茶々(淀殿)の妹、江姫(ごうひめ)。
姉、茶々のように歴史上を華やかに彩る、というような目立つ存在ではありませんでしたが、この姫も時代に翻弄されながら、力強く生きた姫君です。
徳川家に入り将軍の妻という、一見幸せな道を辿ったように思えますが、それでも心穏やかだったわけではありませんでした。
姉とは敵味方となったのは辛い思いだったでしょう。
母でありながら、息子家光とのなかがギクシャクするのも辛かったのではないでしょうか?
辛い中を必死で生き抜いた、江姫の生涯を、想いをここでは検証したいと思います。
江姫、浅井長政の娘に生まれて
江姫の母親は、戦国時代、美人で名高かったお市の方、織田信長の妹です。
父親は浅井長政(あざいながまさ)、滋賀県長浜にある小谷城の大名でした。
浅井三姉妹の末娘です。
江姫はお江とも呼ばれています。
上の姉妹は、長女 茶々(のちの淀君)、次女 初(はつ)です。
父、浅井長政は、織田家と同盟を結ぶために お市の方と結婚したのですが、その同盟は敗れ、浅井長政は敗れ、城で自害。
三姉妹は父を失います。
特に江姫は、生まれたばかりだったので、父の顔も知りません。
ここで江姫は、母 お市の方と2人の姉と共に叔父の織田信長のもとに行きました。
その後は、織田信長の弟の元で生活していたようです。
江姫と織田信長は仲が良かった、ホント?
2001年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では江姫と、織田信長の接点が多く、江姫がこっそりと信長に恋心を抱いていた雰囲気を出していました。
ですが、実際には、江姫が始めて信長に会ったのが、8歳〜9歳にあたります。
それも織田家で行われた公式の行事(馬揃え)だったということなので、直接親しく話をした、ということにはならないと思います。
せいぜい、信長が江姫たちに声をかけたくらいでしょうか。
幼い姪に、個人的に話をしたことがあるかもしれない、程度のことでしょうか?
本能寺の変の時で、江姫はようやく10歳ほど。
「江〜姫たちの戦国〜」のように、信長の最後に江姫との心の交流があったことはまさに創作です。
その後の江姫の、性格や生き様を決定づける瞬間として演出として、登場させたのでした。
普通に考えると、江姫と信長は、血縁以上の接点がない伯父と姪との関係でした。
しかし、江姫は織田信長と気性が荒いなどという性格が似ていた、との言い伝えです。
江姫の性格
最初はおとなしい?
幼少期から、親を殺され、保護してくれる人も次々代わり、かなり複雑な人生を送ってきました。
結婚も、保護してくてる人の都合で合計3回もすることになり、不安な状態を経験しました。
それに一度めの結婚は離縁をさせられました。
これは夫 佐治一成(さじかずなり)から言われたのではなく、秀吉の差金であったのです。
ここからは、江姫は周りが決めたことに嫌と言わない、おとなしい性格の女性のように見えます。
しかし、この時代、江姫たち3姉妹は秀吉の保護のもとにいました。
ということは秀吉に逆らえない立場でした。
姉、茶々(淀殿)秀吉と結婚していましたが、それについても、姉の方が妹たちに良い縁談を世話するために結婚を承諾したと、言われています。
ですから、姉が困らないようにするためには妹たちは、秀吉のいうことを聞くしかない、と思っていました。
3人の姉妹は、それぞれを思いやりながら生きていたのです。
秀忠との結婚で・・・本性発揮?
ですが、3度目の結婚で徳川将軍の妻(御台所、みだいどころ)となることができ、一見平安な地位におさまりよかった、と思うところなのですが、また悩みごとの多い、日々が続くのです。
家康の息子、秀忠が江姫の夫です。
江姫は夫の浮気を許しませんでした。
他の、将軍たち特に家康には側室がたくさんいましたが、2代将軍秀忠の場合、江姫が許さなかったのです。
江姫は秀忠より6歳年上なので、秀忠も江姫に遠慮して側室を作らなかったというのですが・・・怖かったのかもしれません。
それでも・・・侍女に手を出しました!
そして息子が産まれました。
江姫は、怒りのあまり相手の女性を追いかけました。
思いっきり恨みの言葉でもかけてやろうと思ったのでしょうか。
相手の女性は子供と共に逃げ、舅の徳川家康が、見性院(けんしょういん)のもとに匿いました。
見性院とはかつての武田の家臣、穴山梅雪(あなやまばいせつ)の妻でした。
江姫は見性院にも、くってかかりましたが、流石に家康のとりなしとなると、どうしようもなく、引くしかありませんでした。
江姫の姉、初 にも似たようなエピソードがあります。
浅井3姉妹は揃いも揃って、気が強かったのですね。
というか、女性は夫が他の女性に手を出したら怒りますけどね。
戦国時代は、普通のことと思って構えるのが美徳とされていたみたいです。
江姫 美人?
江姫は美人だったのでしょうか?
江姫の、顔立ちに関する記述はありません。
肖像画もありますが、尼姿のものが多く、それに戦国時代の手法で書かれているため、美人かどうかはよくわかっていません。
墓所の発掘調査から、骨格の華奢な小柄な人物だったことが証明されています。
次姉の、初姫も小柄な姫でした。
長女の茶々だけが、両親と同じように背の高い人物でした。
浅井三姉妹のうち美人と思われているのは、茶々だけですが、それでも母親のお市の方のような美人というわけではありませんでした。
でも母親が美人、父親 浅井長政も美丈夫で通っていたから、江姫もそれに初姫もそこそこの美形だったと想像されます。
それに3度も結婚したのだから、なかなかの美人だったのかもしれませんよ。
江姫の結婚
江姫は3回結婚しました。
現代から見ると多い方かもしれませんが、戦国時代なら、それほど多いわけではありません。
最初の結婚
最初の結婚は、佐治一成(さじかずなり)でした。
江姫にとっては、母方の従兄弟に当たります。
この結婚は、離別となりました。
小牧・長久手の戦い(1584年)で豊臣秀吉と徳川家康との戦いで、豊臣家の味方であるはずの、佐治一成は、家康に帰国するための船を貸してしまった、という行為が秀吉を怒らせました。
または、小牧・長久手の戦いで佐治家は力を失い、秀吉が見捨ててしまった、という理由もあります。
とにかく、小牧・長久手の戦いで、江姫は秀吉に連れされててしまいました。
2番目の結婚
今度の結婚は、秀吉の甥、羽柴秀勝(はしばひでかつ)です。
この時、まだ12歳です。
戦国時代ならよく見られる結婚年齢です。
この秀勝は、小吉秀勝と呼ばれ、於次秀勝(おつぎひでかかつ)と区別されています。
どちらも秀吉の養子で、於次は織田信長の遺児で、小吉の方は、秀吉の姉の息子です。
こちらは死別です。
ここで、江姫はまだ13歳。
それでも娘が生まれました。
ですがその子供は、江姫がこの家を出るときに養子に出されました。
3度目の結婚
3度目の結婚は、徳川家の後継、のちの2代将軍 秀忠でした。
この結婚は2度目の夫の死から10年ほど経っており、といってもまだ23歳です。
秀忠は、年下の夫でした。
徳川家将軍だから、江姫もやっと苦労が報われる、と思ったのですが、どうもそう簡単に行きませんでした。
徳川家と、姉のいる豊臣家は大きな戦となり、ついに豊臣家は滅び、姉の茶々も城で討ち死に、となる悲しい運命が待っていました。
でも秀忠の元で、夫婦仲も比較的よく、愛情に恵まれた生活になったのですね。
「どうする家康」の江姫は
2023年大河ドラマ「どうする家康」で江姫役にキャスティングされたのは マイコです。
マイコさんが見た 江姫のイメージは「物事に動じなく冷静沈着、強い女性」でした。
マイコは13年前、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で、「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)の妻、岩崎喜勢役でした。
その時は非常に可愛らしい雰囲気で、夫となった岩宇弥太郎がメロメロになっていました。
今度の「どうする家康」でも、様子は非常に可愛らしい姫君のようです。
可愛らしく、たおやかさを持ち合わせているように見えます。
姉上、茶々の濃い目の顔立ちと比べると、茶々とは性格が違うのだろうか?などど思われます。
しかし、江姫本人は多くの苦労を乗り越えての結婚、そこがどう現れるのか楽しみです。
気の強い性格を見せてくれるのでしょうか?
