紫式部 源氏物語 なぜ書いた 有名の理由 モデルはどこ?空蝉は?若紫のなぜ 書いた場所

紫式部は、源氏物語の作者です。

なぜ、紫式部は源氏物語を書いたのか、なぜそれが不朽の名作となって現代でも人気があるのか・・・その謎を探ってみましょう。

主人公の「光源氏」にはモデルがいたのでしょうか?

このサイトでは、光源氏、とその周囲にいた、中心女性たちの魅力をここでは解き明かしていきましょう。

どうぞ、最後までお読みください。

  1. 紫式部は、源氏物語をなぜ書いたのでしょう?
  2. 紫式部の「源氏物語」、有名になった理由
    1. 紫式部の「源氏物語」様々な登場人物とその人生
    2. 紫式部の、「源氏物語」の底に流れる無常
  3. 紫式部「源氏物語」のモデル
    1. 紫式部が参考にした「源氏物語」光源氏のモデル
      1. 光源氏のモデル その1 源融
      2. 光源氏のモデル、その2 在原業平(ありわらのなりひら)
      3. 光源氏のモデル その3 藤原道長
      4. 光源氏のモデル その4 源高明
      5. 光源氏のモデル その5 藤原伊周
    2. 紫式部、『源氏物語』の「夕顔」のエピソード
      1. 夕顔の物語をざっと・・・
      2. 紫式部は見た、「江談抄」の物語
      3. 源氏物語と「江談抄」の類似点、相違点
    3. 源内侍
  4. 「源氏物語」の空蝉で、紫式部が伝えたかったこと
    1. 「源氏物語」光源氏、空蝉を口説きにかかる?
    2. 紫式部、空蝉を描写する
    3. 紫式部、空蝉の誇り高さを描く
  5. 紫式部、「源氏物語」に「若紫」なぜ書いた?
    1. 光源氏、若紫との出会いはドラマチックに
  6. 紫式部 若紫の生い立ちを自分になぞらえて?
    1. 若紫、光源氏に一番愛された妻になる
    2. 若紫(紫の上)、のもとに女三の宮 台頭
    3. 若紫(紫の上)自分でどうにもできなかった人生
  7. 紫式部、「源氏物語」をどこで書いた?
    1. 紫式部が源氏物語の発想を得た、石山寺
    2. 紫式部が源氏物語を執筆した、廬山寺
  8. まとめ

紫式部は、源氏物語をなぜ書いたのでしょう?

紫式部が「源氏物語」を書くきっかけになったのは、夫 藤原宣孝の死、でした。

結婚約3年で、夫は病死しました。子供も生まれ、まだ小さい頃です。

紫式部の絶望感は、半端ないものだっでしょう。

その時の紫式部の絶望感は、「紫式部日記」に描写があります。

『庭の花の美しさも目に入らない、鳥のさえずりも耳に届かない・・・庭から見る雲の流れも、月、霜、雪も、どんなに来ようとも、季節が来た、とただ知るだけ。一体こんな気持ちはいつまで続くのだろうか』

夫の死のことで、世の中の無常感を味わっていました。

無常感とは、物事は全て、はかなくうつろいやすいものと感じることで、虚無感ともいえます。

虚無感を持つ中から、少しづつ、慰めを文章に見出し、自分でも物語を書いて、友人や、物語好きな人たちに読んでもらっているうちに、ストーリーがどんどん広がっていったのです。

元々、書くことが好きだった、紫式部だったからこそできた、鬱からの脱出法だったのですね。

紫式部の「源氏物語」、有名になった理由

紫式部の「源氏物語」様々な登場人物とその人生

紫式部が源氏物語生まれて、すでに1000年。

その人気は今でも色褪せることはありませんし、海外でもどんどん翻訳されています。

なぜこんなに有名になったのでしょうか?

まずは、『愛』という世界普遍のテーマを打ち出しているところにあります。

そして人物。

平安時代当時に、人々の心をつかんだのは、人物描写や、自分の周りにモデルがいるかも?

