ラフカディオ・ハーン(「ばけばけ」ではレフカダ・ヘブン)は、自分は死んだら「蚊になりたい」と言っていました。
夏の嫌われ者「蚊」なんて、変わっている、と思われますが、きちんと意味があります。
それは、死を悟った者の、切なる願いだったのです。
ハーンは54歳と早すぎる死でしたが、ハーンの生活習慣をみると、相当健康に無理をかける生活でした。
ここでは、作家・ラフカディオ・ハーンの死、そして死生観を徹底的に掘り下げてみました。
ラフカディオハーン、「蚊になりたい」とは?
「僕は無くなったら蚊になりたい。墓参りで友達を刺したい」
これは、ラフカディオ・ハーンが書いた随筆『骨董(Kotto)』の中の「蚊(Mosquitoes)」という作品の一説です。
ラフカディオ・ハーンは仏教思想の人だった?
その文章は
『私(ラフカディオ・ハーン)は、蚊の羽音(ぷーん、という音)を聞くと、痒さを感じる。
もし生まれ変わることがあったら、前世からの因縁で餓鬼道に生まれ変わるくらいなら、(自分の)墓地の水たまりにいる、蚊として生まれ変わりたい。』
でした。
ここで、私が感じたのは、ラフカディオ・ハーンは仏教的思想が身についた人、と思いました。
大きな欲を持つわけではなく、ささやかな、周囲の風景に感動し、生きとし生けるものに愛情を注ぎ、日々感謝の生活を送る人に見えます。
「蚊になりたい」と願うことは、仏教でいう輪廻転生(りんねてんせい)を感じさせます。
輪廻転生とは、死んでも、魂、意識は消滅することはなく、また別の生命の中に生まれ変わってくる、ということです。
身体は死んだのち、神の力で不滅となって蘇る、というキリスト教の死生観とは違います。
ラフカディオ・ハーン、日本人以上に日本的?
ラフカディオ・ハーンは、日本にいる間に、キリスト教より、仏教の方に、その心は傾いていました。
古き良き日本の風習が、西洋化するのを嘆き、耶蘇教(ヤソきょう、キリスト教のこと)の悪い影響だ、と絶えず言っていました。
その点では、日本人以上に日本人になっていました。
ラフカディオ・ハーンは、自分が死んで、「蚊になりたい」ということは、ほんの小さな虫の命をいとおしんだ、ハーンの優しさそして執念がにじみでてくる、言葉と私には感じられます。
執念というのは、魂となっても日本に、そして自分の愛する人たちの近くにいたい、という気持ちの表れです。
実際、ラフカディオ・ハーンは僧侶になりたい、と思うこともあった、ということを小泉セツは書いています。
東京の富久町に住んでいた時、いつも散歩で通り瘤寺(こぶでら)を通る時に、あそこに篭りたい、などど、セツに話ていました。
セツは、僧侶にならないとそれは無理だ、と言ったところ、ハーンは僧侶になりたい、と言ったのでした。
ラフカディオ・ハーン、なぜ「蚊」を選んだ?
「蚊」は人にかゆさをもたらし、どちらかというと夏の嫌われ者、なぜ、ラフカディオ・ハーンは、わざわざ蚊になりたいと思ってのでしょうか?
「お参りに来てくれた人の血を吸いたい」とまで、言っていました。
愛した人たちのそばにいたい、相手に痒さを感じさせることで、自分を思い出して欲しい、という強い愛情だった、と私は感じます。
私が選ぶなら、蝶のような美しい昆虫にしますが、蝶だと相手にインパクトを与えられないのでしょうか?
ラフカディオ・ハーンになりきる?トミー・バトゥ?
「蚊」について、面白いエピドードがありました。
ドラマ「ばけばけ」で、ラフカディオ・ハーンことレフカダ・ヘブン役のトミー・バストゥさんが、オーディションの後、小泉八雲の墓地を訪れたときのことです。
トミー・バストゥさんがが「小泉八雲役を、立派に演じられますように」と祈願した時に、蚊に刺されたそうです。
その時はまだ、トミーは「蚊」の物語を知らなかったのですが、後日、「蚊になりたい」という文章を見つけたときは、この偶然にびっくりしたそうです。
まさに、トミー・バストゥさんは、役柄にピッタリとラフカディオ・ハーンから認められたようなものです。
ラフカディオ・ハーンの死因は?
ラフカディオ・ハーンの死因は、心不全と言われています。
1904年(明治37年)、心臓発作で、倒れてそのまま亡くなります。54歳、でした。
ラフカディオ・ハーンの死因は、心臓疾患!
