藤原道長の歌は6首、知られていますが、特に有名なのが、この歌・・・
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思えば」
意味は 「この世は全て自分の思うように叶う 満月(望月)には欠けたところがないのと一緒だ」
こんな うたを作る藤原道長、エラソーに見えますね。
現在の私たちからは「おごれるものは久しからず」とツッコミを入れてくなります。
でもこの歌は、道長が威張って作った歌ではない、という説が出てきています。
さて、どんなことなのか、調べてみました。
皆様のお役に立てれば幸いです。
藤原道長、歌「この世をば」はいつ?
藤原道長が、
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思えば」
意味は 「この世は全て自分の思うように叶う 満月(望月)には欠けたところがないのと一緒だ」
のうたを詠んだ時は、1018年10月16日のことです。
その日は、自分の娘 威子(たけこ、または いし)が、後一条天皇の正式な皇后になった日のことです。
中宮から、皇后へと格上げになった、ということです。
これで、藤原道長の娘は、3人が 『后』の名称の地位についたことになります。
太皇太后が 彰子(あきこ または しょうし)、皇太后が 妍子(きよこ また けんし)、そして皇后が 威子 です。
太皇太后とは、その時の天皇のお婆さんということです。皇太后は天皇のお母さんです。
彰子、妍子、威子の間柄は姉妹です。彰子が長女、妍子が次女、そして、威子が四女です。
それぞれの、后の夫は、彰子の夫は一条天皇。妍子の夫は、三条天皇。威子の夫は、後一条天皇です。
彰子と一条天皇、三条天皇と妍子は従姉妹同士の結婚ですが、後一条天皇と威子との結婚は、叔母と甥の関係になります。
さらに六女 嬉子(よしこ または きし)も、後朱雀天皇の元に入内します。
現代なら、いとこ同士はともかく、叔母と甥、叔父と姪との結婚は、三親等以内は禁止されていますが、平安時代は、かまわないようでした。
藤原道長にとっては、自分の勢力を広げるために、血族結婚を大切なこととしていました。
その嬉し伊ひが、ちょうど月の美しい日と重なった、ということです。
藤原道長 歌を書いた時の気持ち
一族の女性、がことごとく天皇の妃に上がり、さらに皆皇后の位まで上り詰めたのだから、その嬉しいことと言ったらなかったでしょう。
「望月の・・・」のうたも、自然と生まれてくるというものです。ウハウハな藤原道長の様子が手にとるようです。
とことが・・・・道長がつけた日記「御堂関白記」には、この歌について書いてありません。
「世の中、全部自分が思うようになって、満足、満足」ではなかったのでしょうか?
自分の日記に書いていない・・・ということは、本当のところは、満足ではなかったのでしょうか?
満月であればいつか欠ける。
歌ったはいいものの、不安感も同時に覚えたのは?
「欠けたることのなしと思えば」→「ずっと欠けないでいてもらいたい」という願望もあったのかと思います。
日記にないのでは、藤原道長の気持ちが推しはかれないではありませんか。
嬉しいのか、先に憂うことが残っているのか?
ちょっとモヤモヤしますね。
小右記から読み解く、藤原道長のうたは
「御堂関白記」のというのではありませんが、藤原実資の「小右記」(しょうゆうき)から面白いことが読み取れることがわかってきました。
藤原道長の歌、「小右記」の記録では?
「望月の・・・」のうたのいきさつは、藤原実資(ふじわらさねすけ)が書いた、の日記「小右記」に書かれています。
「小右記」には「望月に・・・」を詠んだのは、藤原道長の娘 威子が後一条天皇の皇后になった、お祝いの二次会の席である、とありました。
ご機嫌になった、藤原道長は、「望月の・・」の歌を即興で作りました、そしてみんなに返歌を久してくれ、というのです。
返歌とは、たった今作られた歌に、かけ合う歌を作る、ということで、即興性が必要とされます。
かなりの技術が必要ですが、平安時代の人たちは、歌を贈られたら、返すのが嗜みでした。
藤原実資は、道長の歌を聴いて「こんな素晴らしい歌にはとても返歌などできません。、皆でこの歌を詠唱しようじゃありあせんか」
と言って、出席者全員に呼びかけて、一同でこの歌を、合唱のように歌いました。
想像するとちょっと滑稽ですね。平安の昔でも合唱みたいなここと、あったのかしら?