と、思わせるほど、登場人物は多くて、その誰もが個性的なのです。

平安時代の衣装、部屋の作り、装飾品や、当時の生活の様子が細やかに描かれていることも、魅力の一つです。

紫式部一人で、これらの人物を一人ひとり作り上げていった、才能には目を見張ります。

紫式部の、「源氏物語」の底に流れる無常

それに加えて、物語の奥底には無常感が流れていることにあります。

紫式部が、夫を亡くした時の、虚無感が無常感、つまり、人の命は永遠ではないということ、最後には、必ず死が待っているということ。

人々もたくさん、その生き様もたくさん、そして死に方もそれぞれ違うのです。

平安時代の死生観も関係しています。死生観というより、人が死んだ時の扱いでしょうか?

特に、平民の死は満足に埋葬されない場合もありました。

風雨にさらされたままであることがしばしばありました。

京都にある化野(あだしの)の念仏寺は、野晒しにされていた遺体の慰霊のため、空海が建てたということです。

死、死生観は弔いに繋がり、仏教と切り離すことはできません。

平安時代は、死が常に身近にあったため、人々は無常を感じていました。

だからこそ、仏教の儀式を大切にしていました。

無常感もまた、平安人の心をとらえたといえましょう。

紫式部「源氏物語」のモデル

「源氏物語」は紫式部が実際に出会った、人物、内容がストーリーに織り込まれています。

登場人物にもモデルがいたようですが、この人が〜というふうに特定はできません。

複数の人が一人の人物を作り上げているようなところがあります。

紫式部が参考にした「源氏物語」光源氏のモデル

光源氏のモデル その1 源融

やっぱり主人公の「光源氏」のモデルは?・・・それは誰もが気になっているでしょう。

よく言われている人物が、「源融」(みなものととおる)です。共通点が多いのです。

以下に上げた共通点から、源融から一番多くの様子を取り入れたのではないでしょうか?

  • 父は嵯峨天皇で、母親の身分が低いので、源の姓を与えられ、臣下の身分となった。光源氏は桐壺帝の第二皇子だけど、母親の身分が低くて、源姓の臣下となった。
  • 源融は非常な美形だった、ということです。光源氏ももちろん源氏物語の中で、人々が見惚れるほどの美貌の持ち主でした。
  • 京都の嵯峨野に「清涼寺」(せいりょうじ)という浄土宗の寺がありますが、そこは元は源融の山荘でした。清涼寺ある阿弥陀如来像は、源融を似せて造られたと言われており、「源氏写し顔」とよ呼ばれています。
  • 将来は左大臣となる。一方の光源氏も太政大臣という重要な役職につきます。
  • 光源氏は、京都の六条に広い屋敷を建てて、六条院と呼ばれます一方の源融は、豪邸を建てて、それは「河原院」(かわらのいん)という名称です。この屋敷は六条にあることも共通点です。

光源氏のモデル、その2 在原業平(ありわらのなりひら)

在原業平もモデル候補として、言われていきました。

平安時代初期(825〜880)頃の貴族で、「伊勢物語」の主人公です。

紫式部は、本を読むのが好きで、勉強家でしたので、伊勢物語もよく読んでいました。

在原業平は、非常な美形だったということから、光源氏のモデルではないか、とされています。

平安時代の歴史書と言われる「日本三代実録」に在原業平が美形だった、と記録があります。

源氏物語の光源氏との類似点を見ると、女性が大好き。

そのため、入内予定の姫君と関係を持ったり、斎宮となる姫と恋を・・・つまり、どちらも禁断の恋をした。

ここは、光源氏と藤壺、朧月夜、六条御息所との関係と似ています。

禁断の恋が罪に問われて、追放の刑となる。

在原業平には行平(ゆきひら)という兄も、いて、その兄が須磨に流され、現地の女性と恋をした、という伝説から、行平もモデルの一人の候補になっています。

光源氏のモデル その3 藤原道長

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」、放映中の今、藤原道長(ふじわらみちなが)を外すわけにいきません。

