大田南畝(おおたなんぼ)という人物が、2025年NHK大河ドラマ「べらぼう」に登場してきました。
このかたは、狂歌というユーモアの溢れた歌や、戯作という楽しい読み物の作家で、お堅い役人でもありました。
かなり楽しい人物で、桐谷健太さんの活躍が楽しみです。
これまでの私たちにあまり馴染みのない、大田南畝、一体どんな人なのでしょう。
蔦重との関わり合いもどのような様子だったのでしょう?
ここでは、大田南畝の魅力を調べてみました。
大田南畝の裏の顔とは?
大田南畝とは、現代では、狂歌作家など江戸時代中後期の文人として有名ですが、こちらの仕事は、大田南畝の裏の顔だったのです。
裏の顔は「夜の顔」です。
昼間は本業に励み、昼の仕事終了後、夜には、気のあった仲間たちと、狂歌・戯作・洒落本を読み、遊びに夢中になっていました。
狂歌や戯作など、現代でこそ江戸時代の芸術作品ですが、江戸の当時は、洒落た遊びごとだったのです。
「夜の顔」、「裏の顔」と聞いた時、影で殺し屋でもやっているイメージですが、そうではなく、遊び人だったということですね。
吉原の遊女を身請けし、自分の妾にしていたのですから、女性も大好きだったのですね。
多分、表の顔では、遊女の見受けなんかできないのですから裏の顔で、なかなかの稼ぎを出していたのでしょう。
狂歌、戯作を作って遊んでいただけではなく、その本がしっかり売れていたという証拠ですね。
大田南畝、おもての顔、それは何?
大田南畝のおもての顔は、下級役人でした。
役人としては、すごく真面目な働きぶりでした。
70歳ごろまで、勤めていたというから、公務員のかがみのような人です。
一応、御家人の家に生まれましたが、貧しい一家でした。
しかし母が教育熱心だったので、国文学、漢学、漢詩の師について勉強に励みました。
大田南畝自身も、勉学が好きだったのでしょうね。大人になってからでも借金をしてまで、狂歌なと、娯楽につながる勉強もしました。
でも、大田南畝は、現代で知られている「顔」をみると、おもてと裏が逆転して、
「おもて」が作家で、「裏」の方が、役人?みたいです。
大田南畝、支配勘定に。これは出世?
支配勘定とは江戸時代の役職で、勘定奉行の下で実務を行う役人のことです。
これは、大田南畝のような下級役人にとっては、出世です。
1794年に、「学問吟味」(がくもんぎんみ)という試験を受けて、首位で合格したのですから、太田南畝は相当、頭のいい役人だったのでしょうね。
試験の結果によって、抜擢され勘定奉行の配下についた、という次第です。
そして、「大阪銅座」、「長崎奉行所」に配属されました。
役人としても、順調の出世を遂げていたのです。
「蜀山人」の名前は、大阪時代につけた名前で、この地でも文人として活躍を続けました。
大田南畝と蔦屋重三郎の出会いはどのように?
大田南畝と蔦重は、ほぼ同じ時代に生まれ活躍しています。
ですが、いつ二人の接点ができたかまでは、明らかではありません。
1781年、大田南畝の黄表紙評判記「菊寿草」が、蔦重の耕書堂(こうしょどう)から出版から、出会いがあったと、推測されます。
1783年ごろの大田南畝は、すでに狂歌師として有名になってきています。
一方の蔦重も、自分が出版した浮世絵、洒落本、黄表紙本が売れてきています。
さらに蔦重は、喜多川歌麿たち絵師のパトロン的存在でもありましたので、その様子を見た、大田南畝も自分の本を出版してもらいたくなったのでしょう。
また、蔦重の方も、狂歌の出版にも興味を持っていました。
大田南畝も蔦重もお互いに興味があるところからのスタートだったのでしょう。
蔦重は時々宴会を開いて、大田南畝をもてなすこともしていました。
どちらも時代の申し子、として出会うべくして出会った同士、ですね。
狂歌と狂詩の違い
狂歌は、和歌(5-7-5-7-7-の31文字)の形式をとりながらい、滑稽や皮肉をうたう。 狂詩は、形式は自由ではあるが、大体は俳句や連歌の形を取ることが多く、個人的な感情、考えを評伝する。 狂詩の方が、狂歌より奥が深いところがある。 |
大田南畝は、「べらぼう」でどんな活躍を?
