、歯磨き粉の宣伝でした。
平賀源内は、一応武士。武士がそんな仕事をするのかな?と思うのが現代の私たちですが、
人は食べるためにお金を稼がなければなりません。
平賀源内は下級武士で、江戸では浪人でした。
当然、食べていくためには何かしないといけなく、与えれれた仕事がコピーライティングでした。
まず、人の不幸、損をしたことなど、人の興味を引くところから話を始めます。
平賀源内がどんな、コピーを書いたかが、「飛花落葉」(ひからくよう)に乗っています。
1783年、平賀源内の死後に編集されたものです。
「嗽石香」と言う商品ですが、
「はこいり はみがき 嗽石香 はをしろくし口中足き匂ひをさる」と言うもので、
宣伝は、芝居のような口調で、
「様々な薬種を調合して、歯を白くするものを作ったものの、この歯磨き粉、はっきり言って、効くかどうかわかりません。
取り合えず売り出してみることにしました。仮に効き目が感じられなくても害はないでしょう。
うまくいけば、表通りに店を構え看板を輝かせて見せましょう」
本音をさらしての宣伝でした。
平賀源内、宣伝商品、売れる!
宣伝の効果は、こんなに本音を語られちゃたまらない、ちょっと買ってみますか、と聞く人にその気を起こさせたようで、
江戸庶民は買ったということです。
商品の良いところをアピールするのではなく、不安な面、マイナスとも取れる面を正面に出すコピーは、江戸庶民の性格を知った上ならではのことです。
江戸庶民の特性を掴んだ平賀源内のかんどころの良さを、アピールした、と思います。
平賀源内はうなぎ好き?
土用丑の日にうなぎを食べるのは日本文化である、こう思っている人は多いのではないでしょうか?
ある意味ではそうですが、「土用丑の日にうなぎを食べよう」と言う宣伝文句を考えた、と言われているのが平賀源内です。
平賀源内がコピーを書いてから、日本では、現代でも夏の土曜丑の日にうなぎを食べるようになったのです。
「言われて…」と言ったのは、平賀源内が、土用丑の日のキャッチをかいた、と言う資料が残っていいません。
「土用丑の日のうなぎ」に関する文献が、どれも平賀源内の死後に書かれたものばかりだからです。
平賀源内なら、こんなコピーを書くと、考えられたからです。
なぜうなぎを夏に宣伝しなければならなかったか、と言うとうなぎは本来、冬が美味しいもので、
夏になると、うなぎは旨身も減って、味はイマイチで、暑いし売れ行きが落ちるので、鰻屋は困っていました。
土用のうなぎはともかく、平賀源内がうなぎについて書いたことがあるのは事実で、
「江戸前のうなぎは、(平賀源内が)旅の途中で食べたうなぎよりはるかに美味しい」
「うなぎは黒江町が有名」と言うことを、吉原のことを書いた『吉原細見』の中で触れています。
黒江町とは江戸の深川にあった町の名前です。鰻屋さんがあるところで当時は知られていました。
こうしてみると、平賀源内はうなぎが好きだったのではないでしょうか?
夏のうなぎは、冬に比べ脂が乗っていない、のですが、その分ヘルシーでそれはそれでいいと思います。
平賀源内はエレキテルを発明したわけじゃない?
平賀源内といえば、エレキテルですが、エレキテル、ってなんでしょう?
実は、摩擦起電気のことです。わかりやすく言うと、静電気発生装置です。
平賀源内、エレキテルを発明していない!
これは、平賀源内が発明したわけではないのです。
オランダで発明された、日本に献上された機械で、1765年には、その存在が知れていました。
エレキテルとはオランダ語 elektriceit といい、意味は「電気、電流」と言うことで
読み方が日本では、エレキテルになったと言うわけです。
ところが、日本で湿度のせいでしょうか?うまく作動しなかったようです。
平賀源内は、オランダ博物学に興味があって、オランダ語の洋書を読んでいたので、elektriceit にも興味があった、と思われます。
平賀源内、オランダ製のエレキテルを手にいれる
平賀源内は、壊れたエレキテルを入手しました。
入手先は長崎で、古道具やからとも、オランダ語の通訳からだったとも言われています。
平賀源内は入手後、修理しようと思ったのですが、無理そうなので断念し、江戸に持ち込み復元をしました。
平賀源内は電磁に関する学問には無知だったようで、電気の発生の仕組みを、陰陽論などに当てはめていました。
これはムチャクチャですね。
平賀源内、エレキテルの復元に成功!
