常高院は、出家した女性の名前ですが、出家前は、浅井三姉妹の真ん中、初のことです。
3人姉妹の真ん中というとどうしても上と下の間に挟まれて埋もれがちですが、このかたの働きぶりは、もしかしたら他の二人を上回るかもせれません。
その働きぶりはどのようなものだったのでしょうか?
ここでは常高院の活躍を中心に見ていこうと思います。
そして、姉と妹の家が戦っていた中で、常高院はどのような想いであったか探ってみあしょう。
美人の母と、姉は美人で名高いですが、常高院も美人だったのでしょうか?
常高院、大阪の陣で活躍
和平に望みをかけて・・・
常高院は、徳川家と豊臣家をなんとか和平に持ち込もうとした人物です。
常高院の夫、京極高次(きょうごくたかつぐ)が亡くなったのは1609年。
関ヶ原の戦いの6年後ですが、徳川家と豊臣家の対立は、だんだんと激しくなってきました。
豊臣家には姉の淀殿(茶々)、徳川家に嫁に行ったのが妹の 江(ごう)というわけで、常高院はひどく心を痛めていました。
どちらかが勝てば必ず、もう片方が負ける、ということは姉妹のどちらかを失うことを意味します。
そこで、常高院は徳川からの使者、阿茶の局(あちゃのつぼね)と協力して、1614年 大坂冬の陣の後、和議の交渉のため働きます。
阿茶の局は徳川家康の側室で、和議を望んでいました。
冬の陣 後の和議で決まったのは、大坂城の外堀を埋める、真田丸(真田家が築いた、大坂城の出城、大坂冬の陣でその威力を発揮した)の破壊でした。
願いはかなわず・・・
しかし、それだけではおさまらず、大坂夏の陣が翌年1615年に再発します。
ここでもまた常高院は和睦を強く望んで、姉 淀殿の元に向かい説得を試みますが、淀殿は、常高院の提案を受け入れず、ついには、豊臣秀頼と共に自害して戦争は終わりを告げました。
常高院は、姉を説得できなかったことを悔やみ続けました。
常高院は、姉と妹両方に生き延びて欲しかったのです。
どちらかにだけ肩入れしなかった、常高院には、これからは徳川の世になる、ということが見えていたようです。
淀殿のほうは、あくまでも豊臣が、というより秀頼が世を収める、それだけが願いでした。
姉妹の想いはバラバラになってしまった瞬間でした。
姉妹がバラバラになるのを止められななかった常高院にとっては、これが何より悲しいことだったに違いありません。
おそらく、親の死と同様の悲しみだったのではないでしょうか?
常高院(初)の人柄は?
茶々、初、江の浅井三姉妹は、3人とも気が強い性格でした。
その中でも、真ん中の、初(のちの常高院)だけが比較的穏やかな・・・といえます。
特に、養子をとり、自ら養育に力を注いだ、ということで愛情深い面が見られます。
愛情深いを、裏返せば、嫉妬深さにも繋がります。
特に常高院は、三姉妹の中で一番嫉妬深かったのでは、と思わせる記述が出てきました。
京極(きょうごく)家に嫁いだのですが、夫に側室ができ、その間に子供ができたと知ると、その子供の殺害しようとしました。
この嫉妬深さは、妹の江(ごう)にも見られ、嫉妬深い姉妹なのか・・・と思うのですが。
結局はその子供も育てるのですから、面倒見の良い女性でありました。
面倒見の良さが、調停上手へと繋がりました。
豊臣家と徳川家の仲を取り持とうとしていました。
常高院(初)美人?
母が、美人で名高い、お市の方でしたので、三姉妹いずれも美人であると見られています。
ですが、母の美貌を一番受け継いている、と言われているのが、常高院だったと言います。
それも細身の美人のようでした。
姉、茶々は肖像画を見ると、ふっくらタイプの美人でした。
当時の美人はふっくら型と細身型とどっちが美人といわれたのでしょう?
戦国の美人のタイプは二つありました。
一つはふっくらタイプ、もう一つはうりざねタイプ・・・うりざねとは細面(ほそおもて)ともいされ、顔の形ですが、全身が細身じゃないと、顔もほっそりとはなりません。
よって、茶々も初もどちらも美人タイプです。
そして黒髪が豊か、などどの時代にも通用する条件もありました。
しかし残念ながら、常高院の若い頃の肖像画がありませんので(常高院となった晩年の肖像青しかない)、その美貌を知ることができません。
常高院の夫
常高院の初恋相手?
