石田三成、1600年 関ヶ原の合戦で敗北します。
与えられた処罰は、一軍の将であったのに、自害ではなく斬首となりました。
石田三成は、準備を整えて戦場に臨んだのに、なぜ負けたのでしょう?
そもそも、なぜ挙兵する必要があったのでしょうか?
ここでは石田三成が、兵を挙げなかればならなかった理由、そして敗因について語ってみたいと思いました。
そして、石田三成の妻のことも触れてみます。
石田三成、関ヶ原の戦いで どうなった
関ヶ原の戦いとは、
日本の政権をかけての戦いではありません。
西軍の石田三成 対 東軍の徳川家康、というのものではなかったのです。
まだ、豊臣政権の世の中であり、秀吉のたった1人の息子 秀頼がトップの世の中です。
豊臣秀頼を西軍、東軍のどちらがお支えするか、を争った戦いです。
しかも石田三成は、西軍の総大将でもなかったのです。
では石田三成は、関ヶ原の戦いで何をしたのか?
石田三成は、関ヶ原の戦い向けて、同盟者を集めた、ということになります。
しかし自分が総大将にはなりませんでした。
その理由は、親友の武将 大谷吉継(おおたによしつぐ)に、「三成殿は嫌われていて、人望がない。毛利輝元殿を総大将に立てると良い」というアドバイスに従ったわけです。
言ってみれば、石田三成は、関ヶ原の戦いの提唱者、発案者と言っていいでしょう。
さらに参謀の役目も果たします。
石田三成は、西軍の陣形を整えました。
あとは人智を尽くして天命を待つ・・・だったのですが
西軍敗北
会戦の初めは、石田三成が望んだ通りの戦闘状態になりつつありましたが、だんだんと押されてきて、西軍、ついに総崩れとなりました。
石田三成が陣を敷いた場所は、戦闘がよく見渡せる、ところ。笹尾山道いう高台です。
この戦いはダメだ、と悟った石田三成は、自分の配下に退却を指示し、自分も戦場を離れ、新たに陣営を立て直そうと試みました。
でも・・・結局逃げ仰ることはできず、家康の東軍に囚われる結果になりました。
関ヶ原の戦い、石田三成の最後
逃亡から確保
本人は戦場離脱しましたが、卑怯者とは思っていなかったはずです。
長浜市まで逃げてきたところを捕まりました。
また別説では伊吹山の洞窟に隠れて、その間、かつて石田三成に世話になった者が、恩義を感じて匿ってくれたのです。
しかし、その村人が自分の村の長に見つかり、役人に報告すると言ったところ、石田三成は、相手に迷惑がかかると思って自分から出てきたという話もあります。
また、逃げる途中で、飲んだ水が汚染されていて、お腹が痛くなった、ところを捕まったという逸話があります。
もともと石田三成は神経が細やかな性格のところから「過敏性腸症候群」でなかったか、という後世の医師達からの見たてがあります。
ですから、悪い水を飲んだから、ではなく、逃亡の緊張感からお腹が痛かったのかもしれませんね。
市中引き回しでのエピソード
捕まり、家康の前に引き出され、処分が決まります。
大坂に入り、市中引き回しのうえ斬首という判決です。
処刑に至るまでのエピソード、紹介しましょう。
- 黒田長政が、三成のボロボロの姿を見て、忍びないと思い、自分の陣羽織を脱いで渡した
- 家康は、処刑の前に、石田三成とそして一緒に処刑される小西行長、安国寺恵瓊に小袖を、役人を通じてわて与えました。三成は「どなたからですか?」と聞いたところ、「上様(家康様)です」と答えが返ってきました。すると「上様とは、秀頼様だけです」と言い、受け取らなかった、ということ。
- 処刑に向かう前に、石田三成は喉が渇いた、と言って飲み物を頼んだのですが、ちょうど水もお湯も用意できなかったので、役人は、渋柿を出しました。すると、三成は「柿はやめておこう。渋柿には毒があるかもしれない」と断りました。すると役人は「死んでいくのに、毒が怖いのか?」と尋ねます。すると三成は「私のように志を持っているものは、いついかなる時もそれが最後の瞬間であっても命を大切にするものだ。なんとかして願いを叶えたい、と思っていうから」と答えました。しかし、柿を拒否した理由には別の話があって「柿はお腹が冷える。武将たるもの、死に向かうときでも決して、恥ずかしい姿を見せてはいけない」というエピソードもあります。
どのエピソードも、石田三成のプライドの高さというより、これは誇り高さ、が表れています。
京都市内を引き回しにされたということは、見せ物にさせたということです。
これは誇り高き石田三成にとってかなりの屈辱だったでしょう。
その時の石田三成の心情はどうだったのでしょう。
引き回しのルートは、京都の室町通と言われています。
室町通は、上京と下京を結ぶ通りです。
今ではその面影もありませんが、京都観光の折に、ちょっと歩いてみるのもいいかもしれません。
そして斬首に・・・
石田三成に課せられた刑罰は、斬首でした。
斬首はかなり下級の罪人が受ける刑罰ですが、石田三成のような立派な武将に対してはかなり不名誉なものであったに違いありません。
武人ならば、切腹ですが、石田三成には切腹が認められなかった、ということなのでしょう。
徳川家康は、当初は石田三成と新しい世を築いていきたい、と思ったのでしょうか?
