2026年 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の主役、豊臣秀長の妻にここで取り上げてみました。
名前はなんと言ったのか、どういう家の出身なのか?
残されている少ない史料から推測していくことしかできませんが、妻の助力なしの豊臣秀長はありえない、と思われます。
そこで、ここでは妻が、豊臣秀長にとってどんな存在だったかを、調べ上げてみました。
いったい、どんな妻だったのでしょうね?
豊臣秀長の妻は誰?
現在、豊臣秀長の妻、と言われている女性は「慈雲院」(じうんいん)と言われています。
京都の誓願寺に豊臣秀長の菩提を弔う柱があり、それを奉納した人の名前に「慈雲院殿」とあり、その人物が妻だったのでは、という見方がされています。
院号はもう一つ説があり、「智雲殿」(ちうんどの)ともあります。
「智雲殿」と言う説は、大和にある豊臣家墓所に、妻が建立したと言われる「智雲院」と言う宝塔からきています。
「慈雲院」の方は法名から来ており、「慈雲院殿芳室紹慶大禅定尼」です。
しかしわかっていることはこれだけで、本名、その父母については、知られていません。
戦国時代の女性は、あまり名前などが残っていないことが多いです。
というのも、歴史は男性の戦いによって作られてきた、と過去には思われており、女性の名前そのものは重要とされていなかったからでス。
豊臣秀長の妻の父とは?
豊臣秀長の、妻の出身家に関してはいくつか説があります。
武士の娘という説と、大和郡山の豪族の娘、という説です。
豊臣秀長の正室、武士の娘
豊臣秀長は、1566〜67年頃に結婚したのではないか、という推測があります。
それは、秀長には子供がいたのですが、その子は早いうちに亡くなっており、それが1582年あたり、と言われています。
そこから、逆算すると、1566年あたりという年代が結婚したらしい、となります。
そのころの豊臣秀長は、織田信長に仕えていたので、秀長と同じ信長の直属の家臣の娘の可能性があります。
戦国史研究の歴史家 和田裕弘は、秋篠伝左衛門(あきしのでんざえもん)では、とみています。
が、違う歴史家は、秋篠伝左衛門を、豊臣秀長のもう1人の妻の父、とみています。というのも、秋篠伝左衛門は、秀長の家臣、としているからです。
しかし、この秋篠伝左衛門の存在は実在が証明されていません。
豊臣秀長の正室の父、大和の豪族?
大和というのは大和郡山のことで、そこを豊臣秀長は治めていました。
ということは、大和郡山出身の豪族の女性の可能性が考えられています。
大和は古くから神社・仏閣の勢力が強く、支配者階級とのつながりがあるため、豊臣秀長は、大和郡山を無事納めるためには、彼らとつながる必要がありました。
戦国時代は、自分が土地を納める場合、治世を滞りなく進めるために、地元の有力者と婚姻を使うことは、よく行われていました。
地元の女性と結婚することで、新しい領主(夫となった人)と地元とのコミュニケーションがスムーズに行われるようになるからでした。
豊臣秀長の妻の名は 「慶」!?
豊臣秀長の妻を「慶」(けい)としているのは、2026年大河ドラマ「豊臣兄弟」でのネーミングです。
では、「慶」の名前はどこから来たか?というと。
それは、和歌山県にある高野山金剛峯寺 奥の院(こうやさんこんごうぶじおくのいん)にある「豊臣家墓所」の智雲院 五輪の塔に刻まれた
「慈雲院芳室紹慶」(じうんいんほうしつしょうけい)の最後の文字「慶」からとって、名前としたようです。
でもこれは、スタッフが適当にえらんだのではなく、人の死後に仏教でつけられる名前は戒名といい、故人の名前を一語入れることになっているから、その例にならったということでしょう。
豊臣秀長の「妻」が登場した大河ドラマ
豊臣秀長の妻 の存在は、謎ですが、過去のNHK大河ドラマには、登場していました。
「豊臣兄弟」は秀長の妻が、はっきりと登場した、3作目のドラマです。
「おんな太閤記」(1981年)
このドラマの主人公は、豊臣秀吉の妻 ねね(北政所)です。
ここでは、豊臣秀長の妻は「しの」という名前で、田中好子がキャスティングされていました。
「しの」は播磨百姓の娘、で盲目になる、という設定でした。
主人公 ねね とのからみもあり、存在感のある役柄でした。
ネーミングは、創作した感が強いですが、豊臣秀長の妻、について書き込んだ作品でした。
「江〜姫達の戦国〜」2011年
豊臣秀長の妻は登場はしましたが、名前はこの番組では付けられていませんでした。
「豊臣兄弟」2026年
このドラマは、豊臣秀長の妻がはっきりと登場する、第3作目のドラマということになります。
「豊臣兄弟」では、『兄嫁 の寧々(ねね)と共に、豊臣兄弟を支える存在となる』と紹介されています。
それはやっぱり、「豊臣兄弟」の主人公が、豊臣秀長であるからこそ、奥方を描くのは外せません。
豊臣秀長の妻、どんな人?
