蔦屋重三郎、顔は?吉原の生活。版元に憧れ「耕書堂」を持つ。パトロンにプロデューサーになり、浮世絵を有名に。

2025年の大河ドラマは「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺」といい、蔦屋重三郎が主人公です。

横浜流星が主役にキャスティングされていますが、どのような顔をしていたのかが気になります。

江戸時代のプロデューサーと言われる人物ですが、どのような所がプロデューサーだったのでしょう。

吉原に生まれ育ったことが、非常に影響しています。

エネルギッシュに働いた、蔦屋重三郎の仕事ぶりを調べてみました。

蔦屋重三郎、顔はどのような?

2025年度NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺」では、横浜流星さん、映画「HOKUSAI」では阿部寛さんと、イケメン俳優がキャスティングされています。

実際はどうだったのでしょう?

蔦屋重三郎の肖像画は、平民であるので、残っていませんが、蔦重こと蔦屋重三郎を描いた絵があります。

恋川春町の戯作「吉原大通会」3巻に描かれている、狂歌会の場面に描かれています。

その絵の中では、参加者に狂歌を書いてもらおうと、筆を紙を参加者に差し出している姿です。

その姿を見ると、スッキリ顔のイケメン、というか優男風です。

これでは、横浜流星サンにも、阿部寛サンにも似ていません。

こんな顔からだけでは、やり手の出版元には見えないのですが、優男風なところが曲者?