「べらぼう」では、桐谷健太さんがキャスティングされています。
ドラマの中では、非常に酒が好きな人物として描かれています。
そして、大田南畝 自身がそうであったように、底抜けに明るい性格を画面上で、見せてくれます。
まさに、パリピ?
桐谷健太さんは、大田南畝の性格をどう掴んでいるかというと、
「ワタクシ、桐谷健太が演じますのは大田南畝という、表の顔は真面目で実直な御家人、裏の顔は狂歌や戯作など、笑いにあふれた文芸作品のべストセラー作家であり、パーティー好きな、べらぼうに明るく楽しい人物だったそうです。ただその明るさの奥には何があったのか、もしくは無垢(むく)な明るさだったのか。これからさらに探求したいです。彼の辞世の句にヒントを感じた今日この頃です」
大田南畝の設定を読むと、この人物は「べらぼう」内のもう一人の『べらぼうな』人物と言っていいでしょう。
大田南畝の別名、「寝惚先生」とは?
大田南畝はたくさんの名前を持っています。
その一つが「寝惚先生」(ねぼけせんせい)です。
「寝惚先生」の名前は、大田南畝の出世作となった狂詩、狂文集「寝惚先生文集」で使われた名前です。「寝惚」とは面白いですね。文集の楽しさを感じさせます。
大田南畝そのものが、ペンネームで、生まれ持った名前は、大田覃(おおたふかし)と言いました。
「大田」だけは、本人が生まれ持った名字ですが、「南畝」は歌人、または文人としての 号 です。雅号とも言います。
「寝惚先生」と、つけた理由は、大田南畝が手がけた、狂歌や狂詩の内容が、ユーモアを感じられるところが多く、作者自身が、寝惚けた人に思える内容だったから、という点、
大田南畝のおもての顔としての職業 役人つまり真面目、そして、狂歌・狂詩の作者としての裏の顔、その二面性を「寝惚」と言って表していました。
もちろん「寝惚」という名前は、大田南畝自身がつけたものです。
「寝惚先文庫」これが蔦重の興味をひいた大事な作品となりました。
他にも、
- 蜀山人(しょくさんじん)…役人として出世して
- 四方赤良(よものあから)…1769年あたりから、本格的に狂歌に取り組んだ時に名乗った号です。
があります。
大田南畝、どんな人?
大田南畝は、天明時代の狂詩・狂歌作家、戯作者、にして、役人である人物です。
狂歌を作る人なのだから、ユーモアのセンスを持ち合わせているのでしょう。
さらに、おもての顔は役人、裏の顔は、作家と二面性を使い分けているのだから、非常に楽しい人物である、と想像できます。
知られている、大田南畝の性格はパーティー好き(パリピ?)、べらぼうに明るく楽しい人物でした。
まさに「べらぼう」向けの登場人物です。
しかし、おもての顔と裏の顔があるということは、自分自身を演じ分けることができる、という意味にもなります。
明るく見える大田南畝、本当に明るい人物だったのか、明るさの奥には何か別のものがあったのか、このあたりがまだ解き明かされていません。
私としては、裏と表を使い分けるのだから、自分がどう振る舞えば明るく見えるか、その結果はどうなるかを計算できる、頭の良い人だと思います。
実際、大田南畝は学問積め、文学を習得した頭のいい人物なので、彼の人受けの良さは、計算された動きではないかと、考えています。
大田南畝を有名にした狂歌とはどんなもの?
