「どうする家康」に新しい、側室が仲間入りします。
阿茶の局(あちゃのつぼね)と言います。
家康に一番愛された側室、と歴史では言われています。
その理由は単に、美人だからだけではありませんでした。
頭もいい女性だったのです。
その証拠が、交渉上手として現れています。
一体、どんな側室だったのでしょうか?
ここでは、阿茶の局という人物、掘り下げてみましょう。
阿茶の局、「どうする家康」で・・、 誰?
2023年大河ドラマ「どうする家康」に登場する新しい側室です。
それが「阿茶の局」という名前です。
キャスティングは、松本若菜です。
どこからきた女性?
どんな人物かと言いますと、武芸に優れて、頭のキレも良い女性です。
武芸が得意というと、まるで武将のようですが、時は戦国時代、女性も武力を身につけることが大切でした。
自らのみを守らなければならない場合は頻繁に起こるし、籠城でもすることになったら、なおさら腕は必要です。
1555年の生まれ、亡くなった年は1637年です。
父親は、飯田直政(いいだなおまさ)、武田の家臣でした。
本名は、須和(すわ)と言いました。
家康の他の側室と同じように、未亡人です。
夫は、「神尾忠重」(かみおただしげ)と言いました。
結婚後2年で、神尾忠重は亡くなります。
子供二人を抱えた、困難な時代でした。
奉公口を探していたのではないでしょうか?
いつ側室になったの?
25歳の時に、徳川家康の側室となりました。
どこで出会ったかは不明です。
1579年、徳川家康は38歳で、ちょうど、正室 築山殿(つきやまどの)と長男 信康(のぶやす)を失った頃でした。
傷心の家康は、心惹かれたのでしょうか?
出会いの時期を考えると、「どうする家康」では、ちょっと登場が遅いのではないでしょうか?
記録では、天正の地震(1586年)の時、阿茶の局と家康がお互いを励まし合った、ということですが、「どうする家康」では、お愛の方でしたね。
この辺り脚色されていていますね。
実はもっと前から、城に入って奉公していたけれども、表舞台に出てこなかったとか?
阿茶の局「どうする家康」、予想は?
「どうする家康」では、登場が遅いです。
視聴者の予想では、武田から来た女性ということで、かつて間者として入ってきた、千代が阿茶の局ではないか、とありましたが、それは外れてしまいました。
では、今後、阿茶の局はどうなるのか・・・・
「どうする家康」では女性たちの争い事が少ないです。
これまでの、時代物のドラマであるような、女性同士、寵愛を争う、嫉妬でドロドロがあまり見られません。
これまでは、「築山殿」(つきやまどの)の理想に賛同する女性たち(女性ばかりではありませんでしたが)の姿を見ました。
側室に子ができたと言って、相手を責める真似をしていません。
秀吉の妹「朝日姫」が正室になった時でも、家康の母をはじめとし、お愛の方も朝日姫の良き話し相手になっていました。
女性同士が、協調していく有様が見られるのが「どうする家康」なのです。
阿茶の局も、そんな「家康ファミリー」の一員となり、お愛の方の亡き後(早死にします)、家康の助けとなり、その子供たちを大切にします。
そして、正室(朝日姫)や他の側室にも力になり、まとめていく女性の役割を果たしていくことが予想されます。
「阿茶の局」と「お愛の方」
歴史上では、「阿茶の局」は家康に最も愛された側室、と言われてます。
あれ?では お愛の方は?となりますね。
時間系列で見ると、
1578年 お愛の方、側室に
1579年 阿茶の局 側室に。 同年 築山殿(正室)死亡
1584年 小牧長久手の戦い
1586年 天正地震 同年 朝日姫輿入れ
1589年 お愛の方 死去
となります。
阿茶の局と、お愛の方 家康の元に上がったのは一年違いでほとんど差はありません。
小牧・長久手の戦いに同行しています。
それにもかかわらず、ドラマでの登場順位は遅いです。
一方、いい伝えでは、お愛の方の家康からの愛され順は、ナンバーツーにも入っていません。
「どうする家康の」演出上のことでしょうか。
多分、阿茶の局 一番という説は崩さないと思いますが、その前に家康を支えた存在として、お愛の方を、演出家が登場させたかったのだと思います。
お愛の方が亡くなった後の、もう1人の家康を支える人物として、阿茶の局を登場させる、そういう心づもりなのでしょう。
家康の側室同士の争いを伝える文章は見当たりません。
正室が、側室に対して怒った、という話はありますが・・・・
将来の大奥のような、対立は見られなかった、というところです。
今回の「どうする家康」の趣旨の一つに、女同士の対立は少ないようです。
どちらかというと、女同士協力の方が目立ちます。
阿茶の局、「塩」について答える
阿茶の局と家康の会話で、塩に関したお話があります。
ある時、家康は、阿茶の局に「この世で一番美味しいのものは何か?」と尋ねたところ、阿茶の局は「それは塩でございます」と答えました。
続いて、「この世で一番まずいものは何か?」と聞いたところ、「それも塩でございます」と答えました。
家康がその理由を聞いたところ、塩を振りかけると、食材は美味しくなるけれども、かけすぎるとその味は台無しになります、という答えが帰ってきました。
塩の話ではありますが、「ちょうど良さ」を守る大切さを表した話でもあります。
何事にもちょうどいい具合、を保たなければならない。つまり「塩梅」そしてそれこそが「按配」なのです。
阿茶の局が、何気なく言ったことに聞こえますが、実は物事の本質を述べたのかもしれません。
それなら阿茶の局はもはや天才ではないでしょうか。
阿茶の局は美人?
美人の噂が高い女性です。
美人であるだけでなく、武道に優れていました。
特に乗馬が上手だったようです。
また弓の腕も確かでした。
美人で、武道に優れた女性が、元武田の家臣にいる・・・・そう伝え聞いた家康は、是非とも自分のそばにおきたくなったのでしょう。
戦国時代、女性も武芸のたしなみがあった方が、都合がいいです。
戦国時代なら、おっとりした女性より、勇ましい女性の方がモテたかもしれませんよ。
実際、大坂夏の陣では、真田幸村(さなだゆきむら)が家康の陣に迫ってきた時、阿茶の局はそこにいて、家康を守ろうとしていたほどです。
確かに頼もしい女性です。
阿茶の局の性格
阿茶の方の性格についての記述は見当たりませんが、その活躍ぶりについてはいくつかあります。
そこから性格を、推測すると、趣味がよく、頭がよく、臨機応変に対処できる人、という人物像が考浮かび上がってきます。
後世の評判では、徳川家のバリキャリ(バリバリのキャリアウーマン)と言われています。
もちろん、その裏には家康に対する愛情があるからでした。
ですから愛情深い人、と付け加えることができます。
その性格を仕事ぶりから、推測してみましょう。
阿茶の局はスタイリスト?
阿茶の局に与えられた役目の一つに、家康の衣装を整えることにありました。
整えると言っても、毎日何を着るか?を思案することではなく、儀式または、会見などにどんな衣装を着たら、効果的か、と考え、衣装を揃えることでした。
いわゆる、スタイリスト、またはコーディネーターの役割にあたります。
現代でも、アメリカ大統領には、誰々と会見する時にはこのスーツにネクタイ、選挙で映えるのはこれ、などをアドバイスするコーディネーターやコンサルタントがいます。
阿茶の局は、家康のコーディネーター、またはファッションコンサルタントでした。
阿茶の局はネゴシエーター?
阿茶の局は、交渉に参加していました。
その多くは、女性を交える話し合いでしたが、なかなかの交渉ぶりを見せていました。
ということは機転が効く、頭の良い女性ですね。
交渉を請け負うところから、冷静な一面が伺われます。
方広寺 鐘の銘文事件
関ヶ原の戦いの後に起きた事件です。
1614年、京都の方広寺で大仏開眼供養が行われ、その準備を豊臣秀頼側で行いました。
その際、鐘の銘文に「国家安康」、「君臣豊楽」と刻んだことで家康が「『家』と『康』の文字を分けるとはとんでもない、それは徳川家への呪いの意味が込められている」と抗議した事件でした。
豊臣はそんなつもりは全くない、と弁明しました。
弁明に、駿府(すんぷ)城までやってきたのは、淀殿の乳母で侍女を務める大蔵卿(おおくらきょう)でした。
対する徳川方からは、阿茶の局がやってきたのです。
そして、この事件は、ちょっとした誤解だったに違いない、という結末になり、大蔵卿は、ほっとして帰って行ったのでした。
ですが、同時に、豊臣の家臣 片桐且元(かたぎりかつもと)の弁明を聞くのも阿茶の局の役割でした。
こちらの方は、穏便どころが、淀殿の人質を求める話が出て、そのために交渉は決裂、という事態に陥ってしまいました。
豊臣家の内紛を狙った、というところです。
結果、片桐且元は、家康からの条件が豊臣家に不利になることを知りながら持ってきた、裏切り者という烙印を押されてしまいました。
この事件は、交渉上手な阿茶の局を印象付けた出来事でした、
安心させて、その裏を描く・・・
阿茶の局、なかなか手強い女性です。
大坂の陣にて
大坂冬の陣の後、阿茶の局は、家康の家臣 本多忠純(ほんだただずみ)と共に、和議の交渉を行いました。
和議は大坂で行われました。
要するに阿茶の局は、敵陣に乗り込んだ、というわけです。
結構、怖かったのではないでしょうか?