藤原実資、ちょっと藤原道長に忖度した感じがしますが、最近ちょっと違う見方をする研究が出てきました。
藤原道長の「この世をば」の新たな解釈『月』
実は皆で、藤原道長に起こったおめでたいことを喜び合う、というものだったという意見です。
平安文学研究家で、京都先端科科学大学の 山本淳子教授の見方です。
山本氏の推測の根拠は「小右記」の中にありました。
「望月の・・・」を詠んだ日は、10月16日・・・
1018年10月の満月は、15日・・・(まさに十五夜)、16日は月がわずかにかけた十六夜(いざよい)の月でした。
これは、天文暦を調べると出てくる事実です。
十六夜の月は、満月にわずかでもかけていれば、それは満月とは言いません。
ましてや和歌の世界では、こういう些細なことを非常に大切にします。
十五夜と十六夜が違うというところに目をつけた山本氏の見解は、
冒頭の「このよ」とはを今では「この世」として見ていますが「この夜」として見ると?
『世』と『夜』は掛け言葉となって、
「今夜のこの世を、私は心ゆくものと思う」(心まで楽しんでいる)、簡単にいうと「今宵は本当にいい夜だなあ」となります。
では下の句の、『月』は、『かけたることもなし・・・」ですが、月 イコール3人の后と藤原道長はみなしている、というのです。
「月は満月から少し欠けているが、妃となった娘たちは満月のように欠けていない、三后全てを独占しちゃいましたよ」と見るのです。
藤原道長が使う『月』の掛け言葉
「源氏物語」の中には、天皇のことを『日』、皇后のことを『月』と評点されています。
それにならって、藤原道長も、月を皇后に見立てています。
さらに山本氏は、藤原実資の日記の内容をこう読んでいます。
「小右記」には、祝いの席には酒盃が巡らされたことが書かれています。
「盃」は「さかずき」の読み方が正しいですが、「さかづき」と両方読み仮名が打てます。
「づき」が「月」の読み仮名の「つ」と同じになるように。
実際、カナ文字には濁点が書かれていない場合がよくあります。
「空をめぐるつき」と「席をめぐるつき」がここで掛け言葉になっています。
つまり、宴席ではみんなが、道長に忖度したのではなく、本当におめでたいんだな、という気持ちをみんなでお祝いしようとして、合唱した、という結論に落ち着きます。
「小右記」にあるように、全員で、「この世をば・・・」を合唱するなんて、こっけいに見えます。
これが「光る君へ」の中で行われた場合、藤原実資役が、秋山竜次がやってらお笑いにしかならない、と思っていました。
それはそれで面白いけれど・・・
でも、おめでたい気持ちを表すなら、和歌の合唱も悪くない!
藤原道長は歌が上手いか?
しかし、山本氏の説のように、掛け言葉が上手に使われていたならば、藤原道長は、歌作りの、名手ということになります。藤原道長は、歌の上手な読み手だったのか?
平安時代の歌の良し悪しは、恋愛にかかってきます。
相手が、いかに心を惹かれたか・・・恋愛度高いものを「良い歌」としていたのです。
ですが藤原道長の「この世をば」の歌は、全く恋愛をテーマにしていないので、上手か下手か、の判断ができないところでしょう。
藤原道長の歌 「ちはやふる・・」
「ちはやぶる
藤原道長が まひろ におくった歌
藤原道長の、歌が、「光る君へ」では、結構前に披露されています。
それは藤原道長と まひろ こと紫式部との熱愛時代(?)
