徳川将軍家の、後継者 徳川家基が、2025年 NHK大河ドラマ「べらぼう」に登場します。
せっかく登場したものの、18歳で死亡しますが、暗殺の疑いが?
暗殺ならば、犯人は誰?
若いながらも、父に従い日光の社参に向かいます。
ここでは、聡明な面を見せ期待を集めながらも若くして死んだ、将軍となるべき人だった徳川家基について、憎まれる人物か、そうでないか、そして死の真相を調べてみました。
徳川家基、暗殺?
10代目徳川将軍 家治の息子と生まれ、次期将軍と言われながらも、若くして死んでしまったのです。
急死ですが暗殺の証拠は上がっていません。
鷹狩りに出かけ、急に体調不良となり、突然命を落とすという結末でした。
徳川家基、暗殺の噂はなぜ?
急な死は、何かがあったのでは、という疑惑を、幕閣の中や庶民の間に起こします。
歴史学者 竹内誠(たけうちまこと)氏は、徳川家基について書かれた文書を調べていましたが、そこから分かったことは、
徳川家基は、とても元気で、病気の記録もなく、ひと月に2回、狩に行くほど体力があって健康でした。
亡くなった月は2月後半ですが、2月の前半にも鷹狩りに出かけていたほどでした。
そん良好な健康状態の人が急死したものだから、毒殺の噂が出てしまうのです。
さらに家基の産みの母まで、暗殺を信じてしまっていたので、暗殺の疑いが広まっていました。
現代でも、健康な若い人が急死するケースがあるので、徳川家基の場合は必ずしも他殺、とは言い切れない、と思っています。
徳川家基の暗殺犯人、もう一人の候補者は?
暗殺の犯人として疑いのかかったものは、二人でした。一人は、田沼意次、田沼意次犯人説については下記に書きました。
もう一人は、一橋徳川家の徳川治済(はるさだ)が噂に上りました。
治済は自分の息子 家斉(いえなり)に将軍家を継がせたかったから、ということですが、こちらも証拠がないことですので、なんともいえません。
ですが、気になる情報もあります。
それは、将軍になった第11代将軍になった家斉は、徳川家基の命日には必ず自ら、墓参をしていたことです。
自分がどうしてもいけない時は、若年寄りなど、身分の高い臣下に行かせて。
墓参は晩年になっても続けられましたが、血縁関係がそんなに濃くない間柄なので、異例のことなのです。
その真意は語られないままです。
もう一つ、家斉は重病にかかったことがあります。
その時は、家基の祟り、とまで言われたことに驚き、回復後に木像を作らせて、寺に奉納しました。
これだけ、丁重に菩提を弔っているとなると、もしかしたら、父親 一橋治済の陰謀はあったのかもしれませんよ。
徳川家基の死因は?
家基の死の場面は、鷹狩りの最中に落馬のことはあまり書かれていなく
帰りの途中に寄った品川 東海寺で休息中突然、腹痛を起こし、急遽江戸城に帰ったところ、治ることなく3日後に亡くなった、ということでした。
こういう記述があるだけで、どんな病気かについて書かれている史料はありません。
史料がないからこそ、毒殺、暗殺の噂が囁かれるのです。
とはいうものの、暗殺・謀殺の証拠も何一つありません。
死因のことを、もっと幕末になってから日本に来た、オランダ人学者シーボルトが次のように「日本交通貿易史」に書いていました。
徳川家基がオランダから輸入した馬(アラブ馬だったらしい)に乗っていて、落馬事故で死亡した、ということでした。
しかし、シーボルトが日本にやってきたのは、1820年以降なので、シーボルトにとって50年ほど前の事件をどうやって考察することができたのか、これまた謎ですね。
徳川家基の享年は?
徳川家基は、18歳で亡くなりました。
18歳というと、今日では16歳ほどですが(数え年のため)、将軍職にについても大丈夫な歳ですね。
戦国時代や、徳川時代の創設期なら、不安を感じさせる年代ですが、もはや、しっかりした青年になりつつあったので、いつ将軍になっても、オーケーというところまで成長していました。
1779年 2月24日が命日です。
徳川家基、田沼意次との関係は?