藤原道長も、光源氏のモデルの一人、と言われています。

しかし、道長は光源氏のようにイケメンではなく、プレイボーイかというとむしろその逆でした。

「栄花物語」に「浮気っぽいところは全くなく」とか「女性から、なさけ知らずの人、と言われるほど辛いことはない」と道長の様子を書いてます。

藤原道長が、光源氏のように浮ついた人物ではなかったようです。

となると、貴族として最高の地位についた、という部分を紫式部は、道長から取り入れたようです。

自分の娘を、天皇の妃として入内させて、娘に男子を産んでもらい、その子が天皇となる。

当時の貴族にとっては、最高の望みを叶えたところを、物語に取り入れたのです。

紫式部がなぜ、藤原道長をモデルに加えたかというと、紫式部は、道長から恩恵を受けたからだと思われます。

道長の娘の 彰子の侍女(女房)として雇ってくれ、源氏物語を書くよう後押ししてくれたり・・・ということで、紫式部の、藤原道長へのリスペクトです。

一つの説(『尊卑分脈』という家系を記した書物)では、紫式部は、道長の妾(しょう、愛人ということ)となっていた、とありますので、そのあたりも関係していたでしょうか。

光源氏のモデル その4 源高明

源高明(みなもとのたかあきら)は、醍醐天皇の皇子で、母親の身分が低いために源姓を与えられ臣下となった人物です。

914年〜983年、の時代の人で、紫式部や、藤原道長より一世代前に生きた人です。

源高明は、学問が非常にできた人でした。

自分自身は天皇の皇位継承にかかわらなかったのですが、自分の従者とその息子が、二人の皇子の天皇の位をかけてた勢力争いに巻き込まれました。

自分の従者が関わったことで、源孝明にも謀反の疑いがかけられ、罪に問われ九州に左遷されます。

天皇の皇子である、臣下となり源姓をもらったこと、謀反の罪に着せられるところ、左遷されるところ、学問優秀だったところが、光源氏のモデルの一人とされているところです。

しかし源高明の場合、京都にかえってくることはできましたが、政界復帰は叶いませんでした。

なお、源高明の娘、源明子は道長の妻の一人となっています。

光源氏のモデル その5 藤原伊周

藤原伊周(これちか)は、藤原道長の甥です。道長の兄、道隆の息子です。

容姿端麗、学問に優れており、詩歌、和歌作りも得意。音楽の腕前も確か。女性にモテる。

政治の要職につく。この辺り、非常に光源氏度が高めです。

間違って、花山法皇(かざんほうおう、かつての天皇)に弓を引いたことが、謀反とみなされ、左遷。

藤原伊周の、行動の多くが、源氏物語の光源氏と似ています。

しかし、伊周の場合は、藤原道長の上を行こうと必死になっていた部分があります。

それに、全体的に、ちょっと軽薄な雰囲気があり、光源氏とは少し違い、むしろ、光源氏の親友 頭中将(とうのちゅうじょう)の方に似ている気がします。

 

光源氏候補は、実にに15名ほどいますが、特にこの人ではなかろうかと思える人物を5名、いえ、在原業平の兄、行平を加えて、6名だけ取り上げてみました。

どの人物も光源氏というには一長一短で、その全てが合わさって光源氏ができあがったのでしょう。

紫式部、『源氏物語』の「夕顔」のエピソード

夕顔の物語をざっと・・・

「源氏の物語」によると、夕顔はひたすらなよなよと見える、はかなそうな女性でした。

実は夕顔は、光源氏の親友、頭中将(とうのちゅうじょう)の恋人でした。

でも頭中将が通ってこなくなったために、他の男性と恋仲になるのもあり、それが平安時代でした。

光源氏はそんな夕顔を、夕顔の屋敷から連れ出して、逢瀬を重ねるのですが、夕顔は、怨霊の取り憑かれて、殺されてしまいます。

紫式部は見た、「江談抄」の物語

紫式部は、そんな夕顔の源典を、「江談抄」(こうだんしょう)という、平安時代の説話集から発想を得ています。

天皇の位を引退した宇陀院(うだいん)が屋敷で、藤原褒子(ふじわらのほうし、またはよしこ)と夜を過ごしていると、怨霊が出てきて、「褒子を欲しい・・・」、と言うのです。