直接の原因は、狭心症です。
ラフカディオ・ハーンの晩年は、執筆活動が忙しく、かなり身体に無理がかかっていました。
その多忙ぶりは、のちに妻・セツが「思ひ出の記」の中に書き記していました。
ラフカディオ・ハーンは晩年、執筆活動とともに、東京帝国大学(今の東京大学)で講師として活躍していました。
そこを解任されてからは、早稲田大学の講師になりましたが。
昼は、講師、夜が執筆活動だったのではないでしょうか?
片目しか使えないため、残った目に負担がかかり、疲労感も人一倍だったのではないでしょうか?
照はは、1887年には東京で電気の供給が始まっているから、おそらくラフカディオ・ハーンは使っていたことと思います。
ですが、現在の蛍光灯やLEDのような、明るさはまだ登場していなかったので、やはり、夜間の作業は目に負担がかかったのではないでしょうか?
目からの疲労が、心筋梗塞につながった、と思われます。
ラフカディオ・ハーンの食生活が影響?
ラフカディオハーンは西洋料理が大好きでした。
それが、ハーンの病気を悪化させる原因になったのではないでしょうか。
妻・セツは、日本人でしたから、もちろん和食も食べていましたが、「ばけばけ」でみると、ラフカディオ・ハーンは、ビフテキ(ビーフステーキ)大好きでしたね。
ハーンの食生活については、桑原羊次郎著の「松江における八雲の私生活」にあります。
桑原羊次郎は、ラフカディオ・ハーン家の女中・高木八百(たかぎやお)から直接話を聞いています。
その話によると、毎朝牛乳2合、生卵5個を食べていた、というのだから、かなりお腹に負担のかかりそうな朝食です。
昼は和食ですが、夜は必ずビフテキを含んだ、フレンチフルコースでした。
ラフカディオハーンは、40歳あたりから、この食生活を続けていましたから、血液ドロドロ、コレステロールたっぷりの不健康な状態にあったのではないでしょうか。
ラフカディオ・ハーンはヘビースモーカー!
ラフカディオ・ハーンの病状を悪化させる要因のもう一つは、ハーンはヘビースモーカーであったことです。
タバコ、というより、当時の日本は煙管(キセル)でした。
煙管は、タバコの葉を細い管につめて、火をつけて煙を吸うのですが、その量は一度に多く吸えないんで、何本も、リレーのように管を変えて吸っていくものでおす。
ラフカディオ・ハーンはその煙管のリレーのペースが早く、より多くの煙を吸うことになります。
これはヘビースモーカーというより、もはやチェーンスモーカー、と言った方がいいですね。
この煙管の、準備と手入れは、女中の高木八百の役割でした。
ラフカディオ・ハーン、煙嫌いの頑固者?
もう一つおまけに、ラフカディオ・ハーンは、煙管は平気でスパスパ吸うのに、煙が嫌いなのです。
薪を燃やす煙、焚き火などの煙は大嫌い、だから、ラフカディオ・ハーン家の調理に使う火は、炭火のみ、と決められていました。
結構わがままを言っていた、ラフカディオ・ハーンだったのですね。
人はあることに固執すると、頑固になりますね。
医学上、頑固さが心臓疾患の要因になることもあります。
ラフカディオハーンは早稲田大学講師に
ラフカディオ・ハーンは54歳の時に(1904年)、早稲田大学に講師として招か、3月から勤務が始まります。
同年1月に、ラフカディオ・ハーンは東京帝国大学をやめており、短い期間で再就職できました。
ラフカディオ・ハーンが早稲田大学に就職できたのは、妻・セツの実家小泉家の遠縁の人が紹介があったから、という話が伝えられていますが、
それは単なる言い伝え、で、実際は、ラフカディオ・ハーンのこれまでの英語教師としての腕前、それに加えて、作家として評価も高かったので、早稲田大学から招かれたのです。
早稲田大学は、ラフカディオ・ハーンのいた当時は、「東京専門学校」と呼ばれていました。
早稲田大学の創設者、大隈重信(おおくましげのぶ)も、ラフカディオ・ハーンの能力・指導力を認めていた1人です。
ラフカディオ・ハーンが、早稲田大学に招かれたのは、大学理事・鳩山和夫が文部大臣に「教員許可願」を提出していたことで、証明されています。
(鳩山和夫はその子孫が、鳩山威一郎で、その息子たちは鳩山由紀夫、鳩山邦夫という有名な政治家になっていることでも有名です)
ラフカディオ・ハーンは、講師なので、週に数回講義しに行ったということで、フルタイムで働いていたわけでありません。
それでも自分(ハーン)の能力を信じて必要とする人たちがいる、ということは、ラフカディオーハーンにとっても張り合いのあることだった、と私は思います。
ラフカディオハーンが東京帝国大学をやめた理由は?
