誰袖、というこちらも実在の花魁が、瀬川に変わって登場しています。
この花魁もまた美しく、狂歌読みが優れており、吉原のトップをいきました。
蔦重、田沼意知、と次々と恋をしていく人物のようですが、土山宗次郎という身請けしてくれた人物と事件に巻き込まれます。
次々恋をしながらも、あまり幸せな人生を送れなかった花魁の人生を、ご紹介します。
誰袖という花魁は実在?
べらぼうに出てくる誰袖(たがそで)は実在の花魁です。
誰袖の名前は、「吉原細見」に載っています。
「〜細見」とは吉原についてのガイドブックのようなもので、特に目を引くのが、どの遊女がどの店にいるか?と書かれていることです。
「吉原細見」1783年度に出版されたものには、「だいもんしや市兵衛」の店の「たがそで」と書かれています。
「たがそで」の横には「よびだし」と書き添えられています。
何で「よびだし」と言われているか、というと、特別なお客さんだけが、誰袖を自分のところに指名することができたからです。
「よびだし」とは、吉原の遊女たちの中で、格が高い遊女を意味し、つまり美人でもあり、なお知性も素晴らしかった、遊女 オブ 遊女というべき花魁でした。
「だいもんしや」とは「大文字屋」で、「べらぼう」の中では、伊藤淳史さんが演じられています。
そんな「誰袖」の名前ですが、1784年には「細見」からはまるで、消しゴムで消して今ったかのように消え失せています。
その理由は、身請けされたからなのです。
ここだけ見ると、誰袖は花魁人生の勝ち組のように見えますね。
誰袖、名前の意味は?
「誰袖」という名前は「たがそで」と読みますが、「誰袖」と聞くと匂い袋が思い出されます。
この吉原の遊女「誰袖」の名前は、遊女としての名前で、つまり源氏名です。
源氏名は、遊女としての芸名みたいなものですから、きれいで雅なイメージを漂わせる名前をつけます。
誰袖の本名はわかっていませんが、「べらぼう」では「かをり」と少女時代に呼ばれていました。
「べらぼう」での創作した名前のようです。
「誰袖」から、発想を得て本名を「かをり」としたのでしょうね。
「誰袖」は最初は、古今和歌集に出てくる
「色よりも香(か)こそあはれと思ほゆれ 誰が袖(たがそで)ふれし 宿の梅もぞ」
(意味 : 梅は色よりも香りの方が 思い入れ深く感じられる。宿の梅の花に誰かの袖がふれて、梅の残り香が移ったせいだろうか)
と、和歌から作られた、匂い袋のことで、袖の形に作った袋を二つ作り紐でむすび、中に香料を詰め、自分の衣類にひそませたおしゃれアイテムです。
遊女の、源氏名を「たがそで」なんて匂い袋の名前にするなんて、なかなか風情がありますね。
誰袖と、田沼意知の関係は本当?
誰袖を身請けした、土山宗次郎(つちやまそうじろう)は、田沼意次(たぬまおきつぐ)の家臣だったので、誰袖と意次の息子 田沼意知(おきとも)との間は実際どうだったのか気になります。
誰袖も、田沼意知も実在の人物なので、2人の恋愛物語も実際のものだったのかな?と思いたくなりますね。
でも、その話は現実味がなく、歴史としては残っていません。
誰袖と田沼意知の恋物語はどうして始まった?
江戸時代の、芝居、講談などでは、花魁 誰袖が、田沼意知に恋をしていた、という設定で描かれています。
そこから、「べらぼう」でも、2人の恋愛を盛り込んだのだと思います。
「べらぼう」の中では、誰袖は田沼意知(田沼意次の息子)に、ある話しを持ちかけたところから2人の仲は始まりました。
いえ、誰袖は恋というより、恋の駆け引きを楽しんでいるようすです。
恋物語はない、とは言いましたが、反対に、誰袖・田沼意知の関係はなかった、と言う史料もありません。
ここは創作の腕のみせどころです。
では、なぜ、誰袖・田沼意知の物語が作られたかと言うと、下記の二つが考えられます。
- 田沼意知は、嫌われ者の田沼意次の息子が、殺されるという事件は、後の時代には、田沼意知は、民衆からは、若くして散った青年官僚に変化して悲劇のロマンス芝居の主人公になった。
- 花魁の名前、「誰袖」は美しさを感じさせる名前。だからこそ、報われないロマンスの主人公にしたい。
田沼意知は、番組で、誰袖を情報提供者として使おうとしているのが、物語を盛り上げています。
あの場面からは、田沼意知はイケメンでありながら、冷酷な面を見せていました。
しかし誰袖も負けていない様子、物語に伝えられているような、しおらしく恋する女性のようには見えませんね。
さすが人気者の、花魁、という感じです。
これからの展開は、誰袖が恋に泣くのではなく、恋しつつも客を手玉に取ろう、たくましい花魁として描かれるようなことになりそうな気がします。
誰袖、田沼意知が刺殺された時には?
