葛飾北斎は、「べらぼう」時代の絵師ですが、2025年8月現在、まだ登場はしていません。
葛飾北斎は忍者だった、なんて噂もあるほど変わった人物で、「画狂老人」なんて、不思議な名前をつけるくらいです。
90歳で生涯を閉じましたが、自分の実力は、まだまだ、物足りないと思っていたほどです。
フランスのゴッホにまで影響を与えたと言われる、葛飾北斎。
ここでは、葛飾北斎の、変人面に注目しながら、その魅力を解き明かしていきます。
葛飾北斎、忍者の真相?
忍者、つまり江戸時代の話では「隠密」(おんみつ)というのですが、葛飾北斎(かつしかほくさい)が隠密だったのでは、という疑惑があります。
もちろん、そんなバカなことあるはずない、と見られていますが。
現代では、高橋克彦の「北斎殺人事件 新装版」なんという本も出版されていて、忍者・隠密説を扱った小説もあります。
葛飾北斎が忍者である根拠
葛飾北斎が忍者(隠密)出会ったかもしれない、と言われる理由には、北斎の自由奔放な性格にあります。
忍者と思われる原因としては、いくつかの事実から推測されています。もちろん、そんなことはない、という意見もあります。
では実際は、どうだったのでしょう?
葛飾北斎、忍者の根拠となった説と考察
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というこれら5つの状況から、忍者では?という説が浮かび上がっています。
1については、現代の007などに出てくるスパイは(映画ですが)、パスポート・身分証明書をいくつも持っている、ことからきています。
名前をいくつも持つのなら、忍者に違いない、という理論。でも、現実は、名前を次々売っていたからなのでした。
2は、絵師として見ると、住所が次々変わるのは、絵の注文を受けるのに不便であるのに、なぜ、そんなことをしたのか?まるで身分を隠したいように見えるから、忍者であると。
実は、葛飾北斎は、引っ越し魔だったのです。その理由については、こちらの記事で書いていますので、ご覧ください。
3は、ダルマ絵がもしかしたら、忍者たちが使う目眩しの術を、絵に描いたものでは?
4は馬術、剣術などの武芸を描いたのもが、非常に精密で、葛飾北斎の普通の町人では、なかなか理解できないところまで描きこんでいるから、武家出身の特殊な人?
5の岩絵具は高価なために、絵師でないもっとお金になる職業についていないと、手に入れにくいから、忍者をやって、旅すがら高価な絵の具を手に入れている。
などが理由です。
葛飾北斎が、誤解される理由?
葛飾北斎は、絵師として、作品の完成を追求するあまり、全ての常識ごとに無頓着になっていたことで、変わっていると見られ、
通常の町人とはどこか違って見えたので、忍者と誤解されたのだと思います。
江戸時代の芸術家で、他にも忍者の疑いをかけられた人がいます、松尾芭蕉(まつおばしょう)です。
松尾芭蕉は俳句を書くために、諸国を旅したから、そのような疑いをかけられてしまいました。
江戸に住む人々は、江戸の町から出るのにある程度の制限が設けられていたから、旅の多い人は、忍者か間者だから、と思っていたのではないでしょうか?
ただ、私としては、葛飾北斎という絵師が、単に、画家魂に燃えすぎて、書く時も直接目にする、というマニアック体質な人だった、と思うのですが。
絵のためなら、人からどう思われても構わない、と感じる人だったのでしょう。
葛飾北斎が忍者ではない、という理由?
以上の理由からだけでは、葛飾北斎 忍者説疑いがあるというだけでは証明できません。
仮に、忍者、公儀隠密だったとしても、そんなことが記録に残るわけないではありませんか。
葛飾北斎は、江戸時代でも名の売れた絵師だったので、顔だって知られていたと思えます。
顔はともかく、道中でスケッチしていたら、たちまち注目を受けるじゃありませんか。
そうすると、有名人にはとても忍者・隠密はつとまりません。
前記で述べた、高価な岩絵具についても、葛飾北斎には、有名であれば後援者や、贔屓客がいたでしょうから、そこから買ってもらう、という手段だって、あったことでしょう。
葛飾北斎の家はゴミ屋敷?
忍者説の理由の一つは、引っ越し好きなところにありました。
が、実は、葛飾北斎の部屋が汚く、ゴミ屋敷だったから、という話があります。
葛飾北斎の忍者説のもう一つの理由、「名前を変える」にあります。
名前を変える、というのは名前を人に売るから。売るということはお金に困っていたから。
ではなぜ、お金に困ってたかというと、引っ越しが多かったからでした。
引っ越しが多い、というのは自分の家が、ゴミ屋敷となって生活できなくなるからでした。
ゴミ屋敷ぶりは、北斎の弟子 露木為一(つゆきためいち)が描いた「北斎仮宅之図」に挿絵とともに書かれています。
「すみだ北斎美術館」では、この絵に基づいた家の風景が再現されています。
葛飾北斎の三女も絵師になり、葛飾応為(かつしかおうい)と名乗りますが、応為は絵の才能はあるものの、彼女もまた、父と同様、片付けられない人、だった、とのことです。
江戸の昔から、「片づけられない症候群」ってあったのですね。
なお、ゴミ屋敷のことも、先ほどと同じ、こちらのページにあります
葛飾北斎は変人か?