蔦屋重三郎と吉原

生まれた場所は、吉原。

吉原というと、江戸の一大娯楽施設、つまり遊郭です。

父は、丸山重助(まるやまじゅうすけ)ということは、判明しているのですが、その職業はわかっていません。

住んでいる場所から察するに、吉原に関係ある仕事についていたのでしょう。

母は、廣瀬津与(ひろせつよ)と言いましたが、両親は重三郎が7歳のときに離婚し、蔦屋重三郎は、喜多川家に養子に行きました。

喜多川家は吉原で、引手茶屋を営業していましらから、重三郎は、やっぱり吉原と縁のあるところで生活をすることとなりました。

生まれた場所、吉原以外の世界というのは蔦屋重三郎には考えられなかったのでしょう。

「引手茶屋」というのは、吉原の中で、ツアーガイド的な役割をするところでした。

吉原に来たお客さんを、遊女屋に案内するのです。

江戸時代は、商人たちは、子供の頃から家業の手伝いをしていました。

蔦屋重三郎の似たようなもので、家の仕事の手伝い、この場合は、遊女屋に案内する役目を言いつけられていたのでしょう。

だとすると、幼い頃から相当の吉原通になっていたに違いないでしょう。

蔦屋重三郎の原点はここにあるように思えます。

蔦屋重三郎、版元への憧れ

最初のスタートは、義兄が継いでいた家業の引手茶屋、の一角を借りて、貸本屋を始めたのでは、と見られています。

それは蔦屋重三郎を研究した鈴木俊幸(すずきとしゆき)が著書『蔦屋重三郎』の中で書いています。

本屋になる、という野心はここのあたりで生まれました。

貸本屋では、「細見屋」という商売も始めました。

「細見」(さいけん)とは吉原で人気の遊女屋の人気ランク付を出す店でした。

人気ランク付、というから、なんとなくフリーペーパーを想像してましたが、そうではなく、きちんとお金を取る、情報時でした。

そのランク付案内書は、とても人気が出て、それが蔦屋重三郎の次の本屋へのステップになりました。

人気のひけつは、これまで使われていた「吉原細見」(よしはらさいけん)の版権を1776年に譲られ、改良を加えた、ことでした。

1番のポイントは文字を大きくしたことにありました。

昔であろうと、今であろうと、文字が大きい、といのはうれしいことですね。

「細見」が売れることで、蔦屋重三郎は、版元になりたい、と思うようになりました。

版権を譲られた、というところにそもそも、蔦屋重三郎には、何か物を売れるようにする才がある、とみなされていた証拠tだと思います。

また、蔦屋重三郎にも「多くの人にたくさん本を読んでもらいたい、そのためには自分が版元にならなければ」という決意を持った、のですね。

蔦屋重三郎、「耕書堂」を開く

夢がかなった本屋が「耕書堂」です。

江戸時代の本屋、というのは今日のように出版社から製本されて届けられた本を売るシステムとは違います。

本屋 = 本の製作・販売、でした。

ですから、「版元」と呼ばれたのが江戸時代です。

ここでは、便宜的に、「本屋」という言葉を使います。

蔦屋重三郎の出版本、江戸庶民の好みに合う

蔦屋重三郎は、本の内容に、政治に関する意向、流行語を取り入れながら、江戸を舞台にし、内容に事件、風俗を入れました。

本の面白さを知るには、読み手の方も、ある程度の知識を持ち合わせが、必要でした。

蔦屋重三郎は「知的な面白さ」を本に反映させたことで、江戸庶民の好みにピッタリと合って、本が売れ行きが伸びていきました。

江戸庶民は、自分の知識が刺激される感覚を楽しんでいました。

蔦屋重三郎が売る本

1780年、蔦屋重三郎は、当時の人気作家「朋誠堂喜三二」(ほうせいどうきさんじ)の本を出版したところから、出版業をどんどん展開していきました。

当時の人気本は、黄表紙本と洒落本が主流でした。

黄表紙本(きびょうしぼん)とは、最初は娯楽中心の挿絵の入った、子供向けの本だったのですが、やがて、風刺、洒落の内容が入った本へと、変わっていきました。

現代の、劇画や漫画に似ているところがあり、表紙が黄色なのが特徴でうs。

黄表紙は元は、草双紙(くさぞうし)と言われる、種類の本から出ています。

草双紙は、おとぎばなし的な、子供向けの内容が主です。

黄表紙は、草双紙を大人向けにパワーアップさせた感じです。

もう一つ、江戸で流行っていた種類の読み物がありますが、それは洒落本と言われており、黄表紙と違うところは、恋愛を扱った小説でした。

物語の舞台は遊郭であることが多いです。

二つの種類の小説はどちらも人気がありましたが、

黄表紙は、さらに、伝奇物語、仇討ち物語などの物語形式に変容し、ますます人気を高めました。

蔦屋重三郎はパトロン

現代の講談師、神田伯山(かんだはくざん)は蔦屋重三郎のことを「愛と金で芸術を育てた男」と呼んでいます。

まさに、ぴったりな表現と思います。

物語を売ってお金をたくさん稼いで、また次の作品作りに投資する、ということです。

それも人々の喜ぶ作品を作ろう、という意思を持って本屋の営業をしていたのですから。

売上金は、次の人々の喜ぶものへの資金です。

と作り手(売り手)と買い手の両方が喜ぶものを作っていたにも関わらず1887年、寛政の改革が全てが、政策に反する、とされてしまいました。

これまでとはガラリと変わり、娯楽作品が風紀を乱すもの、作品は排除され、自身も処罰されました。

それでも版元、という商売をやめませんでした。

そこにあるのは金儲け主義だけではなく、江戸に対する愛があったと思われるのです。

蔦屋重三郎はプロデューサー

現在、蔦屋重三郎を、一言でいうと、「プロデューサー」という言葉が当てはまります。

それは、「耕書堂」で作った本が売れた。

そして、浮世絵師の発掘、売り出しに力を入れたことにあります。

蔦屋重三郎、版元の仕事を充実させた

蔦屋重三郎の「耕書堂」は、挿絵付き読み本を自ら作るために開いた本屋(版元)ですから、

一人で全てを監修する仕事は、蔦屋重三郎にとってはお手のものでした。

それが、上記で述べたような、「黄表紙」本や、「洒落本」で、蔦屋重三郎は売り上げを伸ばしました。

「山東京伝」(さんとうきょうでん)や「大田南畝」(おおたなんぼ)といった、当時人気だった戯作者と仲良くなり、彼らの本を出版。

新しい作家、滝沢馬琴(たきざわばきん)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)などの新人作家を発掘し、本をかかせ、出版する、

新人たちの、本も売れる、というのだから、蔦屋重三郎の人を見る目は確かです。

これも、幼い頃から、引手茶屋で暮らし、遊女も客も数多くの人を見て養われた目なのでしょう

蔦屋重三郎、浮世絵に目をつける

寛政の改革で、蔦重の本は風紀を乱す悪いもの、と目をつけられ、処罰として、財産の大半を没収されました。

しかし、それでもめげずに、再起復活を目指すのが、蔦屋重三郎です。

今度は浮世絵に目をつけました。

浮世絵師は元々絵師として、物語本の挿絵を描くこともありましたが、今度は浮世絵だけの勝負です。

浮世絵は、絵師→彫師→刷り師、という3つの段階を一人づつが作成するのですが、蔦屋重三郎はその過程を一人の慣習のもとで、進めました。

もう一つ、なるほどプロデューサー、と思わせる仕事は、浮世絵師の才能を発掘させた、ということです。

歌麿はその代表格であるし、写楽も然りです。

写楽の場合、大首絵と言われる、顔が極端に大きく、手が小さいのが特徴です。

写楽の急なデビュー、大胆な構図をどうして蔦屋重三郎が認めたか、その後写楽は突然姿を消す、などわからないことがあるのですが、今でも謎のままです。

この唐突さが、蔦屋重三郎の手腕そのものだったかも、なんて想像もできます。

まとめ

蔦屋重三郎は、まさに吉原の申し子と言っていいかもしれません。

吉原で生まれ育ち、吉原の人間を見て育ち、審美眼が養われていった人物なのです。

そこから、娯楽の天才、娯楽のプロデューサーとなっていきました。

江戸時代の華やかさ、というと元禄時代が連想されますが、元禄から100年ほど経ったこの蔦屋重三郎の時代も、なかなかに華やかな時代です。

その華やかな、江戸文化を2025年「べらぼう〜蔦重栄華之夢噺」から感じ取ってみましょう。

なお、蔦屋重三郎の生涯、生い立ちなどについてはこちらもご覧ください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました