伏見城の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦と言われています。
なぜ、前哨戦と言われているのでしょう?
ここでは伏見城の戦いを、その理由から、経過、結果に渡って書いたページです。
合わせて、伏見城の戦いで、大活躍をしたけれども討死した、鳥井元忠のこと、その主人だった徳川家康の、作戦とその想いについて語ってみました。
伏見城の戦いとは?
伏見城の戦い1600年7月、徳川家康が西の要所としていた伏見城を、石田三成たち、西側につく武将たちが、攻め落とした戦いです。
西軍は、徳川家康とは政治的に反対の立場をとっていました。
伏見城の戦は、天下分け目の戦いと言われる、「関ヶ原の戦い」の前哨戦と言われています。
徳川家康を中心とする東側と、石田三成、宇喜田秀家(うきたひでいえ)たち西軍が伏見城の権利をとる戦い、というわけです。
前哨戦というより、むしろ、西軍はここで、一気に決めて政権を取り戻したい戦いだったはずです。
しかし城の留守役を任された古参の、三河武士がど根性を出して頑張り抜いたために、西側にとっては厄介なことになりました。
三河武士が、守り抜いた、というのではなく、多勢に無勢状態で全滅してしまったからです。
戦には勝って、勝負に負けた、という有様です。
家康の家臣を、討ち、家康の恨みを買い、西軍は体力を削がれたという状態です。
この時から、西軍は、関ヶ原の戦いに負けることを運命付けられていたのかもしれません。
伏見城の戦いは、いつ起きたのか?
1600年 7月18日から8月1日まで行われた戦です。
東軍のトップ、徳川家康が、上杉討伐に出かけた留守を狙っての事件です。
会津の上杉景勝は、家康が京都に来るように言っても無視し続けていましたので、叛逆心はあり、と家康が見たためからでした。
石田三成をはじめとする、西軍が伏見城を明け渡すよう、書状を出しました。
明け渡しを、伏見城内部の徳川家臣が拒絶したところから西軍の攻撃が、始まります。
夏の暑い盛りの戦争です。
鎧兜を着込んでの戦争は、西軍も東軍もどちらもきつかったと思います。
伏見城の戦いなぜ起きた?
関ヶ原の合戦を語るときに、伏見城の攻防戦を抜きにしては語れません。
今では見学もできない伏見城ですが、伏見城は3回作られました。
今回、石田三成が攻め込んだ伏見城は、第2期の伏見城です。
伏見城の役割
この伏見城は、1596年、指月伏見城(しげつふしみじょう)が慶長伏見地震で倒壊した後に、小幡山(こはたやま)に作られた城です。
伏見城は、水路により大坂と京都を結ぶ要所となり、水路を使った物流で賑わっていました。
豊臣秀吉が晩年伏見城ですごし、秀頼も伏見城にいました。
伏見城に居れば、物流を掴むことができる、そんな役割を担った城です。
秀吉の晩年の隠居所のつもりが、伏見城が政治の中心になっていたほどです。
秀吉が、没したのも伏見城でした。
家康が入り、政治の中心に?
秀吉の遺言で、秀頼は大坂城に戻り、家康が伏見城に入り、政務を取る、ということになりました。
言ってみれば実質的な政治の中心地と言っていいでしょう。
大坂城の秀頼はまだ幼少で、実際に政治を執り行うのは無理ですが、名目上の政治執行者、ではあります。
ですから、石田三成方西軍が伏見城を乗っ取る、というのは名実ともに政治を自分たちの手に取り戻す、という意味がありました。
あとは、攻めるタイミングです。
ちょうどよく家康が留守にしてくれました。
後に残るのは、老兵?
容易い、と思ったのでしょうね。
伏見城の戦いは、石田三成を中心とする西側に政権を取り戻せるか、家康がこのまま政権を握ったままにするか・・・
また、家臣達をどちらが多く味方につけるか・・・その決定権争いの意味がありました。
伏見城の戦いを前に、家康の行動は?
伏見城の戦いを仕掛ける徳川家康?