実は暗殺犯人の候補として、田沼意次の名前が上がっていました。
徳川家基と田沼意次の関係は、生まれる前からのつながりがあり、二人の関係が良好であれば、良いのだけれど、そうでない場合は確執になることが、予想されます。
その確執があったからこそ、田沼意次は家基暗殺の黒幕と思われたのでした。
では、生まれる以前からのつながり、そしてその決裂を上げてみましょう。
徳川家基が生まれたのは、田沼意次のおかげ?
10代将軍 徳川家治には男子が生まれませんでした。
御台所(徳川将軍家の正室のこと)に、女子が生まれただけでした。
そこで、将軍に側室を持たせることにしましたが、そこで活躍したのが、田沼意次でした。
田沼意次は、大奥にコネクションを作っていて、側室も大奥お中臈の中から選びました。
田沼意次が認めた女性が、側室となり、生まれた男子こそが、竹千代、のちの徳川家基でした。
ですから、徳川家基は、田沼意次のいうことをきく将軍になるはずだったのです。
そのために、田沼意次は、徳川家基を誕生させた、のですから。
徳川家基、田沼意次に反対した?
田沼意次が、次期将軍へと育て上げた、徳川家基が、自分を批判するようになるとは思いもよりませんでした。
徳川家基は、田沼意次の政治に批判的でした。
それは田沼意次の賄賂を受け取るやり方に反対と、口にしていました。
潔癖な人柄だったのではないでしょうか?
徳川家基は文武に優れている様子を、幼い頃から発揮しており、成長してくるにつれ、政治に関わる姿勢を見せていました。
なぜ、徳川家基暗殺の疑いが、田沼意次にかかった?
なんといっても、田沼意次に批判していたことが上げられます。
それに、徳川家基は、聡明だったので、将軍になった時に、田沼意次は自分の地位を失うかもしれない心配があったから、と推測されていました。
実際には、田沼意次が、そのような暗殺に及んだ、という証拠は何一つ出ていません。
田沼意次が、江戸中から嫌われていたのと、家基死亡の時期が同じだったので、どうしても疑いが田沼意次にかかってしまうのですね。
噂は、田沼意次の政敵が広める、ということもあります。
田沼意次は嫌われていたので、これを機に政界から追い落とそう、と考える人たちがいました。
また、疑いがかかった理由の一つには、田沼意次が医師を雇った、というところにあります。
家基の死に繋がった、2月の鷹狩りに、田沼意次は、池原雲伯(いけはらうんぱく)という医師を推薦して、狩りに同行させました。
その医師に、頼んで徳川家基を毒殺させたか?という疑いがあります。
この医師の加わるエピソードは「続三王外記」に出てくるのですが、しかしこの史料は内容全体が、疑わしい、と現代の歴史学者たちは見ていますので、この説は当てになりません。
徳川家基、とは?
徳川家基は、1762年生まれで「竹千代」という幼名をもらいました。
「竹千代」という名前があたえられた、ということは後に将軍の後継者になる、彼が徳川家のしきたりでした。
しかも元服後は、「家基」という、「家」の字を与えられた名前が付けられました。
徳川家の代々の男子たちで、「家」がつく名前を与えられて、将軍にならなかったのは、「家基」ただ一人です。
そのため、徳川家基は「幻の11代将軍」と呼ばれています。
徳川家基は日光社参をするのか?
徳川家基は、日光東照宮の社参を望んでいる様子が、「べらぼう」の中で見えました。
それは老中の一人、松平武元の口から告げたことからです。
また、徳川家基が、日光東照宮に参拝するシーンが、佐伯泰英 作の小説「居眠り磐音」の中に描かれています。
家基は、日光社参を行ったわけですが、これは自らが主となって行ったのではなく、父 第10代将軍 家治が社参をしたのに、同行した、ということです。
日光社参とは
徳川幕府初代将軍 徳川家康の命日に、日光東照宮を参拝することです。 日光東照宮は、徳川家康の墓所ではなく、御霊が収められた場所、で徳川家の墓所と同じだけ礼拝の対象となっている聖地です。 日光東照宮を参拝する(これを社参と言う)人物は、将軍、または将軍を引退した 大御所、または将軍の後継者となる 大納言となっています。 参拝の日は、徳川家康の命日、4月17日 と決まっています。 |
日光社参は、将軍でだけでなく、大名・旗本たちも、共を連れて参詣に加わるので、物すごい行列になります。
小説「居眠り磐音」の中の、徳川家基はさっそうとしてすごくかっこいい、騎乗ぶりを見せています。
今回、べらぼうでも、そんな姿が見られるといいですね。
徳川家基の母は?