宇陀院は、断るのだけれど、褒子の方は気絶し、息も止まった様子・・・

宇陀院は、慌てて宮中に、褒子を連れて帰り、祈祷をさせたところ、息を吹き返した・・・

と言う話でした。

怨霊は、源融の怨霊、と書かれています。

と言うのも、宇陀院たちがいたのは、六条河原院という、かつての源融の屋敷でした。

別に宇陀院は、六条河原院に不法侵入したわけではありません。

源融は、自分の屋敷を、宇陀院に献上したのでした。だから霊が、息づいていたのでしょうか?

「江談抄」以外にも、「今昔物語」にも、六条河原院に出てくる、霊の話が見られます。

いずれにせよ、管理人以外住、まないような家は荒れて、不気味だった、と言うことです。

しかし源融が、なんで、出てくる?と思うのですが、その残念ながらよくわかりません。

源氏物語と「江談抄」の類似点、相違点

源氏が夕顔を連れ出した場所が、源氏物語では「なにがしの院」と書かれています。

そのモデルの屋敷が、「六条河原院」と、みる研究者もいます。

似ているところは、やっぱり霊に悪さをされるところですね、

そして、女性が気を失ってしまった。

ここまでは一緒ですが、藤原褒子は息を吹き返し、夕顔は死んでしまった、ところが違います。

霊の要求するものは人の命でも、夕顔の方には恨みを込めて、と言う感じです。

なお、源氏物語では、読む人に、夕顔の命を奪ったのは、源氏の恋人であった、「六条御息所」と言うイメージを持たせていますが、「六条御息所」とは一言も書いていないのです。

夕顔を、光源氏連れて行かれた荒れた屋敷は、六条にあり、「六条御息所」の住居に近いところであったこと。

その日、源氏は六条御息所と会う約束をやめて、夕顔と出かけたこと、これらの状況が根拠となっているにすぎないです。

そこを犯人は「六条御息所」と読者に思わせてしまうところが、紫式部の書法の素晴らしさ、といえます。

源内侍

源内侍(げんのないしのすけ)は、源氏物語に登場する、宮中の女官を務める女性ですが、その年は57歳ほど。

平安時代では女性は、40歳で老女と言われるのですから、57歳なら「ババア」と言われても・・・

大の恋愛好きで、若い公達を口説いて回り、光源氏も、その親友の頭中将も源内侍の、色香(?)というか手管にかかって関係を結んでしまいます。

源内侍は頭はよく、機転も聞き話し上手、音楽の才能もある女性でした。

そんな女性のモデルは、二つの説があります。

まずは「伊勢物語」の「九十九髪」(つくもがみ)の中で、若い公達が老婆に情けをかける話、これがベースになっているのではないか?

そして、もう一人は、紫式部の夫の兄嫁、藤原明子という説です。

この女性は、実際に50歳くらいまで、宮中で女官勤めをしており、その役職名も「源内侍」・・

このかたが恋愛大好き人間かどうかは分かりませんが、「火のないところに煙は立たぬ」というように、非常におとなしい人、というわけではありませんでした。

当然「源氏物語」のおかげで、皆に、「男好き」とか噂になりました。

源明子さんは、ヒソヒソ話から逃れるために、辞表を書いて、役目を降りたということです。

とすれば、明子さんは紫式部を恨んだかもしれませんね。

藤原道長の妻の一人に「源明子」という方がいますが、この二人は全く関係がありません。

偶然に名前が一緒だった、ということだけです。

「源氏物語」の空蝉で、紫式部が伝えたかったこと

「源氏物語」光源氏、空蝉を口説きにかかる?

