土山宗次郎は、あまり耳にした人物ではありませんでしたが、2025年NHK大河ドラマ「べらぼう」では、注目を集めそうなキャラクターです。
田沼意次親子の元で働き、頭も良く、日本の将来を考えられる人物でもあったのですが、軽薄な面もありました。
吉原の有名 花魁 誰袖を身請けしたことで、土山宗次郎は破滅の道を歩んでしまいました。
ここでは土山宗次郎、という人物を取り上げ調べてみました。
土山宗次郎、大田南畝と親しかった?
土山宗次郎(つちやまそうじろう)は、武士で狂歌を作る文人の 大田南畝(おおたなんぼ)と親しくしていました。
大田南畝の方が、下級武士で土山宗次郎より役職が低いですがどちらも、勘定所勤務でした。
土山宗次郎は大田南畝のパトロン?
親しい、というより、土山宗次郎は大田南畝に経済的な援助をしていたのでは、と言われています。つまりパトロンですね。
しかし、土山宗次郎の援助についてはっきりと明記した文書はなく、知られている状況から、援助していた、ということが噂されていました。
それは、土山宗次郎がのちに処罰されると、大田南畝は、これまで狂歌や戯作を作って楽しんでいた生活から手を引いて、真面目な役人に変身したことからです。
大田南畝自身が、土山宗次郎と関わり合いがあった、と見られ自分の処罰されることを恐れたため、ではないでしょうか。
土山宗次郎・大田南畝 両方の性格を考えてみると、土山宗次郎の方が真面目な感じです。
大田南畝の方がもっと自由な感じて、人生を楽しんでいる様子。
土山宗次郎が、大田南畝を経済的に援助した、という噂は、あり、だと私は思います。
土山宗次郎と大田南畝は似たもの同士?
土山宗次郎は文芸ごとが好きで、和歌を習い、狂歌も「軽少ならん」という芸名ならぬ、狂名で詠んでいました。
そして、狂歌といえば第一人者とまで呼ばれる大田南畝の狂グループ「山手連」に入っていました。
当時の狂歌師たちの様子を大田南畝が「三春行楽記」という交換日記に記しています。
彼らがどう楽しんだか、遊んだかという記録で、花見や、芝居見物、船遊び、食事会などについて書かれています。
「三春行楽記」からは、狂歌師たちのパリピぶりが見られます。
大田南畝は、天命時代のパリピだと思っていますから、その仲間たちもパリピでしたね。
土山宗次郎は、実は太田南畝の明るさ、人当たりの良さに憧れていたのかな、と思えるのです。
土山宗次郎と誰袖、出会いはどこで?
事実として知られているのは、土山宗次郎が花魁の 誰袖とはのちに身請けするまでに惚れ込んでいましたが、二人の出会いはどうだったかでしょうか?
一人の遊女と一人の役人が、いつ出会ったなんて歴史では取り上げませんから、当時の、土屋宗次郎の社会的地位、付き合い範囲、などの状況証拠から推測していくほかはありません。
「べらぼう」の中では、大田南畝・蔦重と土山宗次郎、誰袖(たがそで)の出会いの場面として、土山宗次郎の花見会、が設定されました。
そこに大田南畝や蔦重が招かれているわけです。
土山宗次郎は、大田南畝より、身分が高かったので、こういう席もあるのです。
今後の展開を考えると、自然な流れに見えます。多分実際もこんな感じ立ったのではないかと、思わ背てくれます。
このような席に、誰袖も同席、そして田沼意知(たぬまおきとも)もやってくるのですが、その目的は、花魁遊びではなく、仕事がらみ。
蝦夷地の松前藩の動向を探るためでした。
誰袖は、最初は田沼意知の方に惚れ込むのですが。
田沼意知の方は、松前藩の調査に関する要件を、土山宗次郎に依頼するという流れです。
松前藩に関する重要な情報を、握っている様子を誰袖は匂わせています。
確かに、土山宗次郎は田沼親子から、蝦夷地の視察を命じられています。
蝦夷地に関する情報を巡って、土山宗次郎・田沼意知・誰袖の関係は発展していきそうです。
土山宗次郎が、身請けした!
歴史の流れは、土山宗次郎と誰袖の仲がどうだったかというより、突然、身請けした、という事実のみが伝えられています。
1785年、土山宗次郎 45歳の時、「大文字屋」の花魁 誰袖を、身請けします。
土山宗次郎が、誰袖を身請けしたわけは?
