山東京伝は、浮世絵師、戯作者、絵も描く、小説も描くというなんでも書いてしまう売れっ子作家です。
そんな有名人でも、逮捕されたこともあるのでっす。
名前が面白いですね、由来があるのでしょうか?戯作者となったときは名前も呼び変えていたようですよ。
蔦重と出会った、粋な江戸っ子を古川雄大がキャスティングされています。
小説、浮世絵以外にも才能を発揮する、山東京伝、詳しく調べてみました。
山東京伝、名前の由来
山東京伝…なんと読むのだろう?やまとうきょうでん?
いいえ、さんとうきょうでん、と読みます。本名ではなく、作家名 いわゆるペンネームです。
本名は 岩瀬 醒(いわせ さむる)といい、父親の家業は質屋で、生まれた家は深川木場にありました。
父は職業状況は悪くなく、山東京伝は裕福な家庭に育ったのだろう、という研究結果が出ています。
1761年の生まれで、没年は1816年です。
若い頃は、長唄や三味線を習った、ことからも、裕福なお坊ちゃん、と思えてきますね。
のちには、岩瀬 醒 は新両替町、つまり銀座京橋1丁目あたりで、商いを始めます。
醒 は自分の通称を 伝蔵(でんぞう)としていたので、自分の店の所在、京橋から「京」という字を取りました。
そして、江戸城にあった「紅葉山」の東という意味を加えて、「山東京伝」とい名前を付けたのでした。
山東京伝と北尾政演は同一人物?
山東京伝には、北尾政演(きたおまさのぶ)というもう一つの顔があります。それは浮世絵師です。
山東京伝は、最初は絵師になりたくて、当時人気の浮世絵師 北尾重政(きたおしげまさ)に師事します。
北尾政演は非常に才能があったので、北尾重政門下では有望視されていました。
そして手がけた作品が黄表紙本の挿絵で、これが評判になりました。
その本は、「お花半七開帳利益札遊合」(おはなはんしちかいちょうりやくのめくりあい)といい、、北尾政演のデビュー作ではないかというのが、通説です。
しかし、デビュー作で人気を得る、ってかなりの才能ですね。
黄表紙本とは
江戸時代、1660年代中高半期頃はやった、挿絵入りの読み物です。最初の頃は子供向きの娯楽本だったのですが、だんだんと風刺を載せた作品になってきます。 読み物は、表紙が黄色だったので、黄表紙と呼ばれています。 大きさ的には半紙二つ折りくらいの大きさで、一冊が5枚ほどの紙で形成されて(10日ページ)、 2、3巻で1部という形式でした。 |
山東京伝は、戯作者にもなった?
山東京伝のデビュー作と言われている「お花半七開帳利益札遊合」が有名になると、今度は、時bんん一人で、挿絵とともに文章も手がけてみることにしました。
戯作の面白さに気がついて、自分の書いてみようとし、戯作に挑戦しました。
作家としてのデビュー作品は、1780年、「娘敵討古郷錦」(むすめかたきうちこきょうのにしき)、女性が仇討ちする話です。
1782年には「手前勝手御存知商売物」(てまえがって ごぞんじしょうばいもの)という黄表紙本を出版し当時の文壇の大物 大田南畝(おおたなんぼ)から高評価を得ました。
山東京伝、22歳の時(1782年)の時です。
これはちょっと変わった小説で、江戸に流通していた出版物を擬人化し、色々なジャンルの本同士を対立させる、内容です。
戯作が人気が出たことで、「山東京伝」この名を作家名として使いそして、戯作者としても名を売り出すようになりました。
戯作(げさく)とは、江戸時代の娯楽小説です。たわむれ(戯れ)に作った本だから、戯作です。
戯作には、「黄表紙」、「洒落本」と全ての娯楽読み物を指しています。 |
山東京伝、蔦屋重三郎と出会いは事実?
