鳥居元忠、伏見城での最期。血天井のある寺。甲冑は今でも。大石内蔵助は子孫?徳川家康との関係?

関ヶ原で世の中は徳川家の世となりました。しかし関ヶ原への前哨戦となる伏見城の戦いがありました。

壮絶な戦いでした。どんな戦いだったのでしょうか?京都を中心とする関西の寺のいくつかに血まみれとなった、血天井と呼ばれる天井があります。これが伏見城の名残と言います。

そこで名を挙げた武将が、鳥居元忠。徳川家いや松平家に昔から仕える家臣の一族の者です。

さてその子孫には大石内蔵助がいる?これ本当でしょうか?

鳥居元忠にとって伏見城の戦いは、関ヶ原の前哨戦。ここで迎える最期とは

関ヶ原の戦いに至るまでには、徳川勢には超えなければならないハードルがありました。その一つが会津の上杉攻めでした。

上杉に兵の多くを割かなければならないということは、京都の守りが手薄になります。それを認識していながら、家康は鳥居元忠に伏見城を任せて出陣します。

徳川の、関西での拠点は伏見城でした。伏見城を守ることも上杉攻めと同時に必要なことでした。

家康と大多数の軍が京都を離れると知った、西軍が伏見城に攻撃をかけてくることは明白でした。

鳥居元忠は西軍をこの地にできるだけ長く留めて、家康を守ろうと決意していました。重要な拠点であることを逆手にとって、多くの西軍をこちらに引き付けておこうという計算を鳥居元忠は立てていたようです。

家康の方も多分伏見城は陥ちる・・・と覚悟していました。

家康は鳥居忠元に絶対的な信頼を置いていましたが、それでも今回の伏見城には絶望的な予想でしかありません。

伏見城の戦い・・・・壮絶なものでした。合戦の開始は1600年8月26日(新暦でいえば)。

鳥居元忠の手勢の兵の数、1800〜2000、対する西軍の兵約40000・・・

西軍は手を休めることなく攻め続ける。それでも守りの堅固な伏見城はなかなか落ちません。しかし人数に任せて、鉄砲を撃ちかける、などどんどん追い詰めていった挙句、ついに9月8日伏見城はついに落城しました。

なんと約2週間にわたる戦闘でした。城の大部分は焼失し、徳川方の家臣は討死あるいは自刃しました。

鳥居元忠は、西方の鉄砲頭、鈴木重明と一騎打ちとなって命を落としました。一説では鈴木重明の介錯により自刃とも伝えられています。

残った床板、畳は血まみれです。

関ヶ原の合戦は10月21日のことです。が、なんと伏見城の後始末は関ヶ原が終わるまで手がつけられないままでしました。

まだ暑さが残るなか・・・伏見城内がどんなだったか・・・想像するだけで身震いがしてきますね。ほとんどが焼け落ちたといいますが、それでも近寄りたくない場所ですね。

石田三成は、伏見城をさっさと落として西軍の士気を高めようと思っていたのですが、想像以上に伏見城攻めに時間がかかり、しかも兵力の多くを注ぎ込んだため、息切れしてしまい、関ヶ原の合戦が始まった時には疲れ果てていた、ということでした。

つまり鳥居元忠は自分の役目を死を持って果たした、そう言えるのですねある意味作戦がち・・・悲しすぎる結末ですが。

鳥居元忠と島津義弘そして小早川秀秋

伏見城攻めの時、島津義弘と小早川秀秋は西の石田軍についていました。関ヶ原では二人とも徳川軍に加わったのですが・・・ここでは西軍でした。

島津義弘については、エピソードがあります。

島津義弘は、家康と密談をしていたと。その内容は「家康が会津に遠征にいった場合は伏見城で居留守をしていただきたい」ということでした。この密談は1600年春頃の話ですので、不穏な空気はこの辺りからずっと流れていたようでした。

ただし、実際に島津義弘が伏見城を訪れた時には、伏見城から門前払いを喰らわされた、とされているのです。家康、島津、伏見城の鳥居忠政との間の連携不足だったのでしょうか?

ただの連携不足で、島津義弘の協力が得られなかったとすれば、これは悲劇です。

ですが、このエピソードは関ヶ原後に島津家が創作した疑いがあるのです。家康の依頼を島津義弘が国元に書状を送って知らせた、というのですが、その書状は残っていません。島津家の創作話では?と今では言われてます。

