石田三成と徳川家康は、対立し合う関係、と思う方も多いでしょう。
実際関ヶ原の戦いで、対決したのですから、2人の仲は険悪と言われても不思議ありません。
元々、2人とも豊臣家を支える家臣で、志は同じだった、という間柄でした。
ではなぜ、戦いにまで発展する仲になってしまったのか・・
石田三成については石田三成の項目で述べています。
ここでは石田三成と徳川家康が、元々は敵対する関係になかったことをお話しましょう。
石田三成、徳川家康と仲良しだった頃
「どうする家康で」
23年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、初対面の時代、石田三成と徳川家康は気が合う友人になるところから始まりました。
徳川家家臣たちも、家康は知的な会話を楽しめる友人が欲しかったのだ・・・、と納得していました。
じゃあ、実際にドラマで見るような交流があったのでしょうか?
気が合う、ということですが、親友になるほどではなかったようです。
これは、ドラマの演出の一つで、関ヶ原の戦いに流れが向かう伏線、石田三成、徳川家康 両者の対立を際立たせたかったからです。
最初の仲の良さを強調することで、物語後半部の盛り上がりに向かう、というところでしょう。
秀吉の死を徳川家康に伝えたのは石田三成だといいます。
そのころの石田三成は、徳川家康と手を携えて、秀頼公を一緒に守ってくれる、と思っていました。
だとすると、石田三成は少し甘い?
五大老・五奉行
五大老と五奉行の役職のあった中で、一番話が合ったのが、石田三成と徳川家康でした。
そのその石田三成は豊臣家臣の中では、「おべんちゃらづかい」などと嫌われていました。
一方の家康も、秀吉の晩年時には、力をつけてきて、「家康は政権を狙っている」と噂され、やはり煙たく思われていました。
嫌われ者同士、同病相憐む(?)、みたいなもので、2人は政務に協力して当たっていました。
五奉行・五大老の制度とは、豊臣秀吉が晩年に定めた役職です。
秀吉は、自分の死後、幼い息子の秀頼を補佐をするために作ったシステムです。
秀頼は幼少すぎて、自分の力で政治を執り行うことができないからです。
いつの日か、秀頼が、きちんと政務を行う日が来るはず、という願いをこめた制度です。
五奉行の1人が、石田三成。五大老の1人が徳川家康でした。
つい最近までの説では、大老の方が偉くて、奉行が大老たちが決定したことを実行する役目、とみられていました。
ところが最近の研究では、奉行の方が実務的な役割を果たしていました。
大老の方が、石高が多い大名ばかりでしたので(つまり金持ちということ)、実務係の奉行の仕事に、大名たちが反対してきた時に、説得にあたるのが大老の役割です。
石高の少ない、奉行たちだと説得力に欠ける時に登場するのです。
その中でも、石田三成と徳川家康はタッグを組んで、割とうまくやってきました。
しかし実際は、「どうする家康」のように、とても仲が良い、というほどではありませんでした。
石田三成、仲が悪いエピソード
石田三成と徳川家康との険悪になりつつあるムードを言い当てたエピソードがあります。
それが「竹杖事件」(ちくじょうじけん)です。
2017年の映画で、司馬遼太郎の小説の映画化のワンシーンです。
石田三成 役は奇しくも岡田准一、つい最近まで「どうする家康」で織田信長を演じていました。
「竹杖事件」とはある城建設中に起きた事件です。
城建築の監督が石田三成でした、つまり現場監督(ゲバカン、という)
ゲバカンは、杖を持ち、それを指揮棒のように指示を出すときに使っていました。
その杖を、石田三成は落とし、近くにいた徳川家康が、三成の元に近づき、杖を拾って三成に渡しました。
しかし石田三成は、拾ってくれた家康に、礼も言わず杖を、さっと取って、礼も言わずにそこから立ち去ったのです。
ずいぶん失礼な話です。
しかしここで、石田三成が家康に礼も言わなかったというこは、三成は、家康に杖を拾ってもらいたくなかった、つまり家康が嫌いだった・・・となります。
こうなると、「石田三成と徳川家康仲良し」とは全く逆の現象です。
以前は、お互い悪意を持ち合っていなかったのですが、ここの城建築の時にはすでに、石田三成と徳川家康の仲は険悪になっていたのでは、と思わせるシーンでした。
本当はいくら大嫌いでも、石田三成は一応、家康に感謝の言葉を口にしなければいけない場面です。
一方、無視された徳川家康は、やはり気を悪くしたでしょうね。
ドラマの中では、三成の行動が家康の心に怒りの火をつけた・・・なんて展開になりますが、実際にはどうだったでしょうね?