江姫、姉 茶々と対立する?
江姫は、姉 茶々との間に争いはあったのか?
というよりか、豊臣家と徳川家の争いにどう巻き込まれていったのか?ということです。
茶々は秀吉と結婚して、息子 秀頼を産みます。
秀頼が成長して、秀頼の後を継いで天下人となるはずですが、徳川家康によってその道を妨げられます。
変わって、江姫は敵の徳川家の嫁になっています。
敵同士に分かれた姉妹です。
お互いの間に戦が起こった時の2人の気持ちはどんなものだったのでしょうか?
特に江姫からは茶々はどう見えていたのか気になります。
自分たちの実父が亡くなった時、江姫は物心つかない年齢でしたが、茶々の方は父を失う悲しさを味わっていました。
次の父、柴田勝家と母、お市の方が北ノ庄の落城で自害した時の記憶は茶々にはしっかり残っています。
その時の江姫は10歳・・・親が死んだ記憶は姉の体験とは、温度差があります。
さらに江姫は、豊臣秀吉に自分と、姉たちの運命を翻弄されたと感じて、むしろ豊臣家を恨んでいたことも考えられます。
その恨みは、茶々が豊臣家に抱く感情と性質が違っていました。
姉を縛り付ける、悪い人のように見えたのかもしれません。
江姫から見たら、姉 茶々には豊臣の家から離れて、心を穏やかに守ってほしいと思っていたのでは?
江姫と春日局の対立
江姫と秀忠の長男、家光の乳母になったのが、春日局(かすがのつぼね)です。
仲が悪かったのは本当?
江姫と春日局は仲が悪かった、と言われています。
確かに春日局の出身をみると、江姫と仲が悪いと言われても仕方ない、と思います。
春日局の父親は、明智光秀の家臣でした。
明智光秀といえば、織田信長の暗殺者。
明智光秀の家臣なら、江姫にとっては、身内の仇ともいうべき相手。
憎んで当然、ではありますが、織田信長と江姫たち、浅井姉妹とそんなに一緒に生活をしたわけではないので、それほど実感があったかどうかは疑問です。
ですが江姫にとって、せっかく産んだ我が子を自分の手で育てられない、というのは辛いことだったでしょう。
昔から、戦後に至るまで、身分の高い人の子育ては乳母であった、と言いますが、自分の手で育てたいと思った母親だって多かったはずです。
将軍職をかけて対立?