対する大坂がたの、交渉人は、常高院(じょうこういん、淀殿の妹)とその息子の京極忠高(きょうごくただたか)です。こちらも女性が来ました。
和議の結果は、大坂城の二の丸、三の丸を取り壊す、大坂城の外堀をうめる、となりました。
確かに、阿茶の局はいい仕事をしたわけです。
堀を埋めることが、後の大坂城陥落につながるわけですから。
阿茶の局の子供は?
阿茶の局に生まれた子供は最初の結婚、神尾忠重との間にできた子供、神尾守世(かみおもりよ)と神尾守重(かみおもりしげ)の二人の息子だけでした。
徳川家康との間には、子供ができませんでした。
一度妊娠したのですが、それが小牧・長久手の戦いの時で、流産してしまいました。
阿茶の局は、小牧長久手の戦いに同行していましたので、戦の音、勝敗の行方などがストレスになったのかもしれません。
徳川によらず、側室の大事な役目は、子供を産むことです。
ところが、阿茶の局のように子供が、できなくても愛され、大切に扱われたのは、阿茶の方に才能があって、家康の助けになっていたからからです。
女性にもその才能を認める・・・家康は非常に適材適所に人を配置できる才能があったと言えましょう。
阿茶の局と秀忠
阿茶の局は2代目将軍徳川秀忠(ひでただ)の育ての母となります。。
生みの母は、お愛の方(西郷の局)です。
しかしお愛の方は、秀忠が10歳の時に亡くなります。
秀忠の小姓として、阿茶の局の長男 神尾守世がついていました。
その縁で、阿茶の局が、秀忠の養育にあたりました。
秀忠は時に、父 家康との折り合いが悪くなる時がありました。
そういう場合、阿茶の局が取りなしを買って出てくれました。
阿茶の局は秀忠を大事に養育していたのです。
阿茶の局のこうした行動から、お愛の方と、阿茶の局の間には敵対心というものは生まれず、むしろ信頼心がお互いにあった、と考えられます。
そして秀忠を育て上げた、阿茶の局は愛情深い人、です。
阿茶の局のお墓は?
阿茶の局の最後
阿茶の局は家康の死後まで、生き続け、1637年に没します。(家康 1616年没)
家康の死後は、江戸の竹橋に屋敷を与えられ、雲光院(うんこういん)という尼の名前をあたえられましたが、正式の剃髪は、秀忠の死後でした。
当時は、身分の高い人の奥方、側室は夫が亡くなると、髪を切って尼となるのたしきたりでした。
それが家康ではなく、秀忠の死後に、正式に剃髪というのは異例のことです。
それだけ秀忠の養育を家康から任されていたことになります。
1620年には、秀忠の五女 徳川和子(とくがわよりこ)が、後水尾天皇のもとに入内(じゅだい)しますが、和子の母がわりとして世話をしました。
入内とは、天皇のもとに嫁に行く、ということです。
秀忠の死(1632年)を見届けると、1637年、阿茶の局は83歳で亡くなります。
83歳というのは、大往生でしょう。
多分眠るような死だったと、思われます。
阿茶の局の墓
東京都江東区、清澄庭園の東の方の、雲光院に葬られました。
雲光院は、阿茶の局自らが開いた、浄土宗のお寺でした。
雲光院は元は、東京都中央区馬喰町にありましたが、1682年の大火で焼け落ちたため、現代の位置に移されました。
東京メトロ 清澄白河駅下車、徒歩8分あたりにありますので、訪れてみるにはいいところではないでしょうか。
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