「源氏物語の」2帖と3帖に「箒木」(ははきぎ)、「空蝉」(うつせみ)があります。

「箒木」で、宮中に宿直している公達が、「どんな女性がいいだろう」という戯言から、中流階級の上に属するあたりの娘が、一番良い、などど、いう話の流れになってきた続きです。

光源氏がたまたま、泊めてもらった家、紀伊(きい)の守の家に、義理の母、空蝉がいることに気がつきました。

紀伊の守の父は、伊予介(いよのすけ)といい、その日はちょうど不在でした。

空蝉は、もともと、伊予介の主筋にあたる人の娘だったので、身分が高かったのですが、父親が亡くなったため、伊予介と結婚したのでした。

事情を知っていた、光源氏は、女性好きの悪い癖が出て、興味を持って・・・夜にこっそりと、空蝉の寝所に忍び込みます。

悪い言い方ですが、「寝込みを襲った」ということ。

光源氏の方は「ずっと前から、あなたが好きだった」どか、「こうなったのは前世からの宿縁」とか言葉を尽くすのですが・・・・

私たち読者から見れば、『嘘ばっかり・・いつもこのセリフ、いってるし・・・』です。

光源氏は、女性を口説く時、必ず『こうなるのは、前世からの宿縁』と言いますが、一体何回言えば、気が済むの・・・・という感じです。

勝手に仏教思想を持ち込まないでほしい!

紫式部、空蝉を描写する

空蝉は、自分の身分が低いから、こんないいかげんな扱われ方をしたのだ・・・と思って悔しさと悲しさが混じった感情を覚えます。

しかし、その反面、大勢の人が憧れる光源氏という人に自分も惹かれていた気持ちもあるのです。

それが自分でわかっているだけに、空蝉自身、やりきれない感情を持ちます。

もし自分の父親が生きていて、それ相当の身分であったなら、こんな扱いを受けなかっただろう、と考えていました。

光源氏の方は、空蝉とまた会いたい、と思い、隙を見て、また空蝉の屋敷に忍び込みます。

光源氏は、空蝉の屋敷に昼間から、潜んでいたのですが、ここで、光源氏の目を通して、空蝉の容姿が、描写されます。

それによると、空蝉はそれほど美人ではない、目も腫れぼったい・・・

ちょうどその時、空蝉と一緒に伊与之助の娘、軒端荻(のきばのおぎ)と碁を打っていたのですが、むしろ、見目形は軒端荻の方が美しいかも・・・というところでした。

しかし、空蝉の動作や、仕草はしっとりとおちついて、嗜み深く見え、それが空蝉の欠点を上回り、優れた女性に見える、といういうのです。

紫式部、空蝉の誇り高さを描く

夜、床に忍んできた時はその気配を察知し、上に来ている、衣(小袿、こうちぎ 平安時代の女性の準正装着)だけを脱ぎ捨てて逃げていきました。

空の衣だけを残していってしまった様子が、蝉の抜け殻のように思えて、そこから「空蝉」という名前になったのでした。

光源氏は、ここで初めて、相手から拒絶される、という体験をしました。

今まで、モテまくりで、女性に拒まれたことがないのに・・・これは光源氏にとってもショックでした。

でもここは、光源氏のショックよりも、自制心を保ち続けた、空蝉に、強さを感じます。

そこには、ここまではっきり主張しないと、自分というものをわかってもらえない、という空蝉の思慮深さが描かれています。

平安時代の女性は、親の援助がないと、惨めな思いをし、望まない結婚をしなければならない時もあるけれど、それでも自分を主張することができるのだ。

ということを、紫式部は合わせて書きたかったのでしょう。

紫式部、「源氏物語」に「若紫」なぜ書いた?

光源氏、若紫との出会いはドラマチックに

「若紫」は源氏物語の中で、一番人気がある巻です。

なぜこんなに人気があるのでしょう?