家康の理想が裏切られた時の腹立たしさから、石田三成の名誉を剥ぎ取ってやろうと考えたのでしょうか?
さらに家康は、石田三成の出身地、琵琶湖の北部にある石田村にある、石田三成の先祖の墓石を破壊させた、というから、よほど憎しみが強かったに違いない、と思われます。
それでも、家康は石田三成の子供たちの命を取らなかったから、石田三成という人物の才能を認めていたのでしょう。
家康の、複雑な心情が垣間見えてきます。
関ヶ原の戦い、石田三成の敗因
石田三成の敗因といういうより、徳川家康の勝因という方がここでは言った方がいいでしょう。
それは、徳川家康のずる賢さに、実直な石田三成が敗れた、ということです。
それに石田三成は徳川家康より、15歳以上も年下ですから、年の功ということで家康に軍配があがったのでしょうね。
家康の「たぬきじじい」ぶりが発揮された戦争、ということでしょうか。
石田三成の敗因、は大体いかになります。
決戦の始まり
関ヶ原の戦いが始まる前までは、どちらが有利、ということはありませんでした。
どちらも、勝つ可能性がありました。
集めた兵士、およそですが、西軍は80000、東軍は70000、となりました。
石田三成の西軍が、10000ほど多いですが、これはさほど問題ではありません。
陣形の作り方はどちらも、兵法にある陣形。
石田三成は「鶴翼の陣」、一方の家康は「魚鱗の陣」。どちらも互角・・・
それほどまでに、完璧な作戦だったようです。
さて、決戦当日 9月8日、前日から降り続いていた雨からくる霧が晴れます。
決戦の火蓋を切ったのは、東軍。
東軍の井伊直政が西軍の宇喜多秀家を襲撃したところから始まりました。
裏切り者、出現!
理由と考えられるのは西軍から裏切り者が出たからです。
合戦が始まった頃は、互角、というよりむしろ西軍の優勢でした。
明治以降の話ですが、日本の戦術の話をしていたら、ある有名が海外の軍人が、関ヶ原の陣系図を見て、「石田軍が勝つ」と言ったそうです。
このまま突き進めが西軍勝利のはず・・・だったのです。
ただ、実際に先頭に参加していたのは、石田三成、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小西行長(こにしゆきなが)、大谷吉継(おおたによしつぐ)の軍で、その人数、35,000程でしょうか?
こうなると、今度は実戦に出ている人数で、東軍は西軍の倍数いることになります。
西軍の味方についていた、小早川秀秋(こばやかわひであき)、吉川広家(きっかわひろいえ)たちからの動きはほとんどありません。
小早川と吉川は、もとより東軍につこうか・・・と考えていたからです。
この2軍の動きに、西軍の長束正家(なつかまさいえ)、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)も気になり、背後を襲われると元の子もないと思い、動きが取れない状態でした。
小早川のことを大谷吉継は信頼していなく、小早川の陣の近くに自分の陣を取り、小早川の動きを見張っていました。
裏切りの結果
小早川秀秋はなかなか、裏切りの行動を起こしませんでした。
堪えかねた、家康は、小早川秀秋の陣に向けて発砲しました。
それに恐れを感じ、小早川は山を降りて、近くの大谷吉継の陣に攻め入ります。
大谷吉継はここまでは予想していました・・・・しかしここで想定外の事件が起きたのでした。
大谷の配下にあった、複数の武将が東軍に寝返ってしまったのです。
大谷吉継は、ここで敵に囲まれて、大谷隊全滅となりました。
この様子を見た、小西行長、宇喜多秀家の軍が浮き足だち、それに呼応して、西軍が総崩れとなり、敗退となりました。
戦闘開始から、6時間のことです。
小早川と、吉川を裏切りに走らせた、徳川家康の手腕の勝利ですね。
関ヶ原の戦い、石田三成はなぜ挙兵したか
石田三成の挙兵・・・関ヶ原の戦いはなぜ起きたのか?
全ては豊臣秀吉が亡くなったことが始まりです。
秀吉が亡くなった時に、息子の秀頼が成長していればそれほど問題はなかったはずです。
ところが、秀頼はまだ5歳、まだまだ乱世時代の支配者には無理な年です。
秀頼が一人前になるために、秀吉は亡くなる前に政府の態勢を作り上げました。
それが、五大老五奉行、合計10人で力を尽くして政務を行い、成長した秀頼に政権を渡す、という仕組みでした。
徳川家康は大老の一人、石田三成は奉行の一人でした。
しかしその中で、徳川家康は、着々と自分に都合が良くなるよう、状況を仕向けていきました。
そして秀吉の遺言を守らなくなり、勝手に子供たちの婚姻を決めるなど、暴挙とも見える行動が目につきます。
やがて石田三成と、徳川家康の意見が対立します。
石田三成の実直すぎる性格は、岡の武将たちからも煙たがられるようになり、三成は隠居にまで追いやられます。
これでは、秀吉の遺言が守られない、秀頼様を守ため、家康の手から秀頼を取り返そう・・・・
その想いが、家康との対決つまり、関ヶ原の戦いへとなりました。
これまでの流れから、石田三成は嫌いだけれど、秀頼様はお守りしたい、と思う武将たちは大勢いたので、総大将は石田三成ではなく、毛利輝元となって、関ヶ原の合戦に至りました。
関ヶ原の戦いで石田三成の妻はどうなった
妻は自害か?
石田三成の妻は、他の戦国武将の妻と同じように夫の留守を守るというものでした。
石田三成の妻は「うた」と呼ばれていました。
石田三成の元に嫁いできたのは、1577年(天正5年)頃、長篠の戦いのすぐ後の頃でしょうか。
そのころの石田三成は、秀吉に仕え始めた頃で、17歳あたりでしょうか?
「うた」と呼ばれ、三男三女を産んだということですから、仲はそれなりに良かったようです。
関ヶ原で石田三成が敗走した後は、石田三成の城、佐和山城は徳川家康の命令で攻撃されました。
留守役の兵、父、息子たちで城を懸命に守りましたが、城は落ちました。
もはやこれまで・・・となった時にうたは、家臣に自分を殺させました。
間接的な自害です。
城から逃れていた?
城から出て、石田三成斬首の後自害した、とか、夫の消息を確かめていた、という話です。
年大河ドラマ「真田丸」では夫の最後を告げに、真田幸村の元を訪れるシーンがありました。
もっとも、関ヶ原の戦いを前にして、石田三成は、西軍武将の妻たちを人質に取りました。
人質となってその後命を落とした有名が妻が、細川ガラシャ夫人でした。
石田三成の妻も例外ではなかったと思います。
石田三成が、人質をとる、との言い出しっぺだったようなので、「うた」は他の夫人たちのお世話をしにいったのでしょうか?
関ヶ原の戦いの間、大坂城にいて、「西軍負ける」の知らせを聞いて、大坂城を脱出したことも考えられます。
「うた」の名前は「皎月院」(こうげつ院)で知られていますが、戒名が「皎月院殿寂室宗珠大禅定尼」からとって、そう呼ばれています。
石田三成の側室?初芽とは?
石田三成には側室がいました。
「初芽局」(はつめのつぼね)という言われていました。
実はこの女性、徳川家康から石田三成の動向を探るように派遣された、女スパイ、つまりくのいち(忍者)だったということです。
ですが、初芽さん、真面目な性格の石田三成を好きになってしまい、徳川家康を裏切って石田三成の側室になってしまいました。
戦国時代には、武将に側室がいるのは普通だったようで、特に正室に対する裏切りとかそのような考え方はありませんでした。
ちょっと、「どうする家康」の鳥居元忠と千代さんとのシチュエーションに似ていますね。
佐和山城陥落となり、初芽局は、正室 うた と共に自害したと言われています。
がひょっとしたら徳川家康に裏切り者として殺されたかもしれない、なんていう話もあります。
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