「べらぼう」の中では、田沼意知の葬列で、誰袖が悲しみのあまり、田沼意知の棺を守ろうとする様子を見せます。
この場面は、創作ではありますが、誰袖の気持ちをものすごく表していると思います。
誰袖と田沼意知の恋愛が事実でなかったとしても、誰袖の花魁としての立場もここで描かれています。
幸せになれそうだった、誰袖の将来が、ここで一気に崩れ落ちました。
花魁という仕事はは、非常に不安定な立場の上に成り立っています。
借金のかたに、遊郭に売られ、買われた店のために一生懸命働いて、お金を稼ぎ出す、人格などあったものではない商売です。
花魁という吉原最高に地位についたとしても、歳をとる、病気にかかる、その地位は運命と背中合わせです。
その中にいて、遊女たちは、少しでも安定した生活を送りたいと、切に願うのです。
一番いいのは、金持ちのそして、名のある旦那を持つこと、それが彼女らの幸せなのです。
金持ちや、地位のある男性は、有名な花魁を妾にして囲うことが、ステイタスと思われていた時代です。
田沼意知が死に、遊女の希望が打ち砕かれた瞬間が視聴者の共感を得て、まるで事実のような気さえしてくるのです。
誰袖のいた「大文字屋」とは?
大文字屋は吉原の遊女屋としては、新しい方、つまり新興勢力(?)のような存在です。
「べらぼう」での、大文字屋の主人は、大文字屋市兵衛(だいもんじやいちべい)といい、初代だった、村田市兵衛の婿養子です。
「べらぼう」では、初代も2代目も同じ俳優さんが演じておられますので、ちょっと見分けがつきにくいです。
ここでちょっと大文字屋の紹介もさせていただきます。
大文字屋市兵衛、かぼちゃと呼ばれたわけは?
その理由は、大文字屋市兵衛がドケチだったからです。
お金を貯めるために、自分の店の遊女たちにかぼちゃを食べさせて、食費削減していました。
かぼちゃは、腹持ちが良く、当時でも値段が安い食材でした。
店の遊女たちはもちろんのこと、お客さんたちも聞きつけて、市兵衛のあだ名をかぼちゃ、と呼んでいました。
しかし、遊女という容姿が商売道具の女性たちに、カボチャばかり食べさせていては、太ったりと体型に難あり、ということにならなかったのでしょうか?
また、大文字屋市兵衛は背が低く、丸い目をしているルックスも、人々にかぼちゃを連想させていたようです。
大文字屋は元は、吉原の真ん中ではなく、吉原でも西側に位置していた河岸に遊女屋を開いていましたが、徐々に稼ぎを増やして、吉原中央通りに移転してきました。
かぼちゃ節約がうまくいったのですね。
その前にいた、西側河岸という場所は、吉原の中でもかなり落ちぶれた地域で、そこで働く遊女たちも、高いお金を払ってくれるお客もいない、言ってみれば場末の女郎、という感じでした。
ちょっと、例を挙げてみますと、漫画・アニメの「鬼滅の刃」で、鬼の兄妹 妓夫太郎と堕姫が過ごしていたようなひどい場所です。
大文字屋市兵衛、加保茶元成がもう一つの名前とは?
加保茶元成(かぼちゃもとなり)とは、大文字市兵衛です。
大文字市兵衛は狂歌師だったので、そのペンネームが、加保茶元成 だったというわけなのです。
加保茶元成が主催者となって「吉原連」という、狂歌のグループを作りました。
自分のあだ名だった、「かぼちゃ」をもじってつけたのでしょう。
自分につけられた、あだ名を、ペンネームにしてしまうなんて、なかなかのユーモアの持ち主です。
その吉原連には、蔦重こと、蔦屋重三郎も加入していました。
誰袖といえば狂歌?
誰袖というば、狂歌に優れた遊女という評判でした。
それは大田南畝(おおたなんぼ)たちが編集した「万載狂歌集」(まんざいきょうかしゅう)に歌が選ばれているところからわかります。
寄紙入恋(かみいれによするこひ) という題をつけて
「わすれんとかねていのりしかみ入れの などさらさらに人のこひしき」
(意味は、忘れようとしてもわすれられない人がいます)
江戸時代の遊女・花魁たちは見た目が美しいだけではなく、歌を読む能力や楽器演奏、踊りにおいて優れていなければなりません。
誰袖の場合は、特に狂歌のうまさが有名でした。
誰袖はもちろん他の芸事も稽古していたと思いますが、特にうまい、と言われていたのが狂歌でした。
田沼意知も狂歌作りを隠れ蓑にして、吉原に現れたので、誰袖とは気が合うのも当然です。
誰袖事件とは?