紫式部は、「若紫」に、それも子供時代の描写が細かいから、そして何よりも、「若紫」が可愛らしいからと思われます。

光源氏の生涯の生涯の伴侶となる相手との出会いが、ドラマチックに書かれてるからです。

幼い時に、光源氏は、紫の上の若い頃「若紫」(姫君)と最初にであった、瞬間の描写が絵画のようにイメージに浮かんできます。

泣きながら一生懸命走ってきます、その理由は、侍女の犬君(いぬき)が、自分が捕まえるはずのスズメを、(餌を置いて、上からかごを瞬間被せて捕まえる)を逃した・・

と言う可愛らしい理由でした。

その様子が愛らしく、髪も豊かにで、顔立ちも良く、このまま成長すれば、美人になりそう、と光源氏は思ったのでした。

さらに、面差しが、自分が愛している、藤壺の宮によく似ている・・・ここらあたりに光源氏は惹かれました。

そこで、姫君の保護者と話してみたところ、保護者は尼で、姫君の母方の祖母、さらに話を聞いてみると姫君の父は、源氏が敬愛する、藤壺の宮の兄いうことがわかります。

藤壺の血縁者ということで、光源氏は紫の上に心を寄せるようになります。

紫式部 若紫の生い立ちを自分になぞらえて?

紫の上に、紫式部自身を投影している、とみる方もいますが、ちょっと違うと思います。

まず紫の上は、身分が高い、ということです。

確かに母は亡くなりますが、父はあんまり紫の上を大事にしているようではないのですが、とにかく存在します。

容姿も全然似ている感じではありません。

紫式部は、この紫の上(若紫)の描写にとても力を入れています。

紫式部の母、光源氏の母、紫の上の母、どの母親もみんな、子供が幼いうちに亡くなっています。

幼い時に、母親を亡くすとはどんなに辛いことか・・・・それを紫式部は小説に書き入れたのです。

若紫は、祖母を亡くして、ひとりぼっちになってしまったところを、光源氏が、自分の住まいにつれてきたのです。

本当は父親のところで、引き取るはずだったのところを、無理やり(?)自分の家に連れて行ってしまいました。

後世の世界でこれをやっていたらら、光源氏は、誘拐で罪に問われるかも?

手元で、自分好みの女性に育てていきます。

若紫、光源氏に一番愛された妻になる

若紫は、物覚えの良い子でしたから、教えること、箏とか笛とか、和歌をどんどん覚えます。

だんだん大人びて、綺麗な女性になってきた若紫を光源氏はついに、自分のものとしてしまうのですが、そこが衝撃的で・・・

この箇所が読んだ人の度肝を抜いて、源氏物語をより一層印象付ける、出来事となりました。

光源氏には、成人した時に結婚した、「葵上」という左大臣家の姫が、正室としていました。

ですが、葵上が出産で亡くなってからは、「若紫」が「紫の上」と呼ばれるようになって、実質上の正室という形になりました。

正室、といっても、光源氏に引き取られて、その後急に妻となったわけですから、ちゃんとしたお披露目の士気もなく、ずるずると正室になったような感じです。

紫の上は、光源氏に一番に愛された女性になりました。

若紫(紫の上)、のもとに女三の宮 台頭

が、生涯、屋敷の北の住まいを許されなかったこと(つまり正式な北の方、ということ)、お披露目の儀式もなかったことを、どこか不満に思っていた感じがあります。

名目だけは北の方、だったのですが、御所より朱雀亭の娘、女三宮を妻として迎えたことで、名実ともに、源氏の北の方は、女三の宮になったのです。

しかし、ここも、紫式部の、ストーリー立てが聞いていて、光源氏は女三の宮を、藤壺の親戚筋にあたるということだけで、嫁に迎えることにしました。

女三の宮、の描写についても、若く美しい姫であるけれど、どこか幼く、男女の仲についても良くわかっていない、和歌を送っても、気の利いた返しはしてこない、という感じでした。

どちらかというと、感受性が鈍い、と言われる姫でした。

そうやって、紫式部は、紫の上と女三の宮の差を作り出すのでした。

さらに、女三の宮は、柏木という公達と不義密通の罪を犯してしまうのです。

柏木は、光源氏の親友、頭中将の息子で、大層優れた公達と言われています。

女三宮の密通も、自分が好きだから、というのではなく、柏木の情熱にずるずると引きづられる様子でした。

ここが源氏物語の、クライマックスの一つになる箇所です。

自分の罪を知った、女三の宮は出家し、表舞台から退場、という形です。

若紫(紫の上)自分でどうにもできなかった人生

その後、無常感を感じた、紫の上は、出家を望みますが、光源氏が許さなかったのです。

この箇所を含む、紫の上の記述を読んだ、瀬戸内寂聴さんは、「紫の上は、源氏物語の登場人物の中で、一番かわいそうなひと。自分の思うような人生を送れなかったからです」といっています。