山東京伝は、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)こと 蔦重(つたじゅう)に実際、出会っています。
山東京伝、蔦重、出会いはいつ?
ただし、「手前勝手御存知商売物」の時は、まだ蔦重の版元を利用していません。
1782年に、ある酒席で、山東京伝と蔦重は出会った、とされています。
山東京伝は深川、蔦重は吉原と、どちらも遊郭に近いところで生まれたために、お互いよく話があったのではないでしょうか?
どちらも、江戸っ子の「粋」を大切に思う人たちでしたから。
山東京伝、蔦重と出会ってから
1784年には蔦重と、山東京伝が協力して「吉原傾城真美人合自筆鏡」(よしわらけいせいびじんあわせじひつかがみ)から組んで、一緒の本を作っていくことになります。
「吉原傾城〜」の見どころは、遊郭の日常の描き込みです。
遊女の表情はもちろんのこと、衣装、身のこなしといった動きを的確の捉え、しかも美しく描きだしています。
山東京伝のマルチタレント性は、蔦重の構想にぴったりだったのではないでしょうか?
山東京伝の人気と蔦重の本屋の繁盛は、お互いがいればこそ、つまりwin-winの関係と言えますね。
1786年(1787年ともいわれますが)には、「通言総籬」(つうしんそうまがき)が蔦重の手で刊行されました。
これは、洒落本は、山東京伝が、3人の遊び仲間と、遊女の話、遊女と客と駆け引きする場面を巧みに描きだしており、洒落本の最高傑作なのでは、という評価です。
蔦屋重三郎については、こちらをどうぞ。
山東京伝は、古川雄大に!
育ちが良くて、男前で、粋で…そんな山東京伝に誰がキャスティングされるかと言えば、やっぱり古川雄大さんでしょう!
古川雄大のいなせぶりは、2023年NHKの男女逆転の「大奥」で証明済みです。
NHKでの、山東京伝になるかというと、
「絵なんてモテるために描くんだ」というセリフが出てきますし、女性好きで、その反面
鋭い感性の持ち主で、その鋭さが絵に現れている、ということです。
多分、育ちの良さも滲み出てくるような人物になりそうな予感がします。
山東京伝、処罰される?
楽しい本を書いて、庶民を楽しませている、山東京伝。
しかし、そんな時代はいつまでも続きません。
政治を執り行う人物老中がが、田沼意次(たぬまおきつぐ)から松平定信に変わる、という政権交代が原因でした。
山東京伝、松平定信に目をつけられる
松平定信(まつだいらさだのぶ)は、田沼意次とは方針を変え、社会を引き締める政策をとり、田沼意次が奨励した娯楽による文化の発展を認めない人物でした。
それが寛政の改革(かんせいのかいかく)なのですが、改革には出版物の統制も入っていました。
出版物は、娯楽性の高いものを排除する、というものです。
「風俗的によろしくないことや、真実を書いていない本は厳しく取り締まる」「こうした本は絶版に処する」
と言う令には、山東京伝と蔦重の出版物が、まさに当たってしまい、幕府から目をつけられてしまいました。。
男女の遊びは、不品行とみられる世の中へ、時代がシフトしたのですね。
松平定信は、田沼意次の時代をすべて否定することで、自分の改革を成功させる、心づもりが見えてくる政策だと思います。
山東京伝、逮捕!
1791年、ついに、山東京伝は、奉行所からのおふれがきが出て、捕まってしまいます。
受けた処罰は、手鎖、50日の刑。
両手首に手錠のように鎖をかけられ、自宅に監禁され50日過ごす、というもので、手を2ヶ月近く使えない、というのは肉体的にきついですね。
一方の蔦重は、罰金刑でした。こちらの方が軽いかも?思うかもしれませんが、ものすごく多額の罰金だったので、蔦重にとってもきつい仕置きでした。
松平定信は、こうした娯楽的書物は嫌いではなく、むしろ楽しんでいた、と言われています。
それなら、山東京伝と、蔦重に与えた刑罰は、「見せしめ」だったのでは?と、考えられています。
とにかく、ひどい目にあってしまった、山東京伝でした。
山東京伝、処罰の後は?
見せしめの差別、山東京伝には相当こたえました。
それも肉体的にではなく、人気作家が処罰を受ける、という屈辱に耐えられなかったようです。
そこは、いいとこ育ちの坊ちゃん出身ですね。打たれ弱かったのかな?と思ってしまいます。
というのも、処罰が終わった時には、「筆を折る」(作家をやめる)ことを考えていました。
しかしそんなところを、蔦重に止められ、また蔦重と共に新しい作品を描き始めます。
そして書いた小説は「箱入娘面屋人魚」(はこいりむすめめんやにんぎょ)という本で、「浦島太郎」をベースにした話で、
浦島太郎は、乙姫と結婚していたのですが、鯉と浮気をしてしまその結果生まれた子供が人魚。
その人魚の物語で、ドタバタなユーモアあふれるお話です。
人魚が出てくるなど、ちょっとシュールに見えますが、最後には玉手箱も登場し、大団円に終わりました。
山東京伝は、曲亭馬琴(滝沢馬琴)を弟子にした?
曲亭馬琴(滝沢馬琴)とは、「南総里見八犬伝」の作者です。
山東京伝が、遊女であった「菊」と結婚した頃に弟子にした人物で、山東京伝のただ一人の弟子です。
山東京伝は、人当たりもよく、かっこいい、でも時にはチャラく見えるのですが、弟子になった曲亭馬琴は、師匠(山東京伝)に似ず、堅物な人物でした。
山東京伝を曲亭馬琴が見ると?
しかし、実直そうに見えてはいますが、しかも弟子であるにもかかわらず、曲亭馬琴は山東京伝の妻のことを、自分の手記で、悪く書いています。
「それほど美人ではない」
「菊(山東京伝の妻)が病気になると、山東京伝はろくに家にも帰らず、吉原で遊び歩いている」
「あげくのはてに、別の遊女と仲良くなる」と。
山東京伝は、粋を好む人だったので、遊んでいたことは十分に考えられますが。
でも、山東京伝は、妻の病気をちゃんと労わっていました。
菊、という女性は、遊女で、山東京伝が身請けしたのですが。それほど美人ではなかったということが伝えられています。
こうしてみると、山東京伝は人間的い、優しい人物だったlことが、うかがわれます。
山東京伝は、なぜ曲亭馬琴から悪く書かれた?
それは、曲亭馬琴に、山東京伝に対する、嫉妬心があったからのようです。
まず、見た目。山東京伝は、イケメンで洒落者で、遊び慣れて、人気作家で、実家も裕福でした。
一方の、曲亭馬琴は、貧しい家庭に生まれ苦労の中で成長しました。
それに加えて、妻のことも…山東京伝の妻は、元遊女で、遊女というからには美人。
曲亭馬琴の妻は、養子に出されて、その家の娘と結婚することになったのですが、そんなに美人ではなく、年が上、しかも馬琴とは性格が合わない、といった、馬琴には不満がありました。
馬琴が、山東京伝について、一番悪く書いていたのが、妻に関してでした。
馬琴は、子供の頃から勤勉で、漢文の知識が豊富で、それは師匠の山東京伝をしのぐほどでした。
漢文に明るいということは、滝沢馬琴は理性的な性格の持ち主、と言えます。
だから、遊女を妻にする、という考えが許せなかったのです。
それが、山東京伝を悪くかく、一番の理由になっていたのでしょう。
曲亭馬琴(滝沢馬琴)については、こちらをどうぞ。
山東京伝が書いた洒落本とは?
山東京伝は、黄表紙本だけでなく、「洒落本」と呼ばれる分野でも人気がありました。
黄表紙本は、昔からの話を生かした物語でしたが、「洒落本」は、江戸っ子の通(つう)ぶりを、吉原などの遊郭を舞台にした小説本でした。
黄表紙本は、挿絵で見せる本だったのに比べて、洒落本の場合は、文章が多いものでした。
江戸っ子の通を描き出すということは、客と遊女の駆け引き、こんなことをするのが野暮(やぼ)といった、遊郭遊び方手引きでもありました。
どちらかというと、女性が読んで楽しむというより、男性向け?
山東京伝は、洒落本書きの中でも、特に人気がありました。
やっぱり、遊び慣れていた?そんなことを、うかがわせます。
山東京伝の代表作は?
上記に、山東京伝の本を、すこし挙げましたが、ここでは有名で人気のあった、本を2冊、紹介いたしましょう。
山東京伝の本、「江戸生艶気蒲焼」とはうなぎの本?
「江戸生艶気蒲焼』(えどうまれうわきのかばやき)は山東京伝が、1785年に書いた黄表紙本の一つです。
この本で、山東京伝は一躍有名になりました。
山東京伝の本、うなぎは関係ない!
「蒲焼」といえば、「うなぎ」の調理法が有名なため、この小説も「うなぎ」と関係?と思うのですが、「うなぎ」には全く関係ありません。
では、なんでこんな名前がついたのかといえば、江戸前 と言えば、うなぎ という連想なのですが、その言葉を使った、言葉遊びなのです。
「べらぼう」のドラマでも、タイトルに「蔦に唐丸因果の蔓」とか「ありがた山の寒がらす」などにある、語呂合わせ、ここば遊びのようにつけられているののが、その感じです。
北尾重政の名前で、小説を書き、山東京伝の名前で挿絵を描き、そして、出版は蔦重の手によるものでした。
山東京伝の本、「艶二郎」が人気もの?
内容は、艶二郎(つやじろう)という主人公が、イイ男のように振る舞って、とにかくモテたい、と思い、モテるべき行動を繰り返す話です。
とはいうものの、実際はイイ男ではなく、不細工な団子鼻の持ち主でした、その証拠に物語の挿絵の艶二郎は、団子鼻に描けれていました。
艶二郎というキャラは、人気の出たキャラクターで、山東京伝が気に入っていたのはもちろん、そのほかの作家の作品にも、艶二郎は登場します、時には艶次郎、という名前になることもあります。
現代なら、著作権に引っかかるでしょうが、江戸時代では気にならなかったのでしょうね、
それどころか、山東京伝が、売れたことのあかしとして、むしろ歓迎されていたようです。
山東京伝、仕懸文庫
仕懸文庫(しかけぶんこ)は山東京伝の戯作ですが、物語でありながら、江戸の街の楽しみ方を同時に書いた本でもあります。
「楽しみ方」と言っても、男性が楽しむというシチェーションで、歓楽街の遊び方本なのです。
3人お武士が屋形船に乗って、深川仲町の岡場所(現在の門前仲町)に遊びに行くというわけです。
「岡場所」とは、吉原とは違い幕府公認ではない遊女街です。
遊び慣れた一人人物が、ほかの二人を案内する、そんな舞台建てです。
小説の形にした、遊女遊びのイロハなのでしょうか?
本は、絵はもちろん挿絵付きですが、文章が結構細かい。
江戸時代の人は、マメに本を読んだのだな、ということが感じられます。
これは1791年の作品で、この年に、山東京伝は、幕府から処罰を受けました。
山東京伝は、できるだけ、幕府から悪書とみあられる内容を、取り去った、つまり、1700年代後半の江戸ではなく、それより昔の時代を描きこんだ、と言っています。
しかし、幕府側はそうは見なかったのですね、だから、山東京伝は処罰対象になってしまいました。
山東京伝はデザインの名手?