土山宗次郎が誰袖を身請けしたかったのはやはり、誰袖の美貌、そして芸術ごとが得意だったことによります。
なにしろ不正な金を使ってまでも、身請けしたいと思うほど、惚れ込んでいたからです。
土山宗次郎が不正な金に手を出したのは、自分がつかえていた田沼意次(たぬまおきつぐ)が、まだまだ安泰、その天下が続くと思っていたからだと思います。
また、大河ドラマ「べらぼう」を考えると、誰袖の心が、田沼意知に動きそうだったのも関係がありそうです。
しかし、田沼意知は、土山宗次郎のが誰袖を身請けする前年に死んでいます。
まさか、その時の誰袖の心の隙間を埋めるために、土山宗次郎が、身請けに名乗りをあげた、という展開も、選択肢にできますが、どうでしょうか?
土山宗次郎、なぜ1200両も必要?
その身請け金として、土山宗次郎が使ったお金が1200両でした。
その内訳を見ると、身請けだけのお金だと、850両。残りの350両は、ご祝儀などでした。
身請けに全てかかった金額が、1200両、当然土山宗次郎の年収の約倍額です。
のちに分かったことは、土山宗次郎は、公金横領をしていたのですが、その額が500両。
その残りを、土山宗次郎は自分の稼ぎだけで、賄えたのでしょうか?
残りは700両となりますから、年収カツカツかその少し上を行くほど。
年収といっても年収は、生活に使うし、土山宗次郎は、大田南畝たち仲間を遊び歩くし、お金が足りつとは到底思えません。
そこで、公金横領以外のお金の入り道があったのでは、とのちに調べられることになるのです。
土山宗次郎と誰袖のその後は?
せっかく誰袖を身請けしたのに、土山宗次郎はその翌年には、横領の罪に問われて、逃亡し、そして処刑されてしまうのです。
誰袖の消息もここでわからなくなっています。
誰袖のことは、土山宗次郎の拘束、処刑後、のことが何一つ伝わっていません。
吉原の記録にも残っていません。
確かに一人の遊女のその後など、歴史に書き加えることはありません。
あるとすれば、誰袖が、土山宗次郎の仇を取ろうとした時、または吉原に戻って、また華やかな遊女に戻ること。
しかし、どちらもない、ということはうまく逃れたから、という見方もできます。
一方で、土山宗次郎の家は、宗次郎の死罪によって、絶えてしまいました。
土山宗次郎、なぜ斬首に?
土山宗次郎に、500両の横領の疑惑が起こり、ついに捕まり処罰、それも非常に思い斬首という刑罰でした。
しかしいきなり、斬首とまで来たのではなく、土山宗次郎が、疑いをかけられた後にやらかしてしまったことが原因になっています。
土山宗次郎は左遷!
これは、田沼意次が失脚したことと関係があります。田沼意次の失脚は将軍 家治(いえはる)の死から始まりました。
当時の、土山宗次郎の役職は、富士見宝蔵番頭に左遷されていました。
富士見宝蔵番頭とは、大奥の金庫番の仕事で、宝蔵というだけあって、多くの大切な貴重品などが収められていました。 |
田沼意次が失脚し、その直属の家臣だった土山宗次郎も左遷の運命となりました。
それと同時に、土山宗次郎の日頃の、遊び歩いていた・花魁を妾にした、という行動で、次の松平定信の質素・倹約を目指した政策とは合わない、というのも理由でした。
土山宗次郎、何を横領?
土山宗次郎が、宝蔵番頭に左遷されてすぐに、横領が発覚しました。
土山宗次郎、買米金の横領
買米金 500両の横領がまず見つかり、そのほかにもっと横領がないかの調査が始まります。
どうやって横領したのかといえば、幕府が買い付けた米ですかその価格のことでの横領です。
使途不明金の発覚というから、幕府から多めに金を預かり、そのうち500両だけがどこに使われたかが行方知らず、ということでしたから。
500両以外の横領は、明確にはされていませんので、金額解いては500両だけだったのでしょう。
土山宗次郎、家族手当金を詐欺?
しかし他の罪状として、土山宗次郎の嘘も暴かれませいた。
それは土山宗次郎の娘が、実際は死んでいたのに、生きているかのように装っていたことです。
さらに、もう一人養子をもらって、自分には二人の娘がいるふりをしました。つまり偽装罪ですね。
江戸時代の制度では、御家人の石高(お給料にあたります)は、家族の人数により決められていました。
ということは、牛山宗次郎は、養子以外の死んだはずの娘の分まで、家族手当をだましとっていたことになります。
現代でも、死んだ家族を申告しないで、その分の年金などもらって事件になっているケースがありますので、人はいつの時代でも同じようなことを考えるのでしょうね。
悪質ですよね。
また、土山宗次郎の派手な遊び歩き、花魁 誰袖を妾にしていることも、調査の対象でした、役人らしからぬと、いうことですね。
土山宗次郎、斬首への道!
疑われていると知った土山宗次郎は、逃亡をはかりました。
それは、一緒に蝦夷に渡った、平秩東作を頼り、所沢あたりに逃げていました。
ここなら見つからないと、土山宗次郎は思ったのでしょうか?