それでも動くようになったから、平賀源内は、アメリカの科学者フランクリンの実験情報を知っていたのかも知れない、と現代では言われています。
アメリカのベンジャミン・フランクリンの雷でタコをあげる実験が行われたのは、1752年。
日本ではアメリカの情報は、鎖国のため、直接に入ってきてはいませんが、オランダを通して、新発見の情報は入ってきていました。
オランダ語で書かれた文章でも、平賀源内は、通訳と親しかったので、知識はあったことが予想されます。
平賀源内は、その時、日本の湿気の多い気候に合わせた作りにしました。
エレキテルの完成には、なんと、6年もの歳月がかかり、復元ができたのは1776年でした。
エレキテルの構造は、見たところ、木製の箱、、内部にはライデン瓶と言われる、蓄電版が取り付けられていました。
箱には、ハンドルがついており、ハンドルを回すと、ガラスが摩擦され、発生した電気が銅線に触れて放電する仕組みです。
平賀源内 復元したエレキテルの末路
せっかく復元されたものなのに、見せ物くらいにしか使われず、そこで終わってしまったのが残念です。
エレキテルは治療のために考案されたデバイスで、平賀源内も治療に役立てたい、と思っていたのですが、かないませんでした。
医療器具としては電気ショックとしての使い方があります。
今でいう、AED装置のようなものでしょうか?と思いますが。
平賀源内は結婚したの?
平賀源内は、生涯、妻を持たなかったため、子孫は残っていません。
なぜかというと、平賀源内は、同性愛者だった、のです。
美形の歌舞伎役者を好んでおり、特に二代目瀬川菊之丞との仲は、周囲に知れ渡っていました。
平賀源内が同性愛者、と言ったら世間の風当たりが強いような気がしますが、
日本の場合は、ヨーロッパのようなキリスト教の教義が主体を占めている世界ではないので、それほど人から後ろ指刺されるようなことではありませんでした。
日本文化は寛容な文化だと思いますね。
「べらぼう」とは違いますが、2023年に、NHKで放映された男女逆転の「大奥」では、女である平賀源内は、やはり女性の田沼意次に、恋心を寄せていましたね。
「大奥」で平賀源内の、性質をある程度描き出していた、といえます。
平賀源内の生い立ちは?
平賀源内は、讃岐下級武士の生まれでした。
平賀源内の出身地
平賀源内は、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の出身で、1728年の生まれです。
白石家の三男で、この家の先祖は、高松藩の足軽でした。
白石、とは言いますが、足軽時代の先祖は1500年代にさかのぼり、その時期は「平賀」という姓でした。
戦国時代に武田氏に討たれ、残りの家族は伊達藩に仕え始めます。
その時に移り住んだ地が、奥州の白石で、その時に姓を「白石」に変えた、ということです。
その後、伊達家の分家が伊予宇和島藩の藩主になったときに、白石家も一緒に伊予理、讃岐までいき、農業を営む、下級武士でした。
平賀源内の父は、藩の蔵番という、米蔵の管理の仕事をしていました。
平賀源内、幼少期から才能発揮!
平賀源内は子供の頃から、人を驚かせることが好きでした。
例えば、天神様が書かれた掛け軸に細工をして「御神酒天神」を作り評判になりました。
掛け軸の紐を引くと、天神様の絵が、お酒を飲んだように真っ赤に変わる、という変わり絵です。
天神様にそんな仕掛けをするなんて、罰当たり?とも思うのですが、
これは出来が良かったからでしょうか、周囲もびっくりして笑ってみていましtあ。
平賀源内の、面白いものを作り出す才能が注目され、藩医のもとで、本草学、や儒学を学ぶことができました。
本草学とは、植物学ということですが、江戸時代では薬草を中心とした学問を指していました。
平賀源内、長崎に行く!
父の死後、1749年 平賀源内は父の跡を継いで、藩の蔵番となります。
1752年にはついに、長崎に遊学となり、長崎で本草学、オランダ語、医学、油絵を習得します。
薬草関係と医学、オランダ語はお互い関係ありますが、油絵はちょっと違うような気がしますが、おそらく平賀源内が、長崎で非常に興味を持ったからでしょう。
留学、と言わずに遊学となっているから、藩から派遣された留学生というのではなく、おそらく平賀源内が、無理を言って、長崎に勉強に行くと決めたことなのでしょう。
とにかく、平賀源内は、勉強好きだったのでしょうね。
藩のほうも、平賀源内の才能に気がついていたからこそ、遊学を許したのではないかと思います。
長崎での勉強を終えて、平賀源内は、讃岐藩に帰り、元の職に復帰するところなのでしょうが、今度は藩の役目をやめて、家督を妹夫婦に譲り、
自分は再び、京都に勉強に出かけます。
平賀源内、江戸へ!
1756年、平賀源内はついに江戸に行きます。
江戸では、本草学を再び学び、漢字の習得にも務めました。
その後は、再び長崎に遊学し、鉱山の採掘や、とれた岩石の精錬のことを学びました。
ここで、平賀源内は、伊豆で鉱床(鉱山ほど大規模ではないが、鉱物の成分を大量に含んだ土地)を発見し、鉱物のブローカーになる、物産博覧会を開くなどし、知名度を上げました。
知名度が上がったところで、田沼意次と知り合っていくこととなります。
まとめ
ここでは、平賀源内の、普通でない興味などについて説明してみました。
しかし、平賀源内はまだまだ、これだけでの人生ではありません。
発明もあり、戯作も書くなど、非常に多様性のある人物です。
「べらぼう」の中でも大暴れして、私たちの目を楽しませてくれそうです。
平賀源内のここでは書ききれない魅力を、別の記事にて書く予定でいます。
どうぞお楽しみに!
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