島津家は関ヶ原の戦いで徳川に着くのですが、その言い訳的にそして自分に箔をつけるために創作した可能性があります。

小早川秀秋は、関ヶ原の戦い土壇場で徳川軍につき徳川に勝利をもたらしました。

最後に西軍に寝返るまでに色々葛藤があったようです。

秀吉の北の方の甥で、秀吉の養子になったり、外されたりと豊臣家の跡目問題に翻弄され、また小早川家に養子に出されと気の毒な人生を送っていました。

やっと継いだ小早川家も禄を減らされ家臣も減らさなければならなかった中、手助けしてくれたのが徳川家康だったのです。

徳川家への恩のため東軍についた小早川秀秋でした。

伏見城の攻防戦ではまだ西軍にいました。ですがこの頃から小早川秀秋は葛藤を抱えていたのではないか、と思われます。

島津氏は、後世に逸話を創作したなど世渡り上手な様子が伺えますが、小早川氏の方は豊臣家の都合に左右されたちょっと気の毒な人でしたね。

もう少し早く、小早川秀秋が気持ちの切り替えをしてくれたら、伏見城の悲劇もまた変わったものになってきていたかもしれません。

鳥居元忠の血天井とは?寺にあるわけは?

鳥居元忠はじめ、東軍の者たちが討死した後、関ヶ原の戦いが終わるまで2、3ヶ月放っておかれました。

やがて片付けも行われます。全焼に近くまでになった伏見城ですが、床板などが焼け残っていました。

当時は解体した城の材料は他の城、寺などの材料としてリサイクルすることは普通でした。

ですが、さすがに血糊がついた床板、畳これはちょっと・・・・亡くなった武士たちの無念さがひしひしと伝わってくる遺物です。

そこで供養が必要と考え、寺院の建材にしました。より供養ができるように、読経などの効果がが望めるように天井の建材に使われました。

いくつかの寺院の天井になっていますが、「血天井」と呼ばれ今でも観覧可能です。

有名なところで、京都では三十三間堂近くの「養源院」、嵯峨野の「源光庵」、西加茂にある「正伝寺」、妙心寺内の「天球院」、宇治の「興聖寺」などがあります。

今では血の色は褐色に見えますが、それでも手の形が確認できるところもあります。お寺で毎日読経の声を聞き、今では彼らの魂は極楽で安泰なのだな、と思わされます。

それでもあのシミは「血?」と思うと・・・・もし心臓の弱い方がいらしたら、天井見物は避けたほうがいいかもしれませね。

科学捜査された天井もあるそうですが、人の血であるかの証拠は取れなかったようです。、板を移動し、天井に嵌めるときなど第3者の手にかかっているし、また400年も外気にさらされているので、正確な科学捜査はできないでしょうね。

400年前の遺物というと、大抵の場合はロマンを感じさせるのですが、血天井はロマン・・・ではなくここからは400年前の哀しみが伝わってきます。

源光庵には、「迷いの窓」と「悟りの窓」があり「血天井」→「迷いの窓」→「悟りの窓」と見ていくと魂が浄化される感じがします。

鳥居元忠の甲冑と刀は?

鳥居元忠の甲冑ですが、「具足」と呼んでいます。甲冑というと西洋世紀のものを指します。特に近世の防武具を具足と言います。

鳥居元忠の具足、「紺糸素懸威二枚胴具足」(こんいとすかげおどしにまいぐそく)と銘のある品でした。ですが、一般に知られている名称、甲冑という言葉を使っておきますね。

しつらえは革製の小さな板を紺色の糸で綴り合わせた胴部で、そこには一面に金箔で仕上げがされています。袖部分も金色、銅の下に垂らす草摺と呼ばれる部分は朱色でした。

これは鳥居元忠が伏見城の合戦で討ち取られた時、身に纏っていた甲冑です。そして最後に自分を討った、鈴木重明(鉄砲頭だった)に、刀と共に持ち帰らせた、と言われています。

戦利品として持ち帰ったのですね。鈴木重明は西軍で戦ったのですが、戦後水戸藩に召し抱えられました。敵方ですが、西軍の武士たちは本人の就活具合では勤め口を見つけることもできました。まだまだ人材不足の世の中だったようです。

さて、鈴木重明さん、落ち着いたところで、元忠の息子鳥居忠政の元を訪れ、甲冑をを返還しようとしました。

鳥居忠政はとても感激したのですが、「これは貴方様の名誉ですので、お持ちになってご子孫までお伝えください」と断って相手に進呈したわけです。

ただし、甲冑と一緒にあった鳥居元忠の肌着だけは形見として引き取りました。この肌着は鳥居家の領地となった栃木県壬生町の精忠神社に祀られています。

以上の鈴木重明の逸話は古文書に残っていますが、はっきりしたことはわかっていません。美談すぎすような気がしますが。

現代になって、鈴木重明の子孫がこの甲冑を大阪城天守閣に寄贈しました。大阪城天守閣は今では歴史博物館になっています。

大阪城天守閣に展示されている、鳥居元忠の甲冑・・・・写真で見るとすごく金ピカで400年もの時代を経ているとは思えないほどなのですが。メンテナンスでこんなに綺麗になるものでしょうか?ただし兜だけは江戸時代に作り直されたものということです。

大阪城天守閣はいつも観光客で混み合っているので、戦国時代に思いを馳せるのが難しい場所ではあります。

それでも甲冑の重みは十分に伝わってくる展示物です。

鳥居元忠の生まれと子孫は?大石内蔵助と関係あり?