1793年、山東京伝は自分の店「京屋伝蔵店」(きょうやでんぞうてん)を持ちます。
場所は京橋銀座1丁目。名前は自分の本名にちなんだ名前をつけています。
銀座に店を出すことは、現代ではとてもステイタスの高いことを意味しますが、当時でも、なかなかおしゃれな店、とみなされていました。
また、小紋のデザイン集も出版しています。
山東京伝、店を開く
山東京伝が、銀座に開いた店、それは、煙草入れを売る店でした。
江戸時代のタバコとは煙管(きせる)で、店で扱う、煙管や煙草入れ(タバコの草)を自分でデザインしていました。
店を営業することを、山東京伝の家業としたかったのです。
というのも、山東京伝は、戯作者として、絵師として有名で人気がありましたが、山東京伝自身は、クリエイターとして知られるより、町民として生活したい、という希望があったからでした。
その理由を知る史料はありませんが、
現代での「普通の人になりたい」と言って芸能生活を引退する人に心境に似ているかも?
あるいは、処罰を受けたことで、もっと着実にお金を稼げる仕事についておきたい、という希望があったからでしょうか?
とはいうものの、実際に店を運営していたのは、山東京伝の父 岩瀬伝左衛門でした。
煙草入れ、キセルのデザイン以外にも。店の宣伝ポスターを描くし、これでは「普通の商人」どころではなく、もう有名デザイナーじゃないでしょうか。
店は繁盛しました。当然ですね。
小紋雅話
「こもんがわ」と読みます。
山東京伝のデザインブックといえる本です。
「小紋」とは、着物の柄で、着物全体に入ってる細かい模様です。模様は上下方向はなく、繰り返し模様が続いています。
着物としては、ちょっと格は下がりますが、外出着、食事、などに使え、現在でも応用が効く人気の柄です。
山東京伝は小紋が好きらしく、「小紋雅話」の前にも「小紋裁」(こもんさい)という本を出しています。
デザインには、カタツムリ、飴細工、隈取(歌舞伎の顔の模様)などあり、洒落感たっぷり。
私たちの今見る、小紋は、小さな水玉、あるいは小花柄がほとんどなので、見たこともない模様には目を奪われます。
データ処理したものが、「国書データベース」でネットで、見ることができます。
山東京伝の肖像は?
山東京伝の肖像画は、残っています。鳥橋斎栄里(とりさきさいえいり)という1700年代後半の浮世絵師が描いたものです。
浮世絵によると、なかなかスッキリ顔のイイ男、当時のイケメンだったでしょう。
山東京伝が人気になったのはもちろん、書いた物語が面白いものだったからのなのですが、何よりもそのセンスの良さが、売れたのでした。
吉原でもよく、モテました。
その証拠に、山東京伝は、菊園という遊女と結婚しました。
山東京伝、「割り勘」の生みの親!
皆さんは、お友達を食事に行った時、飲みに行った時は、お勘定は「割り勘」にしますよね。
日本での「割り勘」という言葉を初めて使ったのは、山東京伝と伝えられています。
江戸時代中期までの、飲食の支払いはどうだったかというと、一人がまとめて払うのが普通でした。
そして後で、仲間内で代金をやり取りする、という仕組みでしたが、山東京伝は仲間内でこうした金銭のやり取りが、嫌だった、
ということで、一人一人が均等にお金を出し合う、「割り勘性」を提案しました。
金払いの良さをモットーとした、江戸時代の人たちからは、「京伝勘定」などと呼んで、いたというので、「けち」と思われていたのかもしれません。
しかし、山東京伝の弟子 曲亭馬琴は、山東京伝の「割り勘」は
『けち、ではなく、金銭のよる仲違いを避けるため、そして人と人との付き合いは、淡々としたもの、を山東京伝が好んでいた』と、書いています。
まとめ
山東京伝は、蔦屋重三郎と並び、江戸時代のマルチタレントということができます。
むしろ、山東京伝の方が、よりマルチタレントに近いでしょうか?
現代の私たちが、山東京伝の作品から、その審美眼に驚かされます。
特に、小紋のデザインの豊富さに目を奪われます。
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