確かに、そうですね。

紫の上は、自分の好きなタイミングで出家することもできなかった。

紫の上は、源氏物語の中で「女が本当に自由になれるのは、出家しかないのでしょうか」と考える箇所がありました。

身分の高い人のところに嫁に行っても、自由を手に入れられる幸福にはありつけない・・・これが平安時代の女性の生き方でした。

紫式部は、若紫(紫の上)の人生が本当に、満足のいくものだったか、後悔する人生だったか、このは判断を、私たち読者に投げかけている、そんな気がします。

紫式部、「源氏物語」をどこで書いた?

紫式部、源氏物語の執筆となると、ふたつのお寺の名前が出てきます。

石山寺と、廬山寺。

石山寺は元からのお寺ですが、廬山寺は、お寺ではありますが、紫式部の邸宅跡に移転してきたお寺です。

紫式部が源氏物語の発想を得た、石山寺

石山寺は源氏物語を書いたところというよりは、紫式部が「源氏物語」の発想を得た地、という方がいいでしょう。

石山寺のあるところは、滋賀県大津市、琵琶湖の臨む瀬田にあります。京都からは少し離れており、平安時代から多くの参拝者がいます。

現代では京都から、JRに乗ると30分あまりですが、徒歩で行くと4時間半かかります。

スニーカーもリュックもない平安時代、に長い着物の裾をからげて4時間以上歩くのは、さぞかし大変だったでしょう。

「蜻蛉日記」(かげろうにっき)の作者、藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)も、参拝したことを日記に書いています。

明け方に京都を出発し、逢坂の関を越え琵琶湖のほとり 内出浜から船に乗りんし、夕刻に石山寺についた、ということです。かなりキビシイ・・・

石山寺では、

『紫式部が、中宮彰子から新しい物語を読みたい、という希望を叶えるために、寺(石山寺)に7日間の願掛けをしたところ、琵琶湖の湖面に映る十五夜の月を見て、貴公子が都から離れたところから月を見て恋しく思う場面を書こう』

という発想を得た、とあります。

石山寺には、「源氏の間」という部屋があり、紫式部らしい人形が置かれています。

しかし、源氏物語は、紫式部が彰子に仕える前から書いていた話なので、「源氏物語」そのものの着想ではなく、都から須磨に追放された、光源氏のことを思いついたのでしょう。

紫式部が源氏物語を執筆した、廬山寺

廬山寺もお寺ではありますが、お寺の以前は紫式部の邸宅と言われているところです。

芭蕉は京都御所に比較的近いところです。

紫式部は人生の大半を、この家で過ごしたと言います。

廬山寺の略歴の中には、紫式部は「源氏物語」、「紫式部日記」、「紫式部集」のほとんどをこの建物で書いた、ということです。

紫式部の住んでた家は、紫式部の曽祖父 藤原兼輔(ふじわらかねすけ)が建てたようです。

今、「光る君へ」でまひろ(紫式部)が住んでいる家が多分、この家なのでしょう。

こちらも現在、参拝することができます。

まとめ

光源氏の一生と、その子供たちの生涯を合わせて70年ほどの時代を、ぎゅっと一冊にまとめた小説。それが「源氏物語」です。

「源氏物語」の魅力は、この本を何度読んでも尽きることはありません。

華やかに見える、光源氏も一皮剥いてみれば、厭世主義、そして性格も暗い、と思える箇所もあります。

光源氏の人間を深めているのが、登場する女性たちで、誰一人かけても、この物語の魅力は半減してしまいます。

どんな外国文学でも、「源氏物語」に勝るのもはない、と思えるほどです。

「源氏物語」に関する研究はまだまだ続けられていますし、翻訳本も次々出ています。

原文は難しいですが、翻訳ならたくさん読めますし、翻訳それぞれの良さ表れています。

ぜひお読みいただければ、と思います。

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