江姫たちは、家光と離れていると、だんだんと家光より次男の秀長の方が可愛く思えてきます。
秀長の方が可愛らしく賢かったと言われています。
しかし賢かった、といより次男(次女もそうですが)は、上の子を見ているので要領よく振る舞うことができる、ということでした。
とにかく秀長を可愛く思う、江姫は3代将軍を家光でなく、秀長にと考えるようになりました。
徳川家の家臣たちの間も、微妙に揺れ動きます。
この時、2人の息子の父親、秀忠も、秀長が3代目将軍になっても構わない、と思っていたところがあります。
目の前に、利発な子供を見ていると、内気な兄より将軍職に相応しいのかも、と思います。
それに何より、江姫の気迫に負かされたところもあります。
ここにも江姫の気の強さが現れていたのですね。
そこを春日局が、家康に直訴することで、家康が直接乗り出し、「家光が次期将軍である」と宣言して、騒動は治りました。
江姫の子供達
江姫には2番目の結婚で、娘が生まれましたが、その子供は秀吉の手で養子に出されてしまいました。
秀忠との間には、二男五女を産んでいます。
有名な子供を紹介しておきましょう。
最初の子供が 千姫、のちに豊臣家の秀頼のもとに嫁ぎます。
そして、徳川家の後継となった、家光(いえみつ)、次の男子が秀長。
この2人の男子が、徳川家にのちに問題を起こします。
なお、余談ながら、秀長の息子が、かつて人気があった時代劇「長七郎江戸日記」の主人公、松平長七郎なのです。
長七郎は勧善懲悪の正義の味方でした。
五女の和子は、後水尾天皇のもとに嫁ぎ、興子(おきこ)内親王が生まれました。
興子内親王は、109代明正(めいせい)天皇として即位します。女性天皇なのですね。
江姫と家光との親子関係
むしろ江姫の方が家光にあまり愛情を注いではいなかったのです。
家光は、後継者ということで、他の兄弟とは別に育てられ特別な扱いをされてきました。
特に乳母との関係が密接すぎたので、母親の方が入る隙がなかったというべきでしょうか。
実の親でも、簡単に会えず、決められた面会日にしか会えなかったり、と制約がかかります。
その分、下の息子との方が接触が多くなり、どうしてもその子供の方に情が移ります。
それに見た目も、秀長の方が可愛く、活発な子供でした。
母から離されて育ったからでしょうか、家光は内気な性格。
そこでますます、母は子供から遠ざかることになる、結果でした。
それでも、長男は、乳母に大事にされているとはいってもやはり幼い子、母が恋しくなることもあります。
親なのに、子供への愛情に順位をつけてしまったことが、江姫の人気が低い原因です。
最も、戦国武将の家を見てみると、母親が次男の方を可愛く思っているケースが割とあります。
江姫の伯父、織田信長だって、その母は信長の弟の方を溺愛したばかりに、兄が弟を殺害なんて事件がありました。
また、東北の伊達家でも、伊達政宗の母親が、正宗よりも弟 小次郎を可愛がったためにこちらも兄弟争いから、兄が弟を殺害しました。
どこも家も、長男をしっかり育てようとするあまり、養育係につけて母親がノータッチだったために起きた悲劇です。
江姫は火葬に
江姫は、1626年9月11日に亡くなりました。54歳でした。
死亡は9月だったのですが、当時、夫 秀忠と息子 家光は京都だったため、江戸に戻るまで相当に数を要しました。
そのため、2人の江戸帰還を待たずに葬儀が行われました。
徳川家の歴史を描いた「徳川実記」に、葬儀の様子が書かれています。
なかなか、壮麗な葬儀でした。
近代に入る前までの、埋葬はほとんど土葬でしたが、江姫の場合は火葬でした。
現代のように火葬場なんていうところはありません。
野外に荼毘所が設けられ、場所は多分現代の六本木、多分東京ミッドタウンのあるあたりと言われています。
葦と木炭で火を起こし、棺の周りにはぐるっと、沈香を敷き詰めてのた火葬でした。
沈香は極めて高価な香料です。
なんで、そんな高価なものを用いたかというと、秀忠も家光も母親が大切な存在だった、ということと徳川家の威信を示す、ということもありました。
まだ、徳川幕府は誕生したばかりだったからです。
江姫の遺骨は、現代のように小さな骨壷に入れるのではなく、他の将軍、御台所たち同じサイズの棺に入れられ、さらに石造りの棺に入れられ、墓である宝塔に土葬されました。
場所は東京芝の増上寺で、夫の秀忠の棺も並んで収められています。
これは秀忠が亡くなった時から、一緒に葬られていたのではなく、秀忠の墓所が、第2次大戦の東京大空襲で、燃えてしまったからなのです。
第2次対戦後に、江姫の墓の調査が行われたのですが、その時、江姫の骨格が華奢であることが判明しました。
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