1598年、豊臣秀吉が亡くなりました。
その時以来、着々と実力をつけてきたのが徳川家康です。
ですが、家康自らが天下を取るにはまだもう一つ説得力に欠ける。
秀吉時代の武将たちの信頼を完全に勝ち得るかまだわからない状態でした。
石田三成をはじめ西軍の武将たちをなんとか手懐けたい、と思うものの・・・
西軍を自分に従わせるために、いきなり戦いを起こしたら、下手すると反逆者。
かつて、織田信長を殺害した明智光秀と同じ運命を辿ることになってしまいそうです。
家康、京都を離れる
家康に従いそうもない、勢力は大坂の石田三成たちだけではありません。
会津にいた、上杉家もまた不穏な動きをしています。
そこで、家康は上杉討伐に遠征するのですが、その時に京都を空けるのが問題です。
さあ、相手はどう出るか?
秀吉が生きていた頃は、石田三成たちとは協力し合う、秀吉の死後、だんだんと溝ができてきました。
秀吉の遺児、秀頼が名目上、天下人の立場にあるのですが、まだまだ幼い。
そこで、補佐する家臣が、徳川家康であり、石田三成たちだったのですが、彼らは秀頼のサポートの仕方が違ったのです。
石田三成はあくまでも、秀頼が、秀吉の後継者になるように育て上げ、政府としてのシステムも盤石なものにしておきたいと望んでしました。
家康の方は、秀頼を支える、と言っても、自分が操るような形を考えていました。
2人とも名目上は「秀頼を支える」だったから、どちらかがどちらかを攻め滅ぼしてしまったら、攻めた方が悪役になってしまいます。
家康が恐れるのは、ここです。
家康の罠か?
家康が京都を離れるのを躊躇したのは、石田三成たちと一触即発の危険性があったからです。
どちらも、動き出していなかったのは、先に手を出したら負け、という意識と、秀頼に楯突く逆臣のレッテルをはられたくなかったからです。
そしてジリジリとお互いの出方を待っていました。
家康は京都を離れるのは、心配であると同時に、良い機会であるかも、と思ったはずです。
こうした窮地を生かす能力が家康の一つの強みです。
だからこそ、「我慢の家康」なんてことも言われるのでしょう。
自分が伏見を開ける、手薄な伏見城・・・これを餌にして一気に石田方、西軍を呼び込もうという作戦です。
でももう一つ懸念があります、伏見城に残るもの達が全滅するかもしれない。
全滅させられることを狙った留守ではありましたが、家臣の誰を使って良いものか、それが家康の悩みでした。
誰を使うか・・・・
伏見城の戦いを任された、鳥井元忠とは
徳川家康は、伏見城に敵が攻めてくる、と見込んでしました。
そこで、選んだのが、鳥井元忠(とりいもとただ)でした。
だからこそ、ドラマ、映画、説話にあるように、上杉攻めの会津に旅立つ前に、家臣鳥井元忠と「涙の別れ」をしたのです。
鳥井元忠がなぜ家康に選ばれたのか?
「陥ちる」ということを前提に、城攻めを誘き寄せるのだから、守り手が死ぬことは避けられない。
それも、戦うだけでなく、敵を伏見城に少しでも長く留めておく必要があります。
ここで西軍は、さっさと片付けて、会津まで家康を追ってこられてはたまりません。
武勇に優れた者・・・と言っても血気盛んな若手を、ここで使うわけにはいかない。
彼らには、もっと重要な戦いで活躍してもらいたい・・・・
そこで家康の心に浮かんだきた人物が、鳥居元忠でした。
この時62歳、老齢に差し掛かった頃。現代なら、まだまだの年ですが、当時は違っていました。
家康が三河にいた時からの、筋金入りと言ってもいいほどの忠義のあつい家臣でした。
戦で功労があった時に、褒賞を出そうとしても断る始末。
家康から見た場合、鳥井元忠は伏見城に残してもも、恥ずかしくない行動をとってくれるだろう、と見込みました。
結果として使い捨てになるかもしれないけれど・・・と覚悟を決めました。
鳥居元忠の覚悟
家康から伏見城の留守居役を命じられ、「はい」と答えた鳥井元忠。
鳥井元忠は、どちらかというとこれまでの他の臣下たちから、鈍いところがある、と噂されていました。
しかし鳥居元忠は、自分の役目にそして、その結果がどのようになるか悟っていました。