第6話でのことでした。ちょっと思い出してください。
まひろ と ききょう(清少納言)が藤原道隆のところの漢詩の会に招かれた後、まひろの元に藤原道長から まひろに手紙が届けられました。
手紙の歌が
「ちはやふる 神の斎垣(いがき)もこえぬべし 恋しい人の 見まくほしさに」
(意味:神様の周りに張り巡らせた垣根を越えてまで、恋しく思う人を見てしまいたいと思っています)
神の斎垣というのは、神社で御神体を祀るところにしめ縄が張られて、俗人が入ってこられないようにする、バリケード的なものです。
ちはやふる、というのは「神」にかか枕詞(まくらことば)です。
「ちはやぶる」と現代では読んでいますが、カナ文字表記では「ちはやふる」も「ちはやぶる」も同じ、と捉えられています。
いかにも、禁断の恋人に会いに行きたい、という情熱的な想いを表した歌ですが、この歌は「伊勢物語」の歌から、とった歌です。
藤原道長、本歌を使う教養
「伊勢物語」からとった、というと、いかにも盗作したようなイメージですが、平安時代当時は、古い名作の歌を、とって自分の言葉を入れ込むことは普通でした。
それができるかできないかで、その人の教養が知れるのです。
「本歌とり」というのは江戸時代後期になっても、見ることができました。
「伊勢物語」の本歌も紹介しておきましょう。
「ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし おおみやびとの 見まくほしさに」
藤原道長は、「おおみやびと」を「恋する人」に変えただけですが、本歌を知らないとできないことですよね。
なぜ、「おおみやびと」というのか・・・おおみやびと、とはみやこから来た人です。
歌の状況は、伊勢での話です。
伊勢の斎宮(女性の神官)のもとに京都から勅使がやってくる。
その勅使に恋をしてしまった、斎宮付きの女房(侍女)が、神聖なバリケードを越えてまで、あの人に会いたい。
と思っている歌なのです。
それに歌を受け取る、まひろの方も、「伊勢物語」を知っていないと、いくら”恋”という文字を使っていても、心には響いてきません。
道長は、大貴族の息子だから無理やり教養をつけさせられらたのでしょうか?さすがですね。
もらう方も、その意味を知った上で返歌をしないといけません。
昔は恋愛をするにも、教養が必要だったのですね。
そして、まひろの勉学好きも、この辺りからしっかりと、視聴者はしっかりと窺い知ることができるのですね。
なんだ!情熱的な歌、と言っても、道長さんが自分で考えた歌じゃなかったんだ、とがっかりしないでくださいね。
藤原道長の歌から紫式部との関係を見る
紫式部は、藤原道長の娘 彰子が入内するにあたって、侍女にとスカウトされました。
紫式部はその頃、すでに源氏物語を書いていて、人気ある作家でした。
1008年9月15日に、紫式部は、仕えていた 彰子に皇子が生まれたことで歌を詠みました。
それが
めずらしき 光さしそふさかづきは もちながらこそ 千代もめぐりぬ
(意味:中宮様という尊い光に また皇子様というこれまた尊い光が加わった盃は、望月のままでずっと、巡り巡りながらずっと続いていくことでしょう)
と「紫式部日記に」あります。
「めずらし」という言葉は、現代の「珍しい」とはちょっと違い、個展では「滅多にないこと」とそれも良い意味で使っていました。
「もち」とは「望月」のことです。
この日も15日ではありますが、月が欠けていた、ということがわかっています。
紫式部が「めずらしき・・・」を詠んだ時は「この世をば・・・」の、ほぼ10年前。
山本氏の説では、藤原道長は、他人の歌の技巧を真似するのが得意で、紫式部の10年前の歌を覚えていて、技術を拝借した、と言います。
そういえば、まひろに送った恋の歌も、「伊勢物語」だったことを考えれば、納得です。
自分はそれよりも、むしろ、「めずらしき・・・」と「望月の・・・」の二つの歌は、対にになっているような気がします。
相聞歌(そうもんか)というと、両想いの恋の歌、となってしまいますから、それとはちょっと違うとは思います。
では、何か、というと10年前の「めずらしき」があるからこそ「この世をば」の歌が生まれたのではないか、そんな気がするのです。
まとめ
「この世をば・・・」出世自慢の歌、字面以上の奥の深い内容であることがわかりました。
最初は、出世自慢・・・藤原道長、嫌なやつ・・・だったのですが。
藤原一族の繁栄が続いて欲しい気持ち。
その懸念はあるにしても、今の状態を祝おう、少し足りないくらいがちょうどいいんだ、という、気持ちが月の光に乗ってやってくるような気分の歌、でしたね。
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