常高院の夫は、京極高次(きょうごくたかつぐ)は、常高院にとって従兄です。
父の浅井長政(あざいながまさ)の姉の息子でですから、京極高次も常高院と同じく、小谷城で生まれました。
つまり二人は幼馴染の関係でしたので、幼馴染に恋をするというのはよくある話。
そんな、小谷城も織田に攻められ落城しました。
さらに母の再婚相手、柴田勝家(しばたかついえ)のもとで暮らすことになった三姉妹でしたが、その城 北ノ庄も豊臣秀吉の手で滅ぼされでしまいました。
ついに天涯孤独となって三姉妹でしたが、秀吉は、常高院とその妹を嫁がせました。
京極高次は秀吉に気に入られていました、故に蛍大名なんてあだ名が付いていました
その時に、常高院の相手と決められたのが、京極高次でした。
初恋が叶った、という意味では秀吉は粋な計らいをした、というわけです。
京極高次という人物
夫として
京極高次は側室を持ったことで、常高院を怒らせましたが、これは高次が女に甘い、とかだらしないという意味ではありません。
戦国時代は、武将は普通に側室を持っていました。
家の存続のためでしょうか。
それに、常高院との間には、仲は良いのに子供はできませんでした。
それなのに離縁せずにずっと寄り添っていてくれた、ということは優しい人物であったのですね。
関ヶ原の戦いで
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが1600年に起こりました。
秀頼が世を収めるいは幼すぎて、その秀頼をどう支えるべきの意見の相違から起きた戦争です。
毛利輝元・石田三成を中心とする西軍、徳川家康がまとめる東軍との争いになりました。
その時、京極高次は、西軍に従うそぶりを見せ、東軍に味方しました。
京極高次の居城は、大津城でしたが、大津城に西軍の武将 立花宗茂(たちばなむねしげ)をギリギリまで引きつけた末、敗北しました。
ですが、西軍の武将を長時間引き付けておいたおかげで、立花宗茂は関ヶ原に行けなかったのです。
その働きは家康に認められました。
京極氏は日和見に見られるかもしれませんが、一族を守ためには必死でした。
戦国大名達のほとんどは、忠義よりも自分の領地・領民を守ることが何より大事だったのです。
それは仕方のないことではありますが、常高院にしてみれば、どちらの側にも自分の姉妹が嫁いでいるので、いたたまれない気持ちだったでしょう。
自分自身どちらに味方したらいいのか、判断がつきかねることだと思います。
関ヶ原の戦い後、数年度京極高次は亡くなります。
その時から、初は髪を下ろして、いわゆる尼姿になって「常高院」と名乗りました。
常高院の寺とは
常高院の寺、とは常高院の墓所のあるところです。
その寺は「常高寺」と言い、福井県小浜市にあります。
亡くなったのは江戸ですが、なぜ墓が福井県に?と思うのですが、夫の京極高次が、関ヶ原の戦い以降、小浜藩主になっていたからです。
そして、常高寺は1630年に、常高院が作らせたお寺だったのです。
常高院は、1633年に江戸で亡くなったのですが、そこで保存処理(塩漬け)されて小浜まで運び、そこで火葬して、常高寺に葬られました。
常高院が亡くなったのは64歳で、他の姉妹に比べると一番の長生きでした。
常高院の嫁ぎ先、京極家は京極高次の息子、忠高(常高院の子ではない)が次ましたが、その次に続く後継はできませんでした。
江戸時代なら、後継者がいないとなると、お家取り潰しになるのですが、そうはなりませんでした。
それは、常高院の働きぶりが、後世にわたってまで評価されていたからです。
明治時代に入り、政府の政策で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、常高寺は荒れ果てて行きましたが、近年に再建されました。
どうする家康に、常高院登場
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」に、残る回数が少ないながらも、常高院が登場します。
と言っても、「初」といわれていた、京極家の妻だった頃ではなく、夫の死後「常高院」とんなっての出演です。
キャスティングは鈴木杏さんです。
これには エックス(旧Twitter)では面白い話が書き込まれています。
鈴木杏は、つい先日まで、NHKドラマ「大奥2」に平賀源内役で出演していました。
そして、「どうする家康」で、ウィリアム・アダムス役を演じているのが 村雨辰剛・・・これまた「大奥2」で青沼を演じていました。
この二人がタイムスリップして家康の時代に立ち戻り、家光以降の時代に流行する 赤面疱瘡を警告しにきた・・・なんて架空の話題が・・・
放映時期が重なる番組での、同じ役者の登用は、どうなのか?
それともNHKが狙ったのか?
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