敵対する要因の一つくらいにはなるでしょう。
このエピソードは、「仲良し」ではないエピソードとなりますが、石田三成と徳川家康の段々と、遠ざかる心情の表れです。
以上の話は、実話とも言われていますし、「違う、創作だ」と言っている人もいます。
石田三成、伏見城襲撃へ
石田三成の伏見城襲撃は、関ヶ原の戦いの前哨戦とも言われています。
その前かrあ、石田三成と徳川家康の仲は食い違いが目立ってきました。
そこから一気に噴き出した、戦いが伏見城襲撃になります。
伏見城襲撃に至る経過
石田三成 襲撃される!
石田三成は、秀吉の元にずっと支えていた、加藤清正や福島正則と折り合いがよくありません。
石田三成は、文官派、加藤清正も福島正則の武力派だったので、水と油のように合いません。
そもその、加藤清正も、福島正則も秀吉の存命中の朝鮮出兵の時から、三成に対する不満を抱いていました、
そこをうまくまとめていたのが、前田利家(まえだとしいえ)でしたが、そのストッパー役の前田利家が亡くなり、2人は一気に石田三成に反乱を起こしました。
石田三成は、徳川家康の元に逃げ出します。
これまで、福島正則たちの反乱事件で石田三成は家康の元に逃げ込んだ、が通説でしたが、最近では違う説が浮上しています。
実は、伏見城の奥に逃げ込んだ、と。
これがどちらの説にしろ、徳川家康が仲裁をかって出たのは事実です。
仲裁と言っても、家康は石田三成が引っ込むのがよろしかろう、といい強引に隠居させます。
隠居場所は、石田三成の居城、佐和山城(さわやまじょう)です。
三成、蟄居に際し
石田三成は、佐和山城に蟄居(謹慎のようなことです)を命じられ、同時に息子、重家(しげいえ)を家康に人質に取られます。
三成は、家康の家臣に伴われて、佐和山城に向かいます。
その家臣とは、結城秀康(ゆうきひでやす)、家康の次男です。
石田三成の監視という役割ですが、同時に、三成がまた襲撃されないようにと、護衛の意味もあります。
無事、佐和山城に着いた石田三成は、結城秀康に、名刀「正宗」を与えます。
感謝の気持ちだったのでしょう。
こうした家康と三成の一連のやりとりの奥底に、2人の友情をどことなく感じてしまうのです。
殺伐とした戦国時代の中、ちょっとしたオアシスのような、一場面ですね。
その友情の印とも思える、刀「正宗」は「石田正宗」と名付けられ、現代では、東京国立博物館の所有になっています。
一般公開しているかなあ?
直江状・・・家康 上杉征伐へ
ちょうどその時、上杉家が軍備を整えているとの話が入ります。
その理由を上杉家に尋ねたとこと、上杉家の家臣 直江兼続(なおえかねつぐ)から。
『武家というものは常に武装するのが当たり前、そしてこれは、領民たちのためを思っての装備ですから、なんの落ち度もありません、疑う、そちらがおかしいのでは?』
と書状が届きました。これが世に言う「直江状」です。
原本は残っていないのですけれどね。
「直江状」のような挑発的な文書をもらって、徳川家康は上杉に謀反心ありとして、上杉を抑えに遠征します。
家康が戦に出かけてしまうと、京都はガラ空きに。
加藤清正、福島正則たちが、家康の味方についたと言っても、まだ確定したわけではありません。
また石田三成方に寝返るかもしれないです。
三成本人だって、乗り出してくる可能性大です。
伏見城襲撃
家康は三成が動き出さないための見張りを伏見城としました。
そこに 鳥居元忠という家臣を置いて。
京都の目の前に、城が残されて、しかも徳川家康は不在 となると、石田三成はここぞとばかりに攻めてきました。
伏見城の手勢は1800。
対する石田三成たちは40000・・・多勢に無勢なんてもんじゃない。約20倍・・・石田三成、よく集めたものです!