鳥居家の出自は源頼朝の時代から存在していたようです。地頭でありました。その後は新田義貞に仕えた、ともされています。

でもそんなに大物の家柄ではなかったので、歴史上にはそれほど名前は上がってきていません。やはり伏見城の戦いがあるからこそ、鳥居一族の名前が一気にあがったのではないでしょうか?

岡崎にずっといた一族で、いつしか松平家を支えるようになりました。裕福な一族だったため、家康の人質時代も家康に物品的な面で支えていました。

鳥居元忠の子孫は江戸時代の有名人へと繋がっていきます。

鳥居元忠は伏見城の戦いで一家全滅したわけではないのです。

嫡男は関ヶ原以降家を継いでおり、家康により家禄が加増されています。そして江戸時代を通じてその家名は受け継がれていきます。

鳥居元忠の4男の娘(つまり孫ですね)が大石良欽と結婚しました。大石家は大石良欽の代から淺野家筆頭家老になっています。

大石良欽の孫が大石内蔵助になります。

大石内蔵助の先祖の話は、忠臣蔵の討ち入り後も伝えられていて、先祖からの忠義者と言われています。

一方の大石家の先祖を辿るととても古い時代の人物に行き着きます。その人物も武勇に優れた人だったようです。

名の残る家というのはやはり、先祖のことも結構はっきりしれているようです。家に家系図を作っているのでしょうか?

私など、全くのど平民ですから、先祖が何をやっていた人か全くわかりません。せいぜい知っているのは祖父の頃まででしょうか?

鳥居元忠の性格は?

鳥居元忠といえば、まず忠義者、こういう性格づけができます。

その後も家康と幾つもの戦果を潜り抜け、家康の護衛、先人を任されたこともあるところから勇猛果敢な人物であることが窺えます。

それにしても知られている鳥居元忠の性質は人すら忠義の人、それに尽きるのです。

忠義心を表す、他のエピソードがあります。

戦功を当てた者に、ある書状を与えるということになりました。それは他の主人の元に使える時にそのものの人物証明書、紹介状になる文書でした。

その中に鳥居元忠が入っていました。しかし鳥居元忠は断りました。「自分は、今仕えている家康以外の武将に使えるつもりは毛頭ない。だから自分にはこの書状は必要ない」と。

また秀吉は鳥居元忠を気に入ったのでしょうか?官位推挙の話を何回か鳥居元忠に勧めました。

しかし、鳥居元忠は、自分は二人の主君に仕えることはできない、そんなに器用な人物ではない。自分は無骨者だから一人の主君にしか仕えることができない。そしてその一人の主君は家康のみである。と述べました。

他からの権威に靡かない・・・そんな決意が感じられる言葉でしたね。

もう一つ、手段を選ばない面を見せている場面もあります。

伏見城の決戦が始まる前、石田三成が伏見城を明け渡すよう書状を持たせた使者を送りました。鳥居元忠は、その勧告を聞かず使者を切り捨て、その死体を石田三成に送り返しました。

戦争の生死をかけた決意を示した行動ではありますが、鳥居元忠の中に暗くかなりの恐ろし面をここに感じてしまいました。

鳥居元忠と徳川家康の関係は?

鳥居元忠の出身、鳥居家は先祖代々松平家の家臣でした。鳥居元忠と徳川家康4歳差で、幼馴染と言ってもいいでしょう。

徳川家康が今川義元の人質になったときに、鳥居元忠もついていきました。多分、まだ幼く家族を懐かしむ家康の力になっていたことでしょう。

今川の元で家康が元服をした時に、おそらく鳥居元忠も一緒に元服をしたと思われます。

今川義元が桶狭間の戦いで敗れ、今川の元から離れるときも一緒についていきました。その後の三方原の戦いにも家康に付き従い、そこで鉄砲に当たり片足が少し不自由になります。

のちに、鳥居元忠が伏見城の戦を戦う時もこの足が、影響して動きが悪くなるなど不都合もありました。

伏見城の戦いの前、厳しい戦いになると家康も鳥居元忠も読み、家康が会津に出向く前日に、多分これが最後、と言って別れの盃を交わしたと伝えられています。

それこそ見た人はいないし記録にもありませんがこのシーンはどうしても想像しないわけにはまいりません。

そして予想通り、伏見城は落ちます。しかし14日間もかけたことが、伏見城攻防では意味があります。おかげで、関ヶ原の戦いでは西軍側が疲弊することになりましたから。

いくさ、そのものには負けましたが、作戦では勝った・・・のですね。

よって、鳥居元忠は後世まで「三河武士の鑑」とまで言われるようになりました。

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