大田南畝は、何をした人かといえば、狂歌師です。
上記した通りに、狂歌師というのは、大田南畝の裏の顔なのですが、現代ではこの裏の顔の方が、おおた難語のプロフィールとしてまず最初に上がってきます。
この時代、狂歌が流行り、「天明狂歌」などと呼ばれ、大田南畝はブームの火付け役になった人物です。
でも、好評を得たのは狂歌だけではありませんでした。
大田南畝は、1767年にはそれまで書き溜めていた狂詩が平賀源内から高評価を受けました。
そのころは大田南畝はまだ18歳だったのですが、世間から「文人」と評判になり、黄表紙本、洒落本など、大衆文学の世界に入っていきます。
狂歌は1769年あたりから、大田南畝は狂歌を本格的に作り始めました。もちろん、役人としての仕事もこなしながらですから、狂歌は副業でしょうか?
大田南畝の狂歌はどんどん人気が上がり、「狂歌会」が出来上がり(狂歌の歌の会)もつくられる有様でした。
他の狂歌師も、それぞれ、会を結成するようになり、狂歌市田ブームがおきました。
その人気に目をつけたのた、蔦重だったのです。
大田南畝、宿題という言葉の発明者
「宿題」という言葉をご存知でしょう。昔、学生時代に苦しめられれた、アレですよ。
「宿題」という言葉を初めて使ったのげ、大田南畝でした。
どういう時に使ったかというと、詩会のまえに、あらかじめ「お題」を出しておく、これを宿題と言った、と当時の手紙の中書かれていました。
会の前に、あらかじめ題を出しておいて、詩を作ってきてもらう。
このやり方は、宿題というより予習に近いものに見えますね。
現代で、お題をもらって会のために、歌(または詩)をあらかじめ作っておくのは、毎年新年に行われる、宮中の「うた会初め」に似ていますね。
大田南畝の死に際し、辞世の句とは?
辞世の句、これは死に際して、作る和歌ですが、大田南畝にはその辞世の句が、二つほど伝えられています。
また、死因についても2節あります。
大田南畝の辞世の句、どちら?
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
意味は、
「今まで他人事のように思っていた死だけれど、自分の人生が最後になった時に、ようやく自分のこととして、思えるようになった」
最後に『こいつはたまらん』とある箇所は、辞世の歌に滑稽さを出すために入れた言葉です。
いかにの、大田南畝らしさが現れた、ユーモアを加えた歌ですね。
死ぬ前に、こんなに人を楽しませることができる歌が作れるのですね。
もう一つ
「行き過ぎて七十五年食ひ潰し 限りしらぬ 天地の恩」
でもこちらの方は、旅の歌、とも言われています。人生そのものを旅と考えると、「行き過ぎて〜」の方も可能性があります。
でおユーモアが感じれれるのは、最初の「〜こいつはたまらん」の方、と私は思うのですが。
大田南畝の死因は?こちらも2節
大田南畝は1823年 74歳〜75歳でこの世をさりました。
死因は2つ伝えられています。
- 登城の最中、転倒しその怪我が原因で死亡。
- ヒラメの茶漬けを食べて、寝んだが、熟睡でそのまま亡くなった、という。おそらく脳卒中だろう、と言われています。
登城での、転倒説の方が一般的によく知られています。
転倒の話は『一話一言』という書物にあり、大田南畝自身の文章を、回想記として、南畝の弟子がどう時代の作家がまとめたもの、です。
しかし、脳卒中の話も、「甲子夜話」(かっしやわ)という江戸時代後期(1821年以降)に書かれた書物なので、こちらも無視できない書物でもあります。
「甲子夜話」の方にも、1821年、自宅の階段から降りるときに足を滑らせ大怪我をし、しばらく寝込む、ということが書かれています。
このあたりが、「転ぶ」ということにつながっています。
転んだ→直った→(実は直ったと思った?)→死亡 という流れになっていたのでしょう。
この両者の文章は、時間の捉え方が違うだけで、実はどちらも真実なのかもしれません。
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