これが一番、土山宗次郎の事態を悪くしたのではないかと思いますが。
江戸時代の、金銭の横領は確かに重い罪だと、死罪になることはありますが、もう少し軽い刑になる場合もあります。
その場合は、島流し、などです。
しかし、幕府側は徹底して探したのでしょうね。
土山宗次郎は捕まり、ついに死罪なのですが、処刑方法が斬首だった、というのが衝撃的です。
土山宗次郎は、武士、それも旗本なので本来なら名誉ある切腹という形が取られたはずです。
それが切腹の機会も与えられず、いきなり斬首というのだから、相当思い罰です。
土山宗次郎は裕福だった?
土山宗次郎が、誰袖の身請け金として、1200両もの金を積んだ、というならお金持ちだったのだな、と思うのですが。
実はそのお金は、横領金がおそらく一部に使われているのではないか、と言われていました。
土山宗次郎の役職では、350石の年収で、現代の金額に換算すると、約600万円に相当するところでしょう。
だから裕福、とはいえませんが、そこそこの生活ができるほどではあったはずです。
それでも、土山宗次郎の豪遊ぶりが、「三春行楽記」で示されています。
これは、狂歌の会がいかに、楽しく遊んだか、という日誌形式の書物です。
そこには、土山宗次郎の家でよく酒宴が行われ、時には船遊びをし鯉を、そして初鰹を食べたことが、などが書かれています。
こうした江戸時代の娯楽には、遊女はつきものですね。
そこには、誰袖が絶えず呼ばれていたのではないでしょうか?しかも誰袖は狂歌が得意!
となると、土山宗次郎は美しく、気が利く誰袖に惚れていったのでしょうね?
土山宗次郎、どんな人?
土山宗次郎は、生まれは良くかなり高級政府用人です。
実直なお役人が仕事の月ありから、だんだんと遊びを覚え、遊女を身請けし、やげて…という人生が浮かび上がってきます。
土山宗次郎の生まれは?
土山宗次郎は1740年生まれ。
武家の生まれで、武家でも格式の高い旗本の家柄に生まれました。
旗本は、お目見え(将軍様に直接会うことができる)という、武士の中でも特権階級にはいります。
とはいうものの、土山宗次郎は先祖からずっと、位の高い旗本だったわけでなく、父 孝祖(たかそ)の時代はまだ下級武士でした。
父は、最初は勘定所の役人から、キャリアをスタートさせて、徐々に出世して、勘定組頭(かんじょうくみがしら)にまでなりました。
ここで一気に旗本の身分まで手に入れてしまったのです。
父 孝祖 は1代で、お目見えできるまでの旗本に、昇進したということは、相当有能な人物だったことが伺えます。
土山宗次郎の出世ぶり
父のおかげで、息子 土山宗次郎は、20歳で勘定所の役人、勘定の地位につき、1776年、36歳で、勘定組頭になりました。
勘定組頭に、土山宗次郎を抜擢したのは、他ならぬ、老中 田沼意次でした。
勘定所では、幕府の財政の管理・運営が主な仕事で、そのほかには、全国の幕府が管理する直営地への人員の派遣とその監視がありました。
勘定所のトップ官僚は、勘定奉行であり、奉行の補佐役が組頭 です。ですから、土屋宗次郎はかなりくらいの高い役人なのです。
土山宗次郎の出世は、父ゆずりの、高い能力の持ち主だと思います。
土屋宗次郎の目は、ロシアに
1700年代後半、日本はロシアに目が向くようになりました。
というよりも、ロシアが日本への南下を考えているらしい、という説が浮かび上がりました。
仙台藩の医師がロシアを脅威に思い、書いた本が「赤蝦夷風説考」(あかえぞふうせつこう)でした。
この本を読み、土山宗次郎もロシアの行動に危機感を感じ、「赤蝦夷風説考」、ロシアの脅威を田沼意次に告げたのです。
そこで、田沼意次は1784年蝦夷地へ調査団が送られることとなりました。
調査団に同行したのが、土山宗次郎、だったというわけです。
まとめ
土山宗次郎は、最初の印象では育ちの良い、旗本の息子、というイメージでしたが、どうもそれだけではなさそうです。
確かに、田沼意次に実直に仕えたところはありますが、なかなかの遊び人で給料や財産を散財するところがある人物です。
だからこそ、有名な花魁を身請けして、妾にしようと思ったのでしょう。
しかし時代の華やかな面ばかりを見過ぎて、気がついたら自分の主君 田沼意次、意知親子と共に愛大の波に飲まれてしまいました。
土山宗次郎は、ロシアの脅威、蝦夷地の開発に目をつける聡明な面を持ち合わせていたので、惜しい人材だった、と思います。
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