実在のラフカディオ・ハーンは、朝ドラ「ばけばけ」のレフカダ・ヘブンと、同様、東京帝大を解雇されています。
その理由について、歴史学者の磯田道史さんは、次のようにテレビ番組「英雄たちの選択」で次のように述べています。
- 英文学でなく英語を教えろ
- 日本人教授への交代
- 報酬問題
というところにありました。
特に当時の日本は、世界に目を向け始めたので、文学というものよりももっと実践的な英語の必要性を感じていたようです。
2については、日本もそろそろ本格的に、教育機関に日本の教授陣を置く必要性を感じてきました。
3の報酬については、ラフカディオ・ハーンが「小泉八雲」という日本人になっていた、ということで、日本人並みの低い給与だった、ということもハーンが不満に思っていました。
つまり当時の日本の大学は、日本人の方が給料が低かった、ということだったのですね。
英語の実践さを求める傾向は、私は現代の日本に似ているものを感じました。
現代では、英語は文学よりも英語学そのものの方に目が向けられている、と思います。
しかし、文学に目を向けることは、文学内の登場人物から、多くのことを学ぶことができる、それも作家の心のうち、背景を知ることができる貴重な体験と思うのです。
ラフカディオ・ハーンの後任者は日本人で、文豪・夏目漱石でした。
夏目漱石は、ロンドン留学の経験はあるのですが、実はロンドン生活を「ロンドンは退屈だ」と言っていた人物です。
そういう人物に、英語そして英文学の持つ素晴らしさを、伝えられるかどうか、私は疑問に思っています。
夏目漱石自体は、多くの小説を書いた、見事な作家ではあるのですが。
ラフカディオ・ハーンの晩年は?
ラフカディオ・ハーンの晩年というと、1903年、東京帝国大学を辞めた頃から、と私は見ています。
1904年9月末に54歳で亡くなったのですから、亡くなるほぼ一年前あたりですね。
1896年には、日本人に帰化できて、名前も日本名・小泉八雲と名乗ります。
晩年は、ラフカディオ・ハーンにとって、失望を味わう時期でもありました。
まず、1903年、東京帝国大学を解雇されたとこです。
大学側の事情とハーンの方針が合わなかった、ということなので、ハーンにとっては納得のいく者ではありませんでした。
朝ドラ「ばけばけ」の中では、ラフカディオ・ハーンの渾身の一作「KEAIDAN」がアメリカでの評判は悪かったようですが、
実際はそれほどでもなく、アメリカの知識人・文学愛好者たちの間では、評価を得ていましたので、ドラマで見るような、ハーンの失望ぶりは、なかったと私は思います。
ラフカディオ・ハーンは、次の仕事も決まり、執筆活動と英語講師としての仕事を上手にバランスが取れるような状況にあった、のではないでしょうか。
こうしてみると、ラフカディオ・ハーンの晩年は穏やかなものに見えますね。
ラフカディオ・ハーンのお墓はどこ?
葬儀は、仏式で行われ、遺体は火葬され、東京都豊島区雑司ヶ谷霊園(南池袋)に埋葬されました。
お墓は南を向いており、ラフカディオ・ハーンが冬の寒さが嫌いだったから?と私は考えていいます。
墓には「小泉八雲之墓」と文字が刻まれています。
ラフカディオ・ハーンの墓に向かって左側は「小泉セツ之墓」があり、「小泉八雲」の向かって右側には、「小泉家之墓」があります。
ラフカディオ・ハーン、つまり小泉八雲の法名は「正覚院殿浄華八雲居士」です。
まとめ
ラフカディオ・ハーンの「死」について調べたところ、ハーンは日本人以上の日本らしさを感じました。
「蚊になりたい」などは、まさに日本の自然の中に留まりたい、そして大切な人たちのもとに自分の魂をとどめておきたい。
そんな気持ちが、伝わってきます。
まさに、小泉八雲の、「Kwaidan」の話のようです。
小泉八雲の小説を読むと、そして「ばけばけ」を見ると、自分の日本人としてのアイデンディディが呼び起こされるような気がします。

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