誰袖は、身請けされることとなりますが、その時 1200両の金が動きます。
その1200両の出所が疑われ、見受けした本人が罪に問われて処罰されてしまったことが「事件」なのです。
1200両は、疑惑の金、公金だったということなのです。
誰袖を身請けしたのは、土山宗次郎という人物に、1784年に身請けされています。
土山宗次郎が身請けに支払った巨額のお金がどこから出たか?大金出費に次いで、土山宗次郎は罪に問われ、その主人だった、田沼意次までもが失脚。
という、江戸時代の大きなスキャンダルを引き起こすきっかけとなります。
身請けされた、というのは、ちょうど、1784年あたりから、「吉原細見」に誰袖が載らなくなっているので、吉原から姿を消したことがわかります。
同時期の作家、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)による黄表紙本「文武二道満石通」(ぶんぶにどうまんごくとおし)に、描かれています。
土山宗次郎が、誰袖を身請けするために、公金である大金を横領した、という記述です。
そこには、本人たちとは明記していませんが、誰袖と土山宗次郎本人たちとして、当時ではすでに知られていました。
その挿絵によると、かなりの贅沢三昧の遊びっぷりです。
誰袖、土山宗次郎に身請けされた?
誰袖は、土山宗次郎(つちやまそうじろう)という、幕府の高級役人に身請けされました。
どのくらい高級だったかというと、勘定方の組頭、というのですから、現代で言えば、財務省の事務次官あたりに相当します。
しかも直属の上司は、田沼意次なのです。これだけでも、土山宗次郎の権力は相当大きい、と想像がつきます。
誰袖に土山宗次郎、多額補身請け金を払う!
身請け金は 1200両。現代の金額だと、数千万円〜1億円あたりになります。
いくら、高級役人でもちょっと度が過ぎる、と思いませんか?天明時代の、平均的な武士の給金は、現代日本の約500万円に相当します。
上級官僚だと、もう少し多めの給料が見込めて、1200両ぐらいあるかもしれませんが、それでも年収を全部、遊女の身請け金に使ってしまうのは、ちょっとむりです。
生活資金がなくなってしまいますので。
だから、当時も、横領金を使って見受けしたのでは?と思われてしまうのです。
土山宗次郎は、田沼意次の失脚に伴い、罪に問われて、死罪となります。
せっかく、大金を支払われて見受けされるのでしたが、身請け後の誰袖は、幸せになれなかったのでした。
誰袖、なぜ土山宗次郎の身請け話の乗った?
誰袖が、土山宗次郎の妾となった理由というのは、芝居や講談などのフィクションにしか表れていません。
誰袖の目には、土山宗次郎は誠実な人に写り、「この人になら…」と想いを寄せることとなり、宗次郎に身請けされることを決意します。
土山宗次郎にとっても、誰袖は大切な存在になってきます。
土山宗次郎は、公金横領してまで、誰袖を身請けしたいと思い、それが発覚して処罰される、という流れです。
以上の、話の流れは、フィクションの要素が強いです。
それでもここから感じられるのは、誰袖は惚れっぽい性格だったということでした。
蔦重に惚れて、田沼意知に気持ちが惹かれて、そして土山宗次郎と恋の対象が移っていた事が、誰袖の悲劇に繋がって行きました。
誰袖は蔦重が好きだった?
NHK大河ドラマ「べらぼう」の中では、誰袖は蔦重こと蔦屋重三郎に想いを寄せています。
一人の遊女の恋の行方がどうしたか、などと言うことは伝えられていないので、誰袖の想いは、演出上のフィクションです。
幼い頃から吉原で育ったもの同士、恋心が芽生えることは、実際にあったのかもしれませんね。
実際に、遊女とお客との間に恋心が生まれ、心中する事件もありましたから、遊女と吉原で働く男性との間の恋物語だって、存在しても不思議じゃありません。
「べらぼう」の中では、誰袖は、蔦重に「自分(誰袖)を身請けしてくれ」とかなり積極的に迫っていました。
同じく「べらぼう」内で、田沼意知にも、誰袖が田沼のやり方に協力するから、その見返りが欲しい、とここでも、迫っていました。
誰袖は、男性に対し、かなりグイグイいくタイプに見えますね。
そして、かなりの野心家に見えます。
何に向かって野心を燃やすのでしょう?誰袖は田沼意知といい、蔦重といい、有能でイイ男を自分に引き付けておきたい女性なのですね。
誰袖のその後は?
誰袖の、身請け後の話は、残っていません。
花魁は人気者であっても、身請け後は、普通の人になってしまうので、身請け後の話はほとんど残されていません。
誰袖も、土山宗次郎に身請けはされても、土山は死罪にされてしまい、誰袖の結末は全く知られていません。
まとめ
吉原には、遊女がたくさんいて、性格や資質もそれぞれ違います。
それでも蔦重は、瀬川、誰袖、どちらからも好かれました。
蔦重は、吉原の中にいて、誰にでも優しく、熱血でひたむきに自分の情熱を追いかけています。
吉原の遊女たちには、そんな蔦重がまぶしくてたまらないのでしょう。
それだけ吉原の女郎たちは、自分の自由に飢えている、そんな事実を感じさせるのが、この誰袖であり、瀬川なのです。
女郎たちは自由を追い求めるために、身請けされるのではないでしょうか?
例え不幸な結末が待っているとしても、彼女たちは、自由を求め続けるのです。
悲しい自由ですね。
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