葛飾北斎の、生活ぶり、その考え方を見ていると、「変人」像が浮かび上がってきます。
変人と見られる理由。それはまず、自分の画号に「画狂老人」とつけたことにあると思います。
「狂」なんて文字、自分のことにはあんまり使わないでしょう。
引っ越しが多い、名前を簡単に売って名前を変える、などという行動が、葛飾北斎を変人に思わせているのです。
金銭にこだわらない人、と言われていますが、それは忍者業をやることで、給料がたくさん入るから、と見ている人がいます、
視界し、芸術家には金にこだわらないタイプは多いですので、金銭面のことはあんまり関係ないと思います。
「変人」と言っても、その作品はどれも素晴らしく人気もありました。
作品が何より人気ですが、その変人ぶりもなかなかに面白く、人々はそのミスマッチを楽しんでいたのかもしれません。
1999年、アメリカの雑誌「この1000年間で人類史に最も貢献した100人」という記事の中で選ばれた、日本人は「葛飾北斎」ただ1人でした。
それだけ、世界受けする人物だった、といえます。
葛飾北斎が、画狂老人卍を名乗る理由?
画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)、葛飾北斎の、画号です。
画号とは、絵師のペンネーム。芸名みたいなもので、絵の片隅に書かれています。
画狂老人卍の意味?
意味としては、「画に狂う老人」、という意味です。
葛飾北斎が70歳をすぎてからつけた名前です。
「狂」だの「老人」だの、ちょっとふざけたネーミングです。
卍(まんじ)というのは、仏教やヒンドゥー教で使われる記号で、幸運を意味します。(江戸時代では、まだヒンドゥー教は知られていません)
卍は、葛飾北斎が川柳を書いていたときに、使っていた号でした。川柳の仲間内では、本名を明かしていなかったため、「まんじさん」と呼ばれていました。
卍を使ったのは、葛飾北斎が、仏教の日蓮宗を信じていたことと、関係があるのでは?という見方があります。
「画狂老人」の画号を使ったのは、葛飾北斎自身が絵に取り憑かれしまったことを表している理由だからです。
葛飾北斎、若い時にも「画狂老人」と?
ただし、この「画狂老人」というペンネーム、歳をとってからふざけ半分につけた名前かと思ったら、もっと若い時(40代後半)でも使っていました。
1801年40代の作品、「見立三番叟」(みたてさんばそう)という絵に、「画狂人」と画号を入れました。
1805年にも、「画狂老人」の画号を絵に入れています。
40代でなぜ、老人を思わせるペンネームを使ったのかは、残念ながら謎は解明されていません。
葛飾北斎自身、が自分の未来の姿を予想していたのでしょうか?
葛飾北斎の「あと 10年…」の意味は?
「あと10年、生きることが許されたなら、」「あと、5年生き流ことが許されたなら、本物の絵師になることができただろうに」
葛飾北斎が、1849年 90歳で亡くなった時の最後の言葉だった、と飯島虚心(いいじまきょしん)「葛飾北斎伝」に書いています。
「葛飾北斎伝」は、1893年の刊行で、明治になってからの本で、果たして、飯島は真実を知っているのでしょうか?
飯島虚心は1841年、天保年代の生まれで、「葛飾北斎伝」を書くために、葛飾北斎の生前に顔見知りであった人、弟子たちに実際に取材して書いた、と言うので、信頼性はあります。
どこまでも芸術家魂を忘れない、葛飾北斎らしい最後の言葉だと思います。
これが90歳で言った言葉というのがすごい!ゴールはまだ北斎の目には見えていなかったのでしょうね。
葛飾北斎、ゴッホをひきつける?
葛飾北斎の魅力は、日本だけではなく、ヨーロッパでも人気があります。
ゴッホも葛飾北斎が好きだった画家の1人です。
ゴッホは、パリでの自分の住居のすぐ近くにあった、古美術商の店の屋根裏にしまわれていた、浮世絵を見て、すっかり魅せられてしまいました。
ゴッホは、葛飾北斎だけでなく、浮世絵全般に興味を持っていました。
ゴッホは、印象派を抜け出た、ポスト印象派と言われる画家、新しい絵の画風を模索していたところに出会ったのが浮世絵でした。
そこから、ヨーロッパではジャポニズムという芸術様式が生まれ、ゴッホをはじめとした画家たちは、日本風な絵の構成、浮世絵を絵の中に取り入れるようになりました。
ゴッホはヨーロッパの画家たちの中でも、型破りな性格が目立ちます。そんなところが、葛飾北斎と通じるところがあったのではないでしょうか。
まとめ
葛飾北斎は、天才と言って良いほどの絵師でしたが、変人の噂も絶えませんでした。
そのため、忍者、隠密ではなどの推測がされていますが、その謎はいまだにわからないままです。
忍者かもと言われた理由には、変人という性質もあるからなのですが、人と変わったことをした、それこそがまさに、優れた作品を生み出すための原動力でした。
そうして生まれた、日本の芸術家、葛飾北斎が明治以降、ゴッホなど、印象派から脱皮しようとした人たちの目にとまり、ヨーロッパで新しい芸術を生み出しました。
今では日本が誇る世界の芸術家の1人に仲間入りしています。
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