徳川家基の母は、生みの親と育ての親の二人いました。
生みの母は、(お)知保の方。または 智保 とも書きます。
知保の方は、家基の父 徳川家治の正室ではなく、側室でした。
家治になかなか後継者となる男子が生まれなかったので、田沼意次が側室案を出して、選ばれた女性が 知保の方でした。
その男子が、家基で、将軍となる運命を背負わされたように付けられた、幼名は竹千代でした。
そうなると、徳川家の正式な息子となるわけだから、今度は生母の元から離されて、正室(将軍家では御台所と呼ばれる)五十宮倫子(いそみやともこ)のもとで、養育されます。
まさに「腹はかりもの」の通りですね。
正室のもとで育てる、ということは、子供の体裁を整えることがいちばんの目的です。
将軍といえば、武家社会のトップですので、母の身分も重いものでなければならない。
家基誕生の翌年(1763年)から引き離されましたので、生みの母 お知保の方からすれば辛いことだったでしょうね。
ですが、五十宮倫子も1771年に亡くなり、再び、生母 お知保の方の手元に家基は戻りました。
徳川家基、妻はいた?
徳川家基はなくなった時、18歳(数え年16歳)と非常に若いので、結婚はまだだろう、と推測していましたが、やっぱりいません。
正室を持つこともなく、側室も持ちませんが、正室の候補はいました。
種姫という名で、父親は、田安家 徳川宗武、兄は 松平定信です。
1765年生まれで、11歳の時、徳川家治(第10代 将軍)の養女になります。
おそらく、時期将軍の徳川家基と結婚させるため、と噂されました。
この縁談は、はっきりと決まった話ではなく、田安宗武の未亡人 宝蓮院(ほうれんいん)と、賢丸(のちの松平定信)が計画してた話でした。
しかし、将軍の正室は、江戸時代に入った時から、天皇家に連なる姫(天皇の娘か、その血縁にある有力公家の娘)と決まっていました。
ですから、徳川の血縁とはいえ、武家の娘が将軍の正室(御台所)になることは、論外だったので、田安家の方が、強く主張してきた話、ということになります。
それだからこそ、養女という立場から入ったのです。
養女、となれば、家基とは義理の兄妹。きょうだいでの結婚は不自然ということになりますので。
いざとなったら、結婚できない、という立場になるからです。
しかし、家基は、1779年に急に亡くなり、当然この縁談は、消えます。
家基と種姫、両方とも結婚の意思はあったかどうか、は知ることができませんが、江戸時代の格式のある家柄に生まれた人ならば、
家のために結婚する、ということはすでに意識にあったものと思われます。
結婚は好意があるかどうかは、関係なく家と家との関係だけで決められていましたから、後世の私たちから見て、悲恋ということではなかったと思います。
むしろ、悲恋であった方が、歴史上に残ったかもしれませんね。
徳川家基、「べらぼう」での活躍は?
徳川家基は、NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺」で活躍を見せそうです。
これほど、徳川家基をしっかり描いた、ドラマはこれまでなかった、との前評判なので楽しみです。
「べらぼう」では、奥智哉さんがキャスティングされています。
幼い頃から聡明、という設定は、奥智哉さんの、顔立ちによく現れています。
徳川家基は死亡し、その犯行の疑惑が田沼意次にかけられました。
田沼意次はさらに家基の父、家治の死にも関わった、という噂が流れます。
二つの噂が、田沼意次 失脚のきっかけの第1歩となり、田沼失脚は「べらぼう」の主人公の運命を変えていくのですから、徳川家基は大切な人物ですね。
まとめ
これまでのドラマでは、徳川家基はナレーションと本の数シーンが登場するだけ、というものが多かったような気がします。
ここでは、家基の死の場面も出てくると思われます。
「べらぼう」内では「ナレ死」(死亡をナレーションだけで終わらせること、「真田丸」以来、増えてきている手法です)はやめてほしい、と思う次第です。
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