戦国時代の武将、特に、一つの国を任された武将の妻の役割は、夫が国をきちんと治められるように支えることです。
だからこそ、豊臣秀長が治める国 大和の有力者の娘である必要があった、ということができます。
豊臣秀長の妻、薬草を上手に使う人?
また、現代の大和の郷土史家は、
「政務に忙しく疲れた夫 豊臣秀長に妻は、薬膳料理、薬湯を出していた」と、言う伝承がある、と言う話をしています。
大和国は、神社、仏閣の多いことから、薬草療法も盛んなところです。
大和・神社仏閣・薬草を結びつけた説です。
このような伝承から、豊臣秀長の妻は、大和出身の女性と想像することができるのです。
豊臣秀長の妻、寧々と仲がいい?
寧々(ねね)とは、豊臣秀吉の正室です。
寧々は、豊臣一門をまとめる役割がありましたし、統率能力も高い女性です。
豊臣一門の武将達をまとめるには、まずその妻達とコミュニケーションを図るのが近道です。
特に、弟である豊臣秀長の妻とは特に親密にしていたのではないかと思われます。
これは伝えられていることでしたかありませんが、
秀吉は、秀長について、
「秀長の妻はもっと、〜という家を築いて欲しい」、「秀長の妻は、もっと華美にするべき」と絶えず口を出していた、と言うことです。
ここから見ると、寧々は、秀長の妻を可愛がっていたことでは、と私は思います。
そして、豊臣秀長の妻は、質素で表に出張ることがあまり好きではなかった人なのかな?と推測しています。
豊臣秀長と、妻の仲は?
豊臣秀長とその妻の仲が、特に良かった、あるいはそうでなかったかは、はっきりとはわかっていません。
ただ、豊臣秀長は1591年1月22日 52歳で亡くなっており、妻の方が長生きしています。
豊臣家墓所 智雲院には、智雲院 本人が1591年6月27日に、自分の生前葬を行った形跡があります。
供養等をたて、そこには天正19年5月7日(こちらや旧暦で、現代暦でいうと1951年6月27日)「逆修」(ぎゃくしゅ)、と名が刻まれています。
5月7日は、豊臣秀長の百箇日に当たる日でした。
逆修は生前葬、と言う意味であるので、妻は夫を見送って百箇日を済ませて、自らの供養もした、と言うことです。
身分の高い女性は、平安の昔から江戸時代頃まで、夫が亡くなると、髪を切り仏門に入る、と言うしきたりがありました。
豊臣秀長の妻の、その例にならったのですが、一緒に生前葬まで済ます、と言うことは、夫に対し強い愛情を持っていた、と言う証拠だと思えます。
豊臣秀長、側室はいた?
戦国武将の常として、側室はいたものと考えられます。
豊臣秀長は、正室も側室も名前、などはっきり記した史料はありません。
それは、豊臣秀長に男子が生まれなかったことと関係があります。
戦国武将に子供がいない、と言うことは、その家の後継者がいない、と言うことなのです。
豊臣秀長には、正室も側室にも男子は生まれていません。
女子は生まれていたかもしれませんが、体制に大きく関わる人と結婚しない限り、後世に名を残すことはありませんでした。
「豊臣兄弟」、豊臣秀長の妻、キャストは?
2025年大河ドラマ「豊臣兄弟」で、豊臣秀長の妻の役にキャスティングされたのは、吉岡里帆です。
今回の、秀長の妻の名前は「慶」(けい)。そして夫亡き後、出家した時の名は「慈雲院」です。
ドラマでの、「慶」の役どころは、夫を支え、義姉の寧々とも力を合わせ、豊臣を支えていく、と言うことになるようです。
豊臣秀長は、兄の秀吉をしっかり支えて、天下人にまで押し上げる働きをする人物です。
妻の「慶」は、その秀長をバックアップしていきます。
私としては、豊臣秀長と妻の仲は、豊臣秀吉と寧々以上の仲のよさ、として大河ドラマで、描かれると思われます。
まとめ
豊臣秀長の妻はいまだに謎が多い人物です。
豊臣秀長自身は、兄の豊臣秀吉を弟として、武将として立派に支えた人物ですので、その妻もしっかりした優しい人物?
と、自分をはじめ多くの人が想像していることでしょう。
歴史上の人物が有名になるには、必ず妻並びに家族の協力が必要なのにで、

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