鳥居元忠たち、頑張ったんです!
なんと伏見城が落ちるまで13日・・・石田光秀たちは、伏見城攻略に時間をかけすぎました。
城が落ちたのは関ヶ原の戦いの1週間前。
石田三成たちは、伏見城の戦いで体力消耗してしまいました。
家康の狙い
実は家康の狙いはここにあったのです。
上杉征伐はいかなければならない戦であったのは事実です。
留守の京都を守らせる、というのは口実で、家康は罠を仕掛けました。
そして石田三成は、その罠にまんまと乗ってしまった、というわけです。
石田三成が、伏見城に攻め込んだことで、石田三成は徳川家康を滅ぼそうとしている、という口実ができ、次の戦い(関ヶ原の戦い)への大義名分ができる。
いや、関ヶ原の戦いまでは、徳川家も一応豊臣家を重んじていたから、石田三成のことを、幼い秀頼君を操ろうとしている逆臣とレッテルを貼ることができるのです。
石田三成は、豊臣秀頼を支えようと必死になっているのを、家康は知っているからこそ、三成を逆臣にすることは、三成には耐えられない、と知って、わざと反逆者に仕立て上げました。
しかも鳥居元忠という自分の部下を殺されたから、その仇討ち、という理由づけもできる。
同時に石田三成方の、兵力を減らすこともできる。
とまさにたぬき親父ぶりをはっきした家康がここではっきり見えてきました。
それも、石田三成の性格を知った上での作戦。
もしかしたら、石田三成と徳川家康の仲良し説は、家康が計ったように見えてきました。
石田三成、徳川家康との戦い
石田三成の敗北
石田三成と徳川家康の戦い、歴史に知られるナンバーワンはなんと言っても、関ヶ原の戦い(1600年)です。
戦争の名目は、豊臣家の遺児、秀頼の後見人を、徳川家康、石田三成のどちらが持つか、ということであって、どちらが天下人になるか、という話ではありません。
石田三成と、徳川家康 この両名がお互いが憎み合っているから戦争を起こしたわけではないのです。
全て秀頼様をお守りするため・・・だったのです。
結果、石田三成の属する西軍は敗北、石田三成は処罰を受けます。
それが処刑です。
石田三成をかばう家康
関ヶ原の戦いに敗れ、石田三成は再起をかけて、1人逃げまくります。
山中で、喉の渇きに耐えられず、溜水を飲んだところ、お腹を悪くしたり、散々の逃亡。
木こりの姿をしていた、とも言い伝えられています。
徳川の手勢に発見された時は、ボロボロの姿でした。
その姿を見て周りのものは「大反逆を立てた者が命を惜しむと、情けない」、そう言いました。
しかし家康は「人は心身を全うしてこそ、どんなことも成し遂げることができるものだ。大望を持った人物は、1日の命をも大事なものなのだ」と石田三成をかばう言い方をします。
そして、衣服を着替えさせて、食事を与え、医者に見せるよう、部下に命令したのです。
この話は「徳川実記」に書かれています。
しかし、「かばう」と言っても、命を助けるということではありません。
あくまでも、処刑することを前提にしています、
石田三成は、鳥居元忠の息子、鳥居成次(とりいなりつぐ)にあずけられます。
鳥居成次は、親の仇であるにも関わらず、石田三成を丁重に扱います。
石田三成、は徳川家康、鳥居成次の両名に深く感謝しました。
家康、石田三成の子供を助ける
石田三成には息子が3名いました。
かつて家康の元に人質に送られた長男、 重家は関ヶ原の戦いののち、京都の妙心寺で出家しました。
そのため、死罪になりませんでした。重家の年が若かったということもありますが。
次男は、津軽藩に養子に行き、三男は出家しました。
敵方の息子が生かされる、という例は、戦国時代では珍しいことです。
つまり、石田三成と徳川家康は、憎み合った敵同士ではなかったのです。
むしろライバル、という意識に近いものだったと思います。
お互い同士がを、力あるもの、と認めたってきたのですが、それぞれのやり方が、自分の趣旨に合わない、というところからお互いに敵意を抱く関係になっていったのでしょうか。
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