ですから、家康が会津に出陣する前の晩、家康と酒を酌み交わし、どちらも涙目になりながら、別れを告げたのです。
その時家康は、「少しでも、伏見に兵を残しておきたいが・・・」と言ったところ
鳥井元忠は「1人でも多くの兵をお連れください。ここに置いていくものは少ければ少ないほどいいのです」ということを告げました。
伏見城の戦いの結果
戦闘開始
家康が京都からいなくなると、即座に石田三成は、徳川家に不満を持つ大名を集め、伏見城の周りに迫ってくる。
総勢40000人、対する伏見城側は1800人。
名目だけでも一応、石田三成は伏見城内に降伏を促す使者を送ります。
しかし、伏見城内の鳥居元忠達は当然断ります。
その印として、使者を切り捨て、死者にして、石田陣営に送り付けます。
こうして伏見城の激戦は幕を開けたのでした。
戦闘の行方
圧倒的な数の違いで、伏見城側が取れる策は、籠城です。
鳥井元忠達の役割は、西軍を伏見城に釘付けにすることです。
最初から勝つつもりの戦ではありません。
伏見城に西軍方を入れないために、東軍は城の中から銃をバンバンと打ち出すなどしました。
伏見城は、秀吉の「隠居所」として作られており、戦向きの城ではなかったのです。
しかし防備はしっかりと作られていました。
城からかけられる攻撃は激しくて、西側は苦戦します。
いくら40000名いても、次々飛んでくる銃弾を避けて城に近づくのはなかなかに難しいです。
ここで、西軍は城に入れないまま10日ほど過ぎてしまいました。
困り果てた西軍は、五奉行の一人 長束正家(なつかまさいえ)は、かつて自分の部下に甲賀衆がいたことを思い出し、彼らを使うことを考えつきました。
その部下は、家康側について、今伏見城の中にいます。
その甲賀衆の、妻子を人質に取り、城内部からの破壊工作として火をつけさせたのです。
鳥居元忠の最期
そうなったら、もう伏見城はおしまいです。
城内の東軍兵達は、本丸に追い詰められていきます。
鳥井元忠は、かつての戦で左足を痛めていたため、足を引きずりながらも必死で敵に向き合います。
ついには使える方の右足も負傷し、もうどうにもなりません。
そこで出会ったのは、敵方の兵士ではありますが、鈴木孫一(すずきまごいち)という人物。
彼は一向宗の宗徒、雑賀衆(さいがしゅう)の者で、鳥井元忠とは見知った間柄でした。
鳥井元忠は、これも何かの縁と思い、鈴木孫一と戦って死んでいったのです。
または自害して、鈴木孫一に介錯してもらった、とも言われています。
戦闘の激しさを表すように、伏見城中は血まみれになりました。
その遺構は、のちに、あちこちの寺の天井に使われ、血天井として知られています。
現代でも、拝観することができ、私たちは見て、戦国時代に思いを馳せ、天井に向かい合掌して、昔の戦士の冥福を祈るのです。
伏見城の戦いで石田三成は
「伏見城の戦い」だけを見れば、石田三成側西軍は勝利したことになります。
しかし、城を落とすのに10日以上を要し、兵力も疲れ果てました。
一方家康は、会津に着くかつかぬうちに、伏見城襲撃の話を聞き、上杉攻めを断念し、江戸まで戻ってきていました。
でも伏見城に加勢の兵を出すことなく、出兵前に鳥井元忠に話したように、見捨てるような行動を取りました。
ただ見捨てていたのでなく、知たるべき西軍との戦いに備えるのです。
石田三成も家康が、鳥居元忠と伏見城が引き金となって、新ためて攻めてくる予想をしていました。
伏見城の事件は、家康に西軍攻撃の良い口実を与えてしまいました。
本当だったら、石田三成は、伏見城の不穏分子を成敗して、次の大戦に弾みをつけたいところでしたが・・・
次に向かって落とした城も、時間がかかり、どんどん消耗していきました。
結局、家康に準備する時間をたくさん与えてしまいました。
鳥井元忠は、徳川家康の意を汲んで、立派に捨て石になる役目を果たしました。
だから、